ヘイコウ駅の煙|【狸の短編小説】
僕が勤めるこの駅に、時刻表はない。
電車の滑り込むレールがなければ、出発を告げるベルもない。
プラットフォームに吹く風の音と、時折訪れる人の静かな息遣いだけが、錆びたこの屋根の下を満たしている。
ここへやってくる人々は切符を持たず、思い思いの場所に、ただ佇む。
同じ屋根の下にいながら、誰もが違う世界を見て、それぞれの時間が、交わらぬまま流れ続けていた。
古びたベンチの隅で目を閉じて、何かを確かめるように深く息を吸い込んだ老婦人は、フワリと漂う白菊の匂いに涙を浮かべた。
線路があったはずの場所を見つめる若い男は、懐かしい珈琲の香りを嗅いだと微笑んだ。
人々がここに残していった涙の跡を、常に手にしている布で拭うだけの作業に、先輩は誇りを持っているだろうか。
拭き終わった先輩は、落ち葉を掃き集め始めるだけで、何も語ろうとはしない。
その横顔はいつも、ガラス一枚を隔てた向こう側にあった。
僕はこの場所に、ある種の奇跡が宿っているのだと感じている。
勤務中、風向きが変わるたびに、駅舎の奥から常に立ち上る、一本の細い煙が見える。
鼻腔をかすめるどの香りとも違う、形容のできない無臭の気配。
それは全ての香りが燃え尽きた後に残る、ただの空気に似たもの。
一度目に入れてしまったら最後、僕はこの煙に釘付けになっていた。
ある晴れた午後、隣家の孫娘が俯きながら駅を訪れた。
プラットフォームの端に立つと、堰を切ったように泣きじゃくる孫娘。
「金木犀の匂いがする。おばあちゃんの庭の匂い」
彼女の震える背中と、空へ昇る煙を交互に見つめていた僕は、今まで立ち入ることを禁じられていた改札の向こう側へと、どうしても足を踏み入れたくなってしまった。
軋む扉の先へと、恐る恐る歩みを進めるが、やはり線路はない。
石畳の通路が、荘厳で静かな建物へと導いているだけで、その屋根からは、一本の白い煙突が空に向かって真っ直ぐに伸びていた。
振り返ると、ツタに覆われた駅舎の看板が見える。
風雨に削られたその裏側には、別の文字が彫られていた痕跡が、かろうじて残っている。
そそくさとプラットフォームに戻ってきた僕に、先輩は黙って乾いた布を差し出した。
それを受け取って、先ほど孫娘が凭れて泣いていた柱を、僕は静かに拭き始めた。

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