42年前の今頃 〜 ガザ地区(被占領地パレスチナ) に いた
ガザ地区にいたのは 3日間, 2泊3日滞在したに過ぎない。パレスチナ(と「48イスラエル」*)全体でも 3週間。1983年4月から翌1984年2月にかけてのソ連(今は無き「ソ連」)・欧州・中東(西アジア)・アジア諸国を巡る旅の中の一部分。しかし 3週間とはいえ, 当時の旅日記を読み返すとあらためて思い知るのだが, 見るもの聞くこと全て, 頭にも心にもずっしりと重たく迫ってくるものがあり, とにかくハードな旅だった。
以下は, 第1章にリンクを置く旅行記 note「ガザ地区, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月16-18日」(2021年11月12日 投稿)の前文。
パレスチナのガザ地区は現在の軍事封鎖下の環境と違い, (当時も今も変わらずイスラエルの軍事占領下にある)パレスチナのヨルダン川西岸地区と同様に, 当時はやはり軍事占領下の地域だった(もちろん同じくイスラエルによる!イスラエルのせいで説明が毎度毎度ごちゃごちゃする地域だね)。
1983年4月26日に日本を発ち, ソ連・ヨーロッパ諸国を旅し, 1ヶ月いたギリシャを発って中東(西アジア)諸国の旅を始め, トルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの国内を旅した後, ヨルダンの首都アンマンを出て, 陸路, 「歴史的パレスチナ」地域(については本 note 第2章)のヨルダン川西岸地区に入ったのが 同年9月28日。その後, 10月18日に2泊3日滞在したガザを出て, 陸路, 次の目的地であるエジプトの首都カイロに向かった。結局, パレスチナ/イスラエルの旅は 3週間の旅だった。
*「48イスラエル」については, 今日の第3章にて。
ガザ地区, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月16-18日
以下, 当時 ガザで 撮った写真(6枚)や, ガザ滞在中の見聞録・旅日記(18頁分)など。写真は note リンクの下にも再掲。
ガザの海岸, 1983年10月16日 … この海は, 海岸は, いつになったら 平和な(かつ自由や人権が普通に存在する)場所になるだろう?

オレンジ色のミニ・バスは, スクール・バス。

何やらゲームに興じるパレスチナ人のおじさん達, それを覗き込む, あるいは興味深く見る, あるいは其処に寄り添う子供たち。その後の(それ以前も!)彼らの人生が直面する困難(生と死と日々の諸々)には, 想像を超えるものがあるに違いない。

コカ·コーラは世界中どこでも。人呼んで, 「コカ·コーラ帝国主義」。

真ん中が 当時23歳1ヶ月の日本人バックパッカー(筆者), 公称165 いや 164, 還暦もとうに過ぎ今現在はさらに縮んでいる可能性がある。

1983年10月17日, 親しくなったパレスチナ人(此処はもちろんパレスチナだがガザは特に難民が多い, つまりガザ地区以外のパレスチナの地域あるいは今の「イスラエル」領内からの難民が多い)の家で。

右から2番目はパレスチナ人でない(筆者!)。まぁしかし, パレスチナが いつか, パレスチナ人を中心とした多民族による世俗的民主国家の土地になれば, そのうちこんな顔の「パレスチナ人」がいても不思議でなくなるのかもしれない。今現在はそれは「想像の世界」であっても。
「パレスチナ問題」(イスラエルによる問題, シオニズムによる問題)は, もちろん, 2023年10月7日に始まったのではない
パレスチナの「問題」(「イスラエルによる問題」)は, もちろん, 2023年10月7日に始まったのではない
この件は 下掲 note 第1章, パレスチナの「問題」(「イスラエルによる問題」)は, もちろん, 2023年10月7日に始まったのではない --- および, 第3章第2節 1947年のパレスチナ 〜 その前後の歴史, 「パレスチナ問題」(イスラエルによる問題)の "起こり" --- および, 第3章第3節 1948年5月以降のパレスチナ 〜 アメーバのように不定形の新興「国家」イスラエルが侵食, にて。
2023年10月7日 〜 「備忘録」的に
決して忘れはしないが, 「備忘録」的に。
John Mearsheimer on October 7: “ I think most of the Israelis killed were either soldiers, who were legitimate targets, civilians who were killed by the Israeli forces. You cannot underestimate how many Israelis were killed when all that [Israeli] firepower was brought to bear. “ pic.twitter.com/3iqVyJMGUp
— Katie Halper (@kthalps) October 10, 2025
From my discussion with John Mearsheimer and @susanabulhawa https://t.co/gdCSsr7ZOY
— Katie Halper (@kthalps) October 10, 2025
“It’s consistent with international law for Hamas to want to break out of the concentration camp and engage with Israeli military forces in combat, which means they’re going to kill some of…
John Mearsheimer on October 7:
— Thomas Fazi (@battleforeurope) October 9, 2025
“It’s consistent with international law for Hamas to want to break out of the concentration camp and engage with Israeli military forces in combat, which means they’re going to kill some of them. So the fact that they killed Israeli soldiers is… pic.twitter.com/xQFhdwL79m
Katie Halper は ユダヤ系アメリカ人のコメディアン, ライター, 政治コメンテイター, ポッドキャスト "The Katie Halper Show" 司会者。
John Mearsheimer は 政治学・国際関係論を専門とする学者, シカゴ大学教授, (ドイツ系およびアイルランド系の)アメリカ人。
上の YouTube クリップの冒頭部分で議論している Susan Abulhawa は, パレスチナ系アメリカ人の作家(小説家)。専業作家になる前は生物学・医学を専門とする研究者。彼女の両親はエルサレム(旧市街のある東エルサレム)生まれで, 1967年のイスラエルによる侵略(第三次中東戦争)による難民。
Susan Abulhawa については,
下掲 note の第4章 パレスチナ系アメリカ人作家, スーザン・アブルハワ(Susan Abulhawa) による「講義」「抗議」 および,
第5章 西洋「言論の自由」の幻想 〜 スーザン・アブルハワ による言論を, 「世界で最も権威がある(そうだ)」 ディベート・ソサエティ Oxford Union が 恥も外聞もなく 検閲 に。
リンクの下にも,
あらためて Susan Abulhawa のメッセージの一つを。
in the meantime, here is the correction to the politically motivated perversion of the historic record. I remain hopeful the @OxfordUnion will remedy their error in good faith, integrity, and loyalty to the truth above all. pic.twitter.com/GUETmHysh9
— susan abulhawa | سوزان ابو الهوى (@susanabulhawa) December 14, 2024
次章は, パレスチナ(全域)の旅。
パレスチナの旅 〜 1983年秋 (写真, 旅日記 ほか)
パレスチナの旅 〜 1983年秋 (写真, 旅日記 ほか)
当時 撮った写真や 滞在中の見聞録・旅日記等をまとめた note リンク集など。
今日のタイトル上の写真は 1983年9月29日に筆者が撮影, エルサレム(アル=クドゥス)の旧市街にあるダマスカス門の前を歩くパレスチナ人たちを写したもので, 右奥に写っているのは欧米中心のツーリストの団体。なお, 標題の「パレスチナ」は「48イスラエル」(については以下の「前説」にて)を含む。
以下は, 第1章第1節「前説」より転載。
筆者は 年齢にして22歳から23歳の時期, 1983年から翌1984年にかけ, 当時のソ連・欧州・中東(「西アジア」)・アジア諸国を旅した(本章次節に各地ごとの旅行記へのリンク集を掲載)。
パレスチナ及びイスラエル(後者の「イスラエル」は 筆者が便宜的に「48イスラエル」と呼ぶ, 1948年「建国」のイスラエルが 以降支配下に置くテル・アヴィヴ, ナザレ, ハイファ, 西エルサレムなどの地域を指す)を旅したのは, 1983年9月から10月にかけての 3週間ほど。
本 note 投稿では, その旅において訪れたパレスチナ(及び上述「48イスラエル」*1)各地の旅行記へのリンク, 写真の一部等を掲載する。
なお, 念のため先に書いておくと, 本 note 冒頭で掲載写真の説明の際に触れた「エルサレム旧市街」は「東エルサレム」に含まれ, この地域は 1967年6月のイスラエル(1948年「建国」)による奇襲攻撃(「第三次中東戦争」, 結果, イスラエルが東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区, さらにエジプト領のシナイ半島およびシリア領のゴラン高原を占領, 11年後の1978年「キャンプ・デービッド合意」によりシナイ半島のみエジプトに返還)以降, イスラエルの占領・支配下にあるが, 「東エルサレム」のイスラエル領への併合は 国際社会から強く非難されており(*2), 2017年「第1次トランプ政権」以降のアメリカ合州国を除くほぼ全ての世界の国々はこれを認めていない。
*1 この「48イスラエル」は いわゆる「イスラエル」国(1948年「建国」, 従前 約30年間「イギリス委任統治領パレスチナ」だったその域内に, 当時の設立間もない欧米主体の国連による, 当時の同域内のアラブ系・ユダヤ系の人口比率や土地所有比率を全く無視した明らかに不当・不公正な国連パレスチナ分割案とシオニストによるアラブ系住民 [パレスチナ人] への民族浄化キャンペーンや第一次中東戦争により領土を獲得した人工「国家」)に当たり, したがって その「領域」は, 2017年「第1次トランプ政権」以降のアメリカ合州国を除くほぼ全ての世界の国々により認識される「イスラエル」国の「領域」(その範囲)と同じである。
その意味では「イスラエル」とシンプルに呼んでもいいのではあるが, しかし, 上記のような「国」の成り立ちの異常さに加え, 更に 1967年6月の「イスラエル」による奇襲・軍事侵攻以降 同年11月の国連安保理決議242 をはじめとする複数の国連安保理決議に逆らって既にこれまで半世紀以上の長きにわたり「イスラエル」が占領している土地(東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区, しかもイスラエルはその占領地内に国際法違反のイスラエル人 [ユダヤ人] 入植地を数多建設)や 軍事封鎖している土地(ガザ地区)などを踏まえると, その領土拡大・拡張や(他民族の土地の)収奪・占領という観点においても, この「イスラエル」という「国」の在り方は 極めて, まさしく "極めて" 錯綜している。この「異常さ」はもう否定しようがない。
要するに, 1948年「建国」のこの「イスラエル」という「国」(「国」というより入植者植民地主義の「事業体」)は, まるで 仮足(偽足, 虚足)で運動する原生生物 アメーバ のように 不定形な存在なのである。
そこで, 16世紀以降オスマン帝国の支配下にあり, 1918年になると同帝国に第一次世界大戦において戦勝したイギリス(大英帝国!)が占領, 1920年から1948年にかけては「イギリス委任統治領パレスチナ」であった地域のうち, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区およびガザ地区を除く, つまりは 1948年の「建国」と「第一次中東戦争」(更にその戦中・戦前のパレスチナ人に対する民族浄化キャンペーン)以降 1967年6月のイスラエルの奇襲攻撃・軍事侵攻(「第三次中東戦争」)による同国の更なる領土拡大・拡張の前までの期間に イスラエルが統治していた範囲を指して, ここでは便宜的に「48イスラエル」と呼ぶことにしている。
なお, イスラエル「建国」に伴って 域内の全パレスチナ人が難民化したわけではないので [当時 7-80万人のパレスチナ人が自らの家や土地を失い故郷を追われた, アラビア語で「大災厄」を意味する「ナクバ」については 今日の第3章にリンクを載せる note ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日, その第1章及び第2章に詳述], 「48イスラエル」域内にも(同域内のその全域においては少数派ながら), アラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)が居住している。また, 例えば, 筆者が 1983年10月5日にハイファから旅したナザレに関しては, 今も住民の多数派はアラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)である。
*2 1967年6月のイスラエルによる上記「占領」に関しては(もちろん 東エルサレムに限らず), 同年11月22日に「イスラエルの守護国」アメリカ合州国すら含む全会一致で採択された国連安保理決議242 が イスラエルの同占領地からの撤退を要請しており, 当時もそれ以降も今も, 勿論すべて(アメリカを除く)国際社会から批判・非難され, 当然のことながらその正当性は認められていない。
パレスチナで食べたものと言えば 真っ先に思い出す 〜 中東発祥の大衆料理, ファラフェル
ファラフェルは 中東発祥の大衆料理, 現代風に言えば 中東(日本から見れば 西アジア, 以降 便宜的に「中東」と表記)生まれのストリートフード。いろんな食べ方, 作り方があるようだが, 筆者の記憶に今も残っているのは(何しろ現地で食べたのは 41年前の「食欲の秋」)サンドイッチ状のものだ。地元の人がなのか個人的にだったのか記憶が曖昧になってしまっているが, ファラフェルサンドと呼んでいたような気がする。
因みにタイトル写真は ネットから得たもので, 筆者が撮ったものではない。とにかく美味かったファラフェル, 今のようなスマホ時代なら, 食べるだけでなく写真も撮りまくっていたに違いない。しかし 1983年の貧乏旅行バックパッカーにとって, フィルムは極めて貴重なもの, カネそのものだけでなくフィルムなどの「二次的」必需品も節約せざるを得なかった(それでも勿論 写真は各地で撮っている, パレスチナで撮影した写真は 後段の章にリンクを載せる過去の「旅 note 」に)。
以下, 第1章「ファラフェルを 今日 note しようと思った, その切っ掛け」より転載。
あらためて書いておくと, 冒頭に記したように, ファラフェルは 中東発祥の大衆料理だ。具体的には, エジプトやレヴァント地方, なかでも レバノン, シリア, ヨルダン, パレスチナ, 他にはイラク, イエメンなど において(言うまでもなく国の名や「国境線」の類は時代により変遷するが)かなりの長きにわたり, 彼の地の民衆が食べてきた伝統的な料理 である。
そんな ファラフェル だが, 一昨日たまたまテレビをつけていた時に NHK-BSの「突撃!ストリートシェフ」という番組(いろんな国のストリートシェフを取り上げる番組で, 過去にも韓国・ソウルはじめ海外のいくつかの街のものを観たことがあり, 印象としては面白い番組, 平たく言えばわるい番組ではない)が, ポーランドのクラクフで取材した回が放映されていて, その最初の部分だけ, 他の作業をしながらの「ながら見」をした(後で調べたところ 2022年2月25日初回放送となっていたから, 再放送だったようである)。
アウシュビッツに近いクラクフ, 且つ映画「シンドラーのリスト」に触れながら番組が始まり, ということで 興味深く感じ, どんな中身になるのかとシンプルに少なからずの好奇心を抱いたのだが, そのうち ファラフェル が登場し, おお昔々のバックパッカー時代, パレスチナ でよく食べたあの ファラフェル が.. と思った直後, 不意に嫌な予感に襲われた。
次の瞬間, クラクフの街の屋台, キッチン・カーみたいな風情だったかな, その兄ちゃんが, こう言った(ポーランド語でだったと思うが 字幕に目がいき英語だったかポーランド語だったか覚えてない, 要するに以下はテレビの字幕からのものだ)。
「ファラフェルは ユダヤ料理です」
その直後, 何か頭にカチン(と書いた瞬間「カチンの森事件」を思い出した, 話が逸れるが, 第二次世界大戦前, 兎にも角にも ポーランドを巡っての悲劇は多い)とくるものがあって, 予感通りの不快な気分を抱き, 直ぐさま テレビを消した。
番組は最後まで観た方がよかったかもしれない。それ以上観なかったので, 観た方がよかったのかどうかも分からずじまいだが, もともと「ながら見」だったし, まぁそれは構わない。
次節は 今日の, 本章の「付録」。
付録 〜 1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅, note リンク集
1983年4月から翌1984年2月にかけ, 当時のソ連・欧州(「当時の」という意味では後の「ベルリンの壁」崩壊の前の分断ドイツ時代の西ドイツ, 西ドイツの西ベルリン=ただし米英仏の占領下, 東ドイツの首都だった東ベルリン, 更にはチトー死去後3年でまだ存在していた「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」などを含む欧州諸国)や, 中東(アジアの眼で見れば「西アジア」)・アジア諸国を, バックパック(リュックサックとほぼ同義)一つ背負って 旅した。
詳しくは,
ではでは。
パレスチナ(と "イスラエル")が 「民主的な一国家」 になるという未来の 「現実」 を想像する
主としてパレスチナ人, および過去にパレスチナ民族浄化に反対の意思をはっきりと示してきたことを立証できるイスラエル人(元イスラエル人, 今のイスラエル人の数パーセント程度かね)が住む, 希望的観測においては近未来の国。当然ながら, 上述の当事者が決めるという前提条件付きで, 「正夢」になってほしい夢。要するに, これが文字通り「現実の出来事」になるということにしか「希望」(あの地域どころか人類の将来にとっての「希望」)は見出せない。
更に, かの地の将来の有り様を決めるその意思決定に最終的に関わらない第三者として, 個人的「希望」を言うのなら, その「民主的な一国家」は(「宗教」の観念に制約されない)「世俗的な民主国家」であってほしい。そもそも, 例えばそこに少数とはいえ無神論者なり無宗教者なりも住んでいる以上は, 「民主国家」であることと「神政国家」や「神政国家」的な国家であることとは両立しない, と筆者は考えるので。とはいえ, 繰り返しになるけれど, これについてはあくまで, 当事者ではない, 第三者の, 個人的な意見, と此処では些かしつこく そう「ことわり書き」しておきます。
