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トルコ・アンカラ滞在42周年 〜 アタテュルク逝去87周年


「前口上」, トルコ・アンカラ滞在42周年 〜 アタテュルク逝去87周年

1983年4月26日, 拙者(俺の家系は江戸時代・農民の出なのに「拙者」, 笑)22歳7か月15日の時に日本を発ち, ここからいきなり中略, で, 同年11月8日にそれまで2度訪れ計5週間滞在したトルコ最大の都市イスタンブールを20時55分発の夜行列車で発って, 同国の首都アンカラに着いたのは翌11月9日朝8時頃(イスタンブール発の時刻が分単位で アンカラ着が「頃」なのは 単に当時の旅日記に「頃」としか書いてないから)。

そういうわけで, 拙者, たまたまではあるのだが, オスマン帝国・第一次世界大戦敗退後の「近現代」トルコ「建国の父」とされるトルコ共和国・初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk, 1881年5月19日生まれ - 1938年11月10日他界)他界・死去・逝去45周年の日に, 同国の首都アンカラにいたのだった。

因みに, 拙者が学校で習った遥か昔の日本語では「オスマン帝国」は「オスマン・トルコ」もしくは「オスマントルコ」もしくは「オスマン=トルコ」だった。当事者・当事国がその種の名称を自称したことはないし, そもそも多民族国家だったわけだし等々の理由で遅くとも今世紀に入ってからは「オスマン帝国」に。

ん? ってことは 拙者が42年前にトルコを旅していた頃は(ってか今は亡き, というか今は無きソ連や欧州, 「西洋」連中が連中の言葉で「中東」と呼ぶ西アジア諸国ほかアジア諸国などを旅していた頃は), 日本語における今現在の呼称「オスマン帝国」の呼び名, 表記は, まだ「オスマン・トルコ」もしくは「オスマントルコ」もしくは「オスマン=トルコ」だったわけか。

不正確な呼び名ながら, 今も馴染みがある「オスマントルコ」。「教育」という名の「刷り込み」, 恐るべし。

合唱 .. 流石にここでこれは 飛躍, 飛び過ぎだろう。「飛びます、飛びます」, 坂上二郎, 合掌

これじゃまるで話が「飛んで, 飛んで, 飛んで」ですね。では 円広志, 「忘れてしまいたいことが」で始まるのに正直タイトルはすぐ忘れてしまってあらためてググらないと思い出せない「夢想花」の助けを借りて, とんで とんで とんで とんで とんで とんで とんで とんで とんで 回って回って, 回って 話を戻し ..

再び「因みに」, アンカラ滞在は 2泊3日, 3日だけだった。その後は, 1983年11月11日, 今から42年前の明日, トルコ共和国の首都アンカラを夕刻5時発, 所要21時間の夜行バスで発ち, 東の隣国イラン・イスラム共和国(これは1979年以降の名称)との国境の街, キリスト教の御伽噺の「ノアの方舟」が行き着いたとされる(一部の人たちからそう信じられている!)アララト山が見える街, ドグバヤジッドへ。

22歳, いやその時は既に23歳になっていた(*1), 「西洋」連中曰く「極東」の国の23歳の青年の旅は, アンカラから更に, 東へ, 東へ。

東へ東へ

「東へ西へ」だった(泣)(嬉し泣きならぬ懐かし泣き)。

前口上, 長過ぎた。

長過ぎたのに, 脚注付き。

*1

いやその時は既に23歳になっていた

ではでは。

アンカラ, 1983年11月10日 〜 「現代トルコの国父」 アタテュルク逝去45周年の日に撮った街の写真4枚

アンカラ, 1983年11月10日 〜 「現代トルコの国父」 アタテュルク逝去45周年の日に撮った街の写真4枚

本章本節は, 1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅 note 集(今日の最終章にリンク)の中のひとつ, 下掲 note の第4章から「ほぼ」丸写しの転載。

アンカラでは あまり大した写真撮れてないけど(笑)。この日は, オスマン帝国の崩壊後の「現代トルコの国父」「建国の父」ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk, 1881年5月19日生まれ - 1938年11月10日他界), 彼の逝去45周年だったのでありました(「アタテュルク」は「父なるトルコ人」を意味する称号)。

以下に関しては, 次節に補足的な注釈を。

一応, 当然ながら彼の功績とは何だったのか, その大筋は掴んでおいてからトルコの地を訪れてはいたけれど(その一件だけで済ませられないけれど, あえて一件につき書くと, アタテュルクは要するに国の統治の在り方として「政教分離」させる理性の持ち主だったのだ, 彼の功績がなかったらトルコも他の決して少なくないイスラム圏諸国もしくは地域と同様に, 例えば街でヒジャブを被らない女性が逮捕されたり, LGBTQの人たちとかあるいは婚前(性)交渉が発覚した人たちが公開ムチ打ち刑に処されたりするような類のイスラム神政国家になっていたかもしれない; もっとも 2021年現在のトルコの大統領エルドアンのやっていることはそちら方向をも一部包含するようなヤバさがあるけれども, カッコ内最後は脱線!), さて,

天才, いや 転載, 続く。

アタテュルクについては, ここでは横着してウィキペディアへのリンク貼っちまって了, その下に38年前, 1983年11月10日の アンカラ市街の写真4枚!

1. この写真はちょっとヨーロッパの何処かの国の街並みに見えたりするかも。

2. アタテュルクの像

3. どこの国のどの街に行っても, モノが売られ買われている場所は 大抵それなりに面白い。どうして?(笑)

4. 再び, アタテュルクの像を眺めてみよう!

さてさて,

次章は 旅日記です。

「旅日記」に関しては 今日も次章で

ではでは, 上段で言及の「補足的な注釈」へ。

補足的な注釈

前節にて,

一応, 当然ながら彼の功績とは何だったのか, その大筋は掴んでおいてからトルコの地を訪れてはいたけれど(その一件だけで済ませられないけれど, あえて一件につき書くと, アタテュルクは要するに国の統治の在り方として「政教分離」させる理性の持ち主だったのだ, 彼の功績がなかったらトルコも他の決して少なくないイスラム圏諸国もしくは地域と同様に, 例えば街でヒジャブを被らない女性が逮捕されたり, LGBTQの人たちとかあるいは婚前(性)交渉が発覚した人たちが公開ムチ打ち刑に処されたりするような類のイスラム神政国家になっていたかもしれない; もっとも 2021年現在のトルコの大統領エルドアンのやっていることはそちら方向をも一部包含するようなヤバさがあるけれども, カッコ内最後は脱線!), さて,

の上に, 「以下に関しては, 次節に補足的な注釈を」と書いた件。

他の決して少なくないイスラム圏諸国もしくは地域と同様に, 例えば街でヒジャブを被らない女性が逮捕されたり, LGBTQの人たちとかあるいは婚前(性)交渉が発覚した人たちが公開ムチ打ち刑に処されたりするような類のイスラム神政国家

というのは, 時期や地域などで程度の差あれど, まぁ サウジアラビア(サウジアラビア王国!)とか, サウジとはいろんな意味で違う国で仲もわるいイラン(イラン・イスラム共和国)とか, 女性が首相になったこともある一方でイスラム原理主義のハードライナー要するに宗教原理主義の強硬派が相当数いるパキスタン(パキスタン・イスラム共和国), あるいはインドネシア共和国の州として唯一 イスラム法(シャリーア)による州条例を制定する自治権が認められている同国のアチェ州, 等々を念頭に置いていたんだけど, 

そして, 拙者自身, シンプルに言えば「神政国家」反対「政教分離」賛成「政教分離」あたり前の無宗教者まぁ無神論者と言っていいんだけど(しかし取り立てて「イスラム嫌い」などではなく, 要は宗教全般に対する批判者),

しかし世の「無神論者」とりわけ「西洋」連中の中の「無神論者」とか, あるいは元ムスリムの「無神論者」には, 無視できないレベルの, いけ好かない連中が少なくない。何しろ連中(いけ好かない連中), 単に「イスラム憎し」もしくは「イスラム嫌い」もしくは「イスラム反対」もしくは「私は無神論者」などなど, それだけでイスラエル支持みたいな正真正銘の莫迦, 大バカ野郎がいたりもして(イスラエル人の中には「無神論者」の立場からしても「オイオイ!」的な ユダヤ教信者ならぬユダヤ教「狂信者」もいるし, 一方で世のイスラエル支持者やシオニストには福音派など「キリスト教信者」要するにクリスチャン・シオニストも多く含まれるのだが)(そしてそもそも, パレスチナ人にはムスリムでない人もいるし, 「そもそも」で言うなら, まさにそもそも, いわゆる「パレスチナ問題」「イスラエルによる問題」は宗教の問題ではない)。

下掲 note の第3章は「無神論者の一部(元ムスリムを含む) 批判, イランのイスラム共和国政府に反対の人の一部 批判

ではでは。

アンカラ, 1983年11月9-11日 〜 「現代トルコの国父」「建国の父」 アタテュルク逝去45周年の日を挟んで, 2泊3日(旅日記)

旅日記, やっぱ 書いてて良かったよ。と書きながら, 詳しくは,

以下の 第5章で(当時の旅日記「写真」掲載)。

では, 今日の最終章へ。

1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅, note リンク集

1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅, note リンク集

これです。

パレスチナの旅 〜 1983年秋 (写真, 旅日記 ほか)

前章(前節ではなく前章)で 「パレスチナ問題」(「イスラエルによる問題」)に触れたので, これも。

併せて, これも。

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