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古今東西の宗教・哲学・科学は同じ法則を語っていた ――分離静的な世界観と統合動的な世界観の総論(機械論的自然観と有機体論的自然観の総まとめ)

 わたしたちが普段の日常感覚のなかで経験する世界は、内的関係からなる主体的側面を「心」や「自我」とし、外的関係からなる客体的側面を「物質」や「外界」として、明確に区別してとらえられます。

 そして、「わたし」と「わたしでないもの」という主客の対立を起点として、自分の目の前には外在して対立する机があり、木があり、人間がいて、ついでにオバケもいて、それぞれがたがいに区別された個別の存在として認識されます。
 
 通常の物理学においても、通常、物体は位置や質量、形状などの物理量によって個別に記述されます。このような認識の枠組みでは、世界は「それぞれ独立した物質が集まって構成されている」と考えることが自然です。

 しかし、宗教や神秘主義、哲学、はたまた量子力学が示してきた世界観は、こうした日常的な認識とは異なる、もうひとつの世界のあり方を示唆してきました。それは、世界を互いに独立した「もの」の集合としてではなく、それらを成立させている「関係」や「相互作用」、そして絶えず生成変化する「運動」や「過程」という「こと」の総体としてとらえる世界像です。

 このような古来からの伝統的な自然観の立場に立つと、わたしたちが個別の「もの」として認識している存在は、それ自体で完結した独立した実体なのではなく、関係性のネットワークや川の流れのような広大なひとつの連続した動的プロセスのなかに、一時的に現れているひとつの状態、あるいはひとつのパターンとして理解されます。

 本記事では、古今東西の思想哲学や宗教、科学の根底に共通する、この「統合動的な世界観」を見ていきます。



1.東西の伝統思想を横断すると見えてくる共通構造

 東西の古来の思想や自然観は、内容も歴史的背景も大きく異なります。しかし、大まかに整理すると、次のような共通する構造を見ることができるので、まずはじめにこの法則を整理してみます。

 第一に、わたしたちが認識する個々の存在が、最終的な実在とは限らないこと。

 第二に、存在は孤立しておらず、なんらかの関係のなかで成立すること。

 第三に、変化や運動が、単なる付加的な現象ではなく、存在そのものの成立条件として考えられていること。

 第四に、見える世界の背後に、より根本的な秩序や原理を想定する伝統が存在すること。

 この構造を、ここでは「統合動的世界観」と呼ぶことができます。

 それは、

 世界は「もの」が集まってできているのではなく、「関係・運動・過程」が一時的にものとして現れている。

 という見方です。

2.アニミズム――世界は「物」ではなく「活きた関係」である

 統合動的な世界観は、人類の原始的な自然観であるアニミズムにも見いだすことができます。ただし、現代のアニミズムという言葉だけから、世界中の伝統文化を「すべての物に魂が宿るという単純な思想」と理解するのは適切ではありません。

 むしろ重要なのは、多くの伝統的な自然観において、人間と自然、生命と非生命、主体と環境を完全に切断する発想が中心ではなかったということです。

 山、川、動物、植物、祖先、土地などは、人間から完全に独立した「ただの物体」ではなく、人間と関係を結び、働きかけ、意味をもつ存在として理解されます。そこでは自然は、観察者の外側に置かれた巨大な「もの」ではありません。

 人間自身もまた、その自然の内部に存在するひとつの関係です。この意味で、アニミズム的な自然観には、「世界は死んだ物体の集合ではなく、活きた関係の網目である」という統合的な世界観を見いだすことができるのです。

引用、参考記事


3.古代思想に現れる「流れ」の世界

 「世界の根底には、固定された物体とは異なる流動的な原理がある」という発想は、アニミズムだけではなく、古代のさまざまな文化にも見られます。古代文明の自然観においても、世界は決して無数の独立した「もの」の集合ではなく、より深い次元で結ばれたひとつの流動体として理解されてきたのです。

 その根底には、見えない流動的な作用によって、見える世界が成立するという直観が存在します。

・中国――道、気

 中国思想では、「道(タオ)」が万物の生成変化を貫く根本的なあり方として論じられてきました。また、「氣」は、古代からさまざまな意味をもって用いられ、「風」「蒸気」「息」などとも類比しながら、人間や自然を論じる重要な概念になりました。

 氣が天地万物を流動することで、すべての存在は形を与えられ、つねに変化しつづける動的な世界が形成されます。氣が集まる(聚まる)ことで生命や物体が誕生し、散じることで消滅・変化するという『気の聚散』こそが、万物の生滅の根本原理であると考えられました。

 とりわけ陰陽は、単純な「ふたつの物質」ではありません。陰と陽は互いに対立しながらも相補的であり、収縮と膨張、静と動、内と外といった関係のなかで自然の変化を説明します。つまり、世界を「ふたつの固定されたもの」に分割するというより、ふたつの極が関係しながら循環する過程としてとらえることができます。

・インド――ブラフマン、アートマン、プラーナ、仏教

 インド思想、とりわけウパニシャッドからヴェーダーンタへと発展した思想では、個別的な自己と宇宙の根本原理との関係が深く論じられました。

 後の発展した思想哲学では、ブラフマンが世界の究極的な実在として位置づけられ、個別的な自己であるアートマンとの同一性が主張されます。そこでは、日常的に経験される複数性を、究極的な実在そのものと同一視しない立場が形成されました。

 また、こうした哲学において「ヴァーユ」や「プラーナ」は、宇宙の根本原理であるブラフマンから生じたもの、あるいはその変異・現れとして深く結びついています。「風」や「息」などを意味するこれらの流動的な生命力は、すべての生き物や自然に満ちている根源的なエネルギーです。

 生命や呼吸と密接に関わるこのプラーナの概念において重要なのは、万物を静的な物体としてではなく、「流動的に結びつき維持されるものとしてとらえる」という発想です。 

 一方で、こうした実在論(ブラフマンやアートマン)を批判し、徹底的な「流動性」を提示したのが仏教です。仏教では、固定不変の実体(アートマン)の存在を否定する「無我」を掲げ、すべての現象は原因と条件(因縁)の相互関係によって生滅・変化しつづける「縁起」であるととらえました。なにかひとつの根本原理から万物が作られるのではなく、万物が独立かつ固定した実体をもたないまま、互いに影響をおよぼし合い絶えず移り変わっていく、「無常」や「空」という動的な世界観を確立したのです。

 ヴェーダと仏教の思想は、究極的には世界の根本法則として独立不変の原理を設けるか、設けないかの違いはありますが、いずれにしても、表層の固着した実体観(分離静的観)を解体し、全体が連動する流動的なプロセス(統合動的観)へ直面することをうながすものなのです。

・古代ギリシア――プネウマとロゴス

 古代ギリシアにも、興味深い類似があります。プネウマも「息」や「風」を意味し、世界や身体を説明する重要な原理としてあつかわれました。プネウマは物体を結びつけ、その性質や生命活動を支えるものとして考えられ、内向きと外向きの運動による「張力」をもつものとして説明されています。

 ここでは、物体がまず存在して、その後に運動するのではありません。むしろ、運動や緊張そのものが、物体をひとつのものとして成立させているという発想が現れています。

 さらに、こうした「息」や「精気」によって世界が結ばれているという視点は、古代後期の思想にも深く引き継がれました。新プラトン主義では、究極の実在(一者)から万物が湧き出るように展開する「流出説」が説かれ、プネウマや世界霊魂(アニマ・ムンディ)が上位の精神世界と下位の物質世界を媒介し、循環させる役割を果たしました。

 また、ヘルメス主義においても、「下にあるものは上にあるものの如し」という命題に象徴されるように、大宇宙(マクロコズム)と小宇宙である人間(マイクロコズム)が見えない精気の巡りによって照応・同調していると考えられました。

・ヘブライ、アブラハム系思想――風、息、霊

 ヘブライ語の「ルーアハ」も、風・息・霊といった意味をもつ語として知られています。

 「風」と「息」と「霊」が同じような語彙領域に属するということは、古代人にとって生命や自然の働きが、「見えないが流動的に作用している動き」としてとえられていたことを考える手がかりになります。

4.近代科学は、この世界観と反対の方向へ進んだのか

 ここでひとつ重要な問題が生じます。

 近代科学は、主観と客観を峻別することで、主体・主観から独立した物体を外部から客観的に測定し、分類し、ほかの物体から切り離してあつかうことによって大きく発展しました。

 デカルトやニュートン的な近代化のパラダイムに象徴される、機械論や還元主義的な視点は、自然をパーツに分解し、静的かつ機械的な実体の集合として理解するうえで一定の客観的成果をもたらしたのです。

 その意味では、近代科学は「分離静的な世界」を徹底的に精密化したともいえます。しかし、20世紀の物理学に入ると、この単純な物体像だけでは自然を記述しきれないことが明らかになっていきます。

 量子力学では、粒子を古典力学の小さな球のようなものとして単純に理解することはできません。場の量子論では、粒子は場の相互作用や励起として記述されます。もちろん、これは古代思想が量子力学を予言していたという意味ではありません。

 しかし、「見えている個別の存在を、それ自体で完結した物体としてとらえるのではなく、より深い関係や構造から理解する」という方向性には、興味深い類似があります。

 じっさい、量子力学の研究者たちも、古代思想に量子力学との類似性を見いだしていたようです。

5.量子力学と古代自然法則の交差点

 観察対象と観察者が分離できないこと、分離静的な粒子と統合動的な波の二重性、非局所的な相互作用性などの発見は、古代思想と一致する符合を見せました。量子力学の先駆者たちは、みずからの物理学的発見の解釈を古代の自然哲学から着想しました。

 マックス・プランク→世界の背後には大いなる意識や知性が存在し、あらゆる物質は単なる構造ではなく動的な場の現れであるととらえました。これは、プラトン主義や知性単一論に関連する思想哲学ですね。

 ヴォルフガング・パウリ→ユング心理学とも接近し、精神(意識)と物質が不可分の深層領域で結びついている可能性を探求しました。

 ニールス・ボーア→陰陽説に触発され、「対立するものは相補的である」とする相補性原理を唱え、家紋に太極図を採用しました。

 エルヴィン・シュレーディンガー→ ヴェーダに影響を受け、個別の意識や物質は多元的な錯覚であり、本質的にはひとつの全体的意識やプラーナの流動であると洞察しました。

 ヴェルナー・ハイゼンベルク→ 著名な詩人タゴールからインド哲学を学び、その内容が量子力学の概念枠組みに適合することに気がつきました。

 デヴィッド・ボーム →ジドゥ・クリシュナムーティら東洋の思想家と交流し、個々人の意識・心を含めた宇宙全体を分離不可能な動的プロセスとみなす「ホロムーブメント(全体性の流れ)」や、万物が互いに畳み込まれ結びついている「内蔵秩序」の理論を展開しました。

 湯川秀樹 → 老子や荘子などの老荘思想から強い着想を得ました。素粒子の奥にある未分化な状態を『荘子』の「渾沌(こんとん)」になぞらえ、素粒子の生成・消滅の場となる「素領域」の構想へと繋げました。これによって、従来の西洋的な「無限に分割できる連続的な時空」の限界の打破を試みました。

 フリチョフ・カプラ → 現代物理学と東洋思想(道教・仏教・ヒンドゥー教)の符合を体系化しました。素粒子の生成と消滅の相互作用をヒンドゥー教の「シヴァ神のコズミック・ダンス」になぞらえ、世界を固定した物体ではなく「織物のような相互依存ネットワーク」としてとらえました。

 ヘンリー・スタップ → 仏教哲学などを参照しつつ、「第一義的に実在するのは物質ではなく意識であり、物理的現実は可能性の波から意識の選択によって立ち現れる」というモデルを提示しました。

 アミット・ゴスワミ → 理論核物理学者として「量子観念論」を提唱しました。ウパニシャッドやヴェーダ思想と量子力学を融合させ、「意識こそがすべての根底にあり、物質はその現れにすぎない」とする宇宙観を展開しました。

6.まとめ

 これまで多角的な思想を比較してきたように、わたしたちが普段知覚している「分離静的」な世界は、人間の認知がとらえた表層的な像にすぎないのかもしれません。この立場では、固着した実体や孤立した現象というとらえ方は、自然の本質を見落とした視点といえます。

 古代思想における「息」や「氣」といった流動的なエネルギー観、仏教が説く「縁起」、そして現代量子力学が示す「全体的プロセス」——これらはすべて、同一の自然法則をそれぞれの言語で表現したものと考えることができます。

 つまり、「宇宙とは切り離されたオブジェクトの集合体ではなく、深層で分かち難く結びつき、絶えず生滅変化しつづける動的プロセスの現れである」ということ。これこそが、古今東西の知性が共通して到達した世界の真実の姿なのです。

7.宇宙の根源を「無際限に統合動的された究極的な未分化状態」と考えれば、矛盾する自然原理もひとつに統合できるよ(番外編)

 
 一神教やプラトン主義、ヴェーダなどで示される、絶対的で超越的な「一(究極の実在)」と、アニミズムや仏教の縁、道教などで示される、相対的で流動的な「多(相互依存の関係性)」。

 一見すると対立するこのふたつの自然原理は、決して互いを排除するものではなく、同じ「無際限に統合動的化された未分な領域」がもつ相補的なふたつの側面(表裏一体の相)としてみることができます。

 無際限の未分性ゆえに、それはほかのなにものにも依存しない自立自存した絶対者、究極の一者であり、永遠であり、不変・無限・普遍であり、完全で全能であると表現できます。そして存在そのものが究極の叡智と知識を体現するものとして理解されます。この状態はすべての起源であり、また終焉でもあり、時間と空間の制約を超えた普遍的真理ということができるのです。

 また、反対に、相対的視点から眺めれば、自立自存し、固定不変なものは存在しないという知見も得られます。それは究極的に未分で相互依存の状態であるゆえに、あらゆる存在が互いに関係しあい、平等に支え合いながら一体としてなりたっているともいえます。

 そこには独立した個が単独で存在するのではなく、すべてが全体の動態のなかに包まれ、全体がすべてのなかに息づいています。個と全体が分かたれることなく同時に成立しているため、それは「無限の連関」あるいは「縁起」、「空」、「天人相関」ともいい換えることができます。

 また、聖書の神、道教の道(タオ)、大乗仏教の真如といった、本来的には言詮(言語表現)を超越し定義できない究極の概念も、この「未分の場」の現れとしてとらえることで、矛盾なくひとつに統合されます。

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 科学者がスピってんじゃないよ💢💢という想いもありますが、古代の賢人や近代哲学者にしても頭のいい人たちが似たような答えに辿りついたことには驚かされるものがあります(終)