見出し画像

潮風の吹くバス停でひとり待つ女は昔恋をしていた

 夏休みももうすぐ終る8月のある日。僕は海を見下ろす小高い丘でバスを待っていた。
 父親の仕事の関係で去年の春にこの港町に引っ越してきたけど、友達はひとりも出来なかった。僕はクラスのみんなと交わるのが苦手だ。一度誘われて級友の家に数人で遊びに行ったことがあるけど、僕は何にも話すことがなくて、彼らの話を愛想笑いを浮かべて聞いてるだけだった。彼らは僕の知らないゲームの話とか洋楽の話をしていてまったく話題が合わなかった。ほとんど喋らず家に帰るとどっと疲れが出て寝込んだ。それ以来友達と遊んだりしていない。
 そんな僕にとっての唯一の楽しみは小説を読むことだった。物語の世界に入っていれば生き辛い現実を忘れることができる。一学年三クラスしかない小さな高校で、そうやって読書の習慣を持つ者は僕しかいなかった。
 僕の家は幼いころに父と母が離婚して、父親との二人暮らしだった。父は厳格でスマホもゲーム機も与えられなかった。ほぼ通話しか使わない格安のガラゲーを持たされていた。おまけにテレビもパソコンもなかった。
 そのため、娯楽の少ない僕にとって図書館から本を借りて読むのが楽しみだったけど、町の小さな図書館は目ぼしい本はほとんど読み尽くしてしまったので、隣街の図書館まで借りに行くようになった。そこは県内で一番大きな図書館で、二階建てで一階がカフェと学習スペース、二階に蔵書スペースがあり、一日中いても飽きなかった。他では見ることが出来ない珍しい本や雑誌、僕の好きなクラシック音楽のCDもたくさん置いてあった。


 僕は停留所の裏のガードレール越しに遠くの太平洋を眺めた。 心地よい潮風が汗ばんだTシャツを乾かしてゆく。
(今日は詩集でも借りてみようかな)
「あの、すいません。ちょっと聞いてもいいかしら?」
 突然、後ろからハスキーな女性の声がして振り向いた。そこには白いワンピースに麦わら帽子を被ったすらっとしたきれいな女性が立っていた。赤みがかった茶髪に目は青い。ハーフだろうか? 両手でボストンバッグを持っている。
「ごめんなさい。驚かせてしまったわね」
「いえ」
「S市行きのバスってここに停まりますよね?」
「はい。S市行きのバスならここで間違いないですよ。僕も待ってるんで。もうすぐ来ると思います」
「ありがとう。教えてくれて」
 彼女はペコリと頭を下げた。甘やかな香りがした。
「いえどうも」
「いいわね。この町は」
「そうでしょうか? 何もありませんよ」
「きれいな海があるじゃない。……きみ、高校生?」
「はい。今は夏休みでS市の図書館に本を借りに行くところです」
「そう、読書家さんなのね。偉いじゃない」
 僕は少しドキマギながら言った。
「うち、父が厳しくてスマホもゲーム機もないんです。だから本を読むしかなくて」
「へえ、今時珍しいのね。でも若いうちに本を読むってとってもいいことよ。柔らかい頭がスポンジのように知識を吸収するから。きっとあなたの人生を豊かにしてくれる」
「あ、ありがとうございます」
 本を読んでいることを褒められたのは初めてだったのでうれしくなった。もっと何か話そうと思っているうちに向こうからバスが来て、僕らの前でプシューっと音を立てて停まった。
 お姉さんの後に続いて乗り込む。過疎の町のことなので乗客はおばあさん三人とおじさん一人だけだった。僕は何となくお姉さんの後をついていった。お姉さんは一番奥の左側に座った。僕は遠慮して離れた所に座ろうか迷っていると、お姉さんが手招きしてくれたので彼女の隣に座った。
「一人の方がよかった?」
「いえ。こっちがいいです」
「ならいいわ」
 バスが発進して暫くしてから聞いた。
「あの……。お姉さんは観光客ですか?」
「そう見える?」
「ええ。なんて言うか、この辺では見ないようなきれいな方なので、都会から来た観光客かなあと思いました」
「ふふふ……そうよ。東京の米花町から来たの」
「やっぱり。失礼ですがハーフなんですか?」
「ええそうよ。この髪も地毛。アメリカにいたときはいじめられたこともあったけど、日本じゃ好まれるようね」
 彼女は軽くウェーブのかかった髪を指先に絡めながら言った。
「とても素敵な髪ですね。まるで……」
 僕は彼女の髪の色から美術の教科書に載っていた印象派の画家、ルノワールの描いた少女の絵を思い出した。両手を揃えて体の左側をこちらに向けている14歳ぐらいの可憐な少女。何て言ったっけ……?。
「ルノワールのイレーヌ嬢みたいな髪かしら?」
 僕は手を打った。
「そう、それです。たしかイレーヌ・カーン・ダンヴェル嬢ですね」
「可愛いわよね。私、あの絵を見るとドビュッシーの亜麻色の髪の乙女を思い出すの」
「なるほど。たしかに亜麻色の髪の乙女ですね」
 亜麻色は日本古来の和名ではなかったはず。だから多分、あの絵のような色だ。
「絵が出来たのが20年も先だけど、ドビュッシーはサロンに出入りしていてルノワールと交流があったみたいだし、あの絵を見て曲想がひらめいたのかもしれないわね」
「ええ、そうかもしれませんね。実は僕も亜麻色の髪の乙女が大好きです」
 僕が最も好きな作曲家がドビュッシーだし、この曲もCDで繰り返し聴いていたのだ。
「あら、私たち案外気が合うんじゃないかしら」
「はいっ」
 さっき出会ったばかりなのに、すっかり意気投合したような気がして自然と笑みがこぼれた。 
「これからどちらへ行かれるんですか?」
「特に当てはないけど北の方へ行こうと思ってるわ。北海道の明日萌とか」
「いいですね北海道。僕はまだ行ったことがないけど……」
 彼女は窓の外を眺めながら言った。
「……私ね。半年前に失恋しちゃったの。今は傷心旅行ってとこかしら?」
 僕は驚いてしまった。こんなきれいな人でも失恋するんだ。
「……そうなんですか」
 僕はそれ以上なんて言っていいか分からなかった。次の言葉を探して迷っていると、彼女の方から話しかけてくれた。
「あなたは本が好きなのよね。どんな本を読むのかしら?」
 本の話をする相手なんていなかったのでうれしくなった。
「はい、色んなジャンルの本を読みますが今はミステリーにハマってます。シャーロックホームズとかアガサ・クリスティとか」
「いいわねミステリー。私も好きよ」
「いいですよね。今は江戸川乱歩の孤島の鬼を読んでます」
「江戸川……乱歩……」
 彼女はそう呟くと急に窓の外へ顔を向けた。遥か沖合いに紺碧の海が煌めいている。海と空との境目はぼんやりしている。
 彼女はどうやら物思いに耽っているようなので、僕も黙っていることにした。バスの中は冷房が効いて寒いほどだ。
 しばらく経ってからふと気になって彼女の横顔を見ると、その瞳から一筋の涙が流れ落ちているのに気づいた。僕は驚いた。
「あの……大丈夫ですか?」
「ありがとう……ごめんね。変なとこ見せて」
 彼女は白いハンカチを取り出して涙を拭った。
「いえ、何か気に障るようなこと言ってないですよね?」 
「そうじゃないのよ。ただあなたが江戸川乱歩って言ったとき、昔好きだった人のことを思い出したのよ。彼もミステリーが好きでね」
「そうだったんですか」
「でも気にしないで……これは哀しい涙じゃないの。……幸せの涙」
「……幸せの涙?」 
 そんな言葉は初めて聞いた。
「そう、幸せの涙。彼はね、宝物のようなたくさんの思い出をくれた大切な人。だからちっとも哀しくないのよ。彼が幸せになったから」
「幸せに……なったんですか」
「そう、彼ね。ずっと両想いだった幼馴染と結婚したの。とても嬉しかったわ。二人とも大切な人だったから」
「……そんな。それじゃお姉さんは」
「いいのよ。私、最初っから片想いって分かってて彼に恋したんだから。……そりゃ最初の頃は何度も泣いたらわよ。なんでこんな報われない恋をしてるんだろうって、自分の愚かさを呪ったわ。でもね。彼を好きであることを止めることは出来なかったの。どうしても……いっそ嫌いになれたらどんなに楽だろうって思ったけどね」
「そうなんですか」
「でね。彼私のことを相棒って言ってくれたの。一緒に事件を解決したりしてね。彼とはずっと居心地のいい関係のままでいようと思ったの。だから私が告白して関係が変わるのが怖かった……だけど彼も気づいていたかもしれないわね。私の気持ちに……」
 そう言うと彼女はまた窓の外を眺めだした。
 僕は今まで読んだどんな本よりもお姉さんの話に感動した。僕はまだ恋をしたことがないけれど、お姉さんみたいに人を好きになってみたいと思った。たとえうまくいかなかったとしても……。
 僕はお姉さんともっと話していたかったので、図書館前にバスが近づいたけどわざと「降ります」ボタンを押さなかった。
「いいの?……降りなくて」
「ええ。あなたの話を聞く方が本よりも大事です」
「そ」
「あの。お名前を聞いてもいいですか?」
「私は灰原愛。灰色の原に愛するの愛。あなたは?」
「僕は小見泉真治っていいます」
「そう、真治くんね。……私が彼と出会ったのも真治くんと同じぐらいの歳よ。私が18で彼が17のとき。もう遠い昔のような気がするわ」
「なんか切ないですね」
「ええ、でもね。彼を好きになって本当に良かったと思うの。彼を好きにならなければこんな気持ちも知らないままだった。それってとても寂しいこと。私、この気持ちと向き合いながらこれから生きていくわ……。あら、何だか心の整理する旅だったけどあなたに話してすっきりしちゃった。ごめんね。変な話を聞かせて」
「いえ、とてもいい話を聞かせてもらいました。僕は人付き合いが苦手でいつも逃げてばかりだったんですが、なんて言うかその、ちゃんと向き合ってみようかなって思いました」
「そう、ならよかった」
 灰原さんはやさしく微笑んだ。
「それに……僕も恋をしてみたくなりました。僕はまだ恋をしたことがなくて」
「大丈夫……あなたにもそのうち好きな人ができるから」
「はい」
「私ね。この気持ちを詩に書いてみようと思うの。日本中を旅して色んな所へ行って。そこで見た景色や出会った人。心に浮かんだ気持ちをね。あなたのこともきっと書くわ」
「それは光栄です。灰原さんがどんな詩を書くのか楽しみです」
「ありがとう。もし出来たらネットにでも投稿してみるわ。灰原愛で」
「ではパソコンを借りて検索してみます。灰原愛で」
「ええ。私、次ので降りなくちゃ」
 彼女は片手を伸ばして「降ります」ボタンを押した。
 僕はドキドキしながら思いきって言った。
「……あの、あなたに出会えて良かったです」
 顔が赤くなるのが分かった。
「ふふふ。可愛いわね。……いつかどこかでまた会えるといいわね」 
「はい」
 ついにバスは停留所に停まったので、僕は立ち上がって彼女を通した。
「じゃあね」
 そう言って彼女は片手を差し出した。僕はそっと彼女の手を握った。彼女の白い手はしっとりしていて冷たかった。
「お元気で……あの……僕も灰原さんみたいに詩を書いてみます」
「そう。楽しみね。……それじゃ」
 そう言って灰原さんはバスを降りて行った。もう二度と会うことはないかもしれない。だけど僕は詩を書けば灰原さんの世界と繋がることが出来ると思った。


※名探偵コナンのパロディです


いいなと思ったら応援しよう!

島風ひゅーが 素晴らしい記事ですね♪