次を待つ箱|【狸の短編小説】
アンティーク店の隅、埃を被った棚の奥にそれはあった。黒檀でできた、手のひらに収まるほどの小さな箱。値札にはただ一言、「寂奏箱」とだけ記されている。
店主の老人はこちらを一瞥しただけで、何も言わずに会計を済ませた。
買ってきたばかりの奇妙な箱を、散らかった自室の机に置いて、蓋を開けた。中には、黒い絹の布が敷かれているだけ。何の音もせず、ただ部屋の静寂が深まった。
その夜、珍しく夢を見た。 幼い頃に迷い込んだ森を歩いていると、どこからか金属で引っ掻くような、鋭い音が聞こえてくる。風の音でも、木々の葉擦れでもない。その音は、私の歩みに合わせてついてきた。
目が覚めると、枕元に置いた箱の表面に、昨日までなかった細い傷が一本、刻まれている。背中が汗で濡れていて、気分が悪かった。
次の夜は、誰もいない放課後の教室にいた。窓から差し込む橙色の光が、机の傷をなぞっている。また、あの音が聞こえてきて、その音にもう一つの音が重なって、不協和音を響かせている。
朝、箱の傷は二本に増えていた。日を追うごとに、夢の中の音は複雑な旋律を成して、箱の傷は増え続けいった。
ある日、古いアルバムをめくっていた。森の中で一人佇む、幼い自分の写真が目に入ってくる。だが、その時のことを思い出せない。写真の中の知らない子供が、ただそこに写っている。
その隣のページには、夕暮れの教室で窓の外を眺める自分の姿。それもまた、記録された一枚の風景に過ぎなかった。こんな教室に行った覚えはない。
その夜から、夢を見なくなっていた。耳の奥で鳴り続けていた旋律も、もう聞こえてこない。
箱の表面は、無数の引っ掻き傷で覆われていて、もはや元の木目を見ることはできない。蓋を開けると、内側に敷かれた黒い布が、ところどころ濃く湿っているように見える。
箱を持ち上げてみると、底には何か硬い感触。今まで気づかなかった、細く鋭い筆跡で、何かの文字が彫られている。
指でそっと、その溝をなぞった。
『次を、待つ』
私はただ、その傷だらけの箱を両手で静かに持っていた。

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