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グラント・ウッド(Grand Wood)の妻と恋人。マジックリアリストの苦悩❘芸術家の恋人たち

アメリカン・ゴシック』で有名な20世紀初頭の米国の画家グラント・デヴォルソン・ウッド。
美しい色彩の写実的な田園風景は、リージョナリズムの代表作品でアメリカ近代美術を注目させた。

偉大な芸術家には献身的なパートナーが常に必要だが、ウッドの私生活は謎に包まれたままである。

ウッドの妻 サラ・シャーマン・マクソン


サラとウッド
引用元

1935年 ウッドが44歳の時、7歳年上のサラ・シャーマン・マクソンと結婚した。
サラはアイオワ州出身で、1920年代にインディアナ州の美術学校の校長をしていた。それ以前はニューヨークでオペラ歌手としても活躍していたらしい。
しかし、1930年代の大恐慌の影響で学校は閉鎖し、息子の住んでいるミネアポリスに移った。
サラにとってはウッドとの結婚は2度目である。
サラとウッドがミネアポリスで二人だけで結婚式をあげたのは、周囲の人たちは反対していたからだ。二人は芸術嗜好が似ていたので結婚したのだが、性格は全く正反対で、ウッドには同性愛者であるという噂がすでにつきまとっていたのだ。
ウッドは10歳で父親を亡くし、その後はずっと母親と暮らしていたが、この結婚で二人のためだけの家を購入し、暮らし始めた。

ウッドとサラの結婚生活の破局

Parson Weems' Fable, 1939
引用元


しかし周囲の予想通り、たった4年足らずで離婚をしてしまった。
離婚の原因はウッドは寡黙な性格であったが、サラは自己顕示欲の強い女性であったことや、プラトニックな結婚生活であったのではないかと推測されている。
また、ウッドの母親はウッドの結婚から7ヶ月後に亡くなっているが、その時のサラの冷淡な態度や、ウッドが悲しみのため鬱状態が続いてしまったこととも言われている。
このような話からすれば、サラは才能ある芸術家を支えるパートナーとしてふさわしくなく、彼女に非があるように思われる。
けれどサラの立場から見れば、ウッドの2面性についていけなかったのかもしれない。
ウッドはアイオワ州立大学で尊敬されてはいたが、教え方は独裁的で融通が効かないと抗議の署名が集まったこともある。
またウッドは内気で物静かな性格ではあったが、自分を売り込む術には長けていた。
自分のイメージを素朴なアイオワ出身者に見せるため、農業に従事していないのに、農作業スタイルのオーバーオールを着た肖像画を出したりしている。また、インタビューのときは「作品のアイディアは乳搾りの最中によく思いつく」などの冗談めかした会話は、自分を偽るというよりビジネスのために諂うと、サラはかんじていたのかもしれない。 

グラント・ウッドの恋人

Arnold Comes of Age 1930
引用元

ウッドの恋人が誰であったのかは、はっきりはわかっていない。
しかし、まず恋人のひとりとしてあがるのが、アーノルド・パイルである。

アーノルドはウッドの元教え子の一人で、彼の助手となったとき18歳だった。(ウッドは36歳)
黒髪高身長のイケメンで、スポーツ万能であるアーノルドは、ウッドの理想の恋人で、何度も同じようなスタイルの男性に恋に落ちたようだ。
ただアーノルドとの関係は単なるウッドの片想いに過ぎなかったとも言われているし、年が離れていたので父性愛であると恋心を隠蔽していたとも言われる。

ウッドの一家はクエーカー教で同性愛を禁じてはいなかったので、ウッドの母と妹は子供の頃からの彼の同性愛嗜好に理解があった。
そして1920年代にパリへ行った時にゲイ文化に触れ、同性の恋人をつくり、親しい友人には自分は同性愛者であることを打ち明けていたらしい。

Sultry Night ( 部分)1939
引用元

もう一人名前があがる恋人はパーク・リナードである。彼は大学院生であった23歳の時、ウッドの秘書となる。サラと結婚した年にパークを雇っているので、サラも夫好みの男性にうろちょろされて、ヤキモキしたことであろう。
サラと離婚してからはパークと一緒に住み、ウッドの未完の自伝『ボヘミアからの帰還』のゴーストライターも努めた。
そしてウッドが50歳で癌のため亡くなった時に、彼を看取ったのはパークであった。

グラント・ウッドの苦悩

Spring in Town 1942
引用元

地元ではウッドはゲイであるのは周知の事実であったのに、公では恋人の男性との関係を「奇妙な」「曖昧な」と表現されていた。
それはウッド自身が自分は同性愛者であることを公表しなかったからであり、彼の妹がゲイ疑惑をふっかけられると、強固な姿勢で訴訟に持ち込んだからであろう。

ウッドは古き良きアメリカの風景を愛した。だからこそ新しいスタイルでアメリカ中西部を表現していったのだ。
しかし、その古き良きアメリカの風景のある土地では、彼の性嗜好はふさわしくないものだった。ゲイであることを公表してしまえば、画家としての生命が終わるのを理解していたからだ。
保守的な嗜好に従わなければ、自分の芸術性を認めてもらえない現実に、さぞ悩み苦しんだだろう。
ウッドが50歳という短命だったのは、酒や煙草を浴びるほど飲まなくてはならないほど、精神は追い詰められていたのかもしれない。

参考
https://www.crma.org/collections/permanent-collections/Grant-Wood
 
https://www.queerarthistory.com/love-between-men/grant-wood-1891-1942/
 

https://glreview.org/article/grant-wood-left-tipoffs-all-over/


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