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赤い線|【狸の短編小説】

 男の仕事は、世界の辞書から言葉を引くことだった。

古びたインク壺にペン先を浸して、紙の上を滑らせる。

彼の赤い線によって消された言葉は、人々の記憶から、そして世界そのものから痕跡を消した。


 彼はまず「嫉妬」を消して、次に「欺瞞」と「後悔」を消した。

嫉妬が消えると、恋人たちはもう相手を選ばない。
美も才能も意味を失って、異なる安らぎを選ばない。

欺瞞が消えると、愛の告白は笑いものになって、祈りも商談も止んだ。
沈黙が最も誠実な言葉になって、人々の会話は止んだ。

後悔が消えると、罪が軽くなって、懺悔は行き場を失った。
許しの必要もなくなって、神は居場所を失った。

彼が線を引くたびに、世界の軋む音が一つずつ減っていく。

人々は理由もわからないまま肩の荷が下りて、街角からは口論が消えた。

憎悪」を消すと国境線上の緊張が和らぎ、「苦悩」を消すと芸術家たちは筆を置く。

世界は無菌室の白光に包まれて、もはや誰も心を汚す言葉を知らない。

誰も傷つかず誰も挑戦せず、喜びの起伏も悲しみの深みも、緩やかに均されていった。

男は、自らの仕事に疑いを持たない。
これは浄化であり、世界の調律だと確信していたから。


 ある日、彼は辞書の最初のページを開いた。

その視線の先、全ての不和と混乱の根源だと彼が信じる、たった一つの言葉がある。

彼はその一文字に、静かに赤い線を引いた。

インクが紙に触れた瞬間、それは文字の上で止まらない。
赤がページを越えて辞書を飲み込み、机を染めて部屋を満たしていく。

男の指先から輪郭が溶け出して、壁と床の境界が滲んで消えた。

音と沈黙の差。光と闇の差。私と世界の差。
全てが、均一な一枚の赤に塗り潰されていく。

区別のない、ひとつの面のような時が流れて、音も形も、神の呼吸の中に吸い込まれていった。


 果てしない赤の世界の中で、以前には決して存在しなかった全く新しい音が一つだけ、小さく響き始める。




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