人間だったもの|【狸の短編小説】
アスファルトの冷たさが、薄い毛皮を通して腹に染みてくる。
遠くの街灯が滲んで、湿った空気が埃の匂いを運んでくる。
向こうからやって来た二つの革靴が視界に入ると、私の前で止まった。
その影は、私という小さな存在をスッポリと覆い隠してしまう。
世界が、一瞬にして横に飛ぶ。
叩きつけられた脇腹から、熱い痛みが広がっていく。
頭上からは低い笑い声が降ってきた。
見上げてみると、男の口元が歪んでいるのが見える。
気味の悪い口を睨みつけていると、数歩先の角から別の影が現れる。
口は全く違う音を紡ぎ出した。
「大丈夫ですか。足元が暗いですから、気を付けてくださいね」
ゾッとするほど優しい声色。
私が知っている、人間が人間にだけ向ける声。
男はもう一人の肩を軽く叩き、二つの影は暖かい光が漏れる店の向こうへと消えていった。
私は痛む体を引きずって、物陰にうずくまる。
あの光の中には、私を蹴り飛ばす足も、蔑む視線もない。
あるのは対等な目線と、穏やかな会話だけ。
かつて私が息をしていた、安全な世界が広がっている。
忘れかけていた言葉の形が、喉の奥で蠢いた。
助けを求める、あの簡単な単語。
だが、暗闇に漏れたのは、か細く、獣じみた鳴き声だけだった。

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