私はそこにいた|【狸の短編小説】
アスファルトを照らす街灯の下で、自分の影は揺らいでいた。
張り詰めた水面に広がる波紋のように、その黒い輪郭は静かに波打っている。
目を擦っても、その光景は変わらない。
影は、私とは別の生命を得たかのように、微かな運動を続けていた。
私が影の存在を認識し始めてからというもの、影は私の行動に異を唱えるようになった。
会議で上司の冗談に頷くと、足元の影は深く頭を垂れる。
友人からの誘いを断る電話を切った後、影の輪郭は滲んで見える。
私が早足で歩けば、影はその場に粘りつくように伸びて、私が笑うと、影は一瞬遅れて悲しむように肩を落とす。
私はそんな影と分かり合える気がして、もっと影との距離を詰めたかった。
ある夜、恋人との口論の末にアパートへ逃げ帰った。
勢いよくドアを閉めて、明かりを点けると、壁に映った影がこれまでになく激しくもだえていた。
その苦しそうな動きを見つめているうちに、全身の力は抜けていく。
私は、吸い寄せられるように壁に手をついた。
冷たい壁紙に指先が沈み、ゾッとする間もなく、身体は壁の中へ引きずり込まれていく。
視界が暗転して、次に開いた時には部屋を反対側から見ていた。
壁に張り付いた黒い人型の内側から。
部屋の中央には、「私」が立っている。
私だったものが、ゆっくりとこちらを振り返ると、私のものと寸分違わぬ目鼻がついた顔がそこにはあった。
だが、口元だけは、見たこともないほどの安らかな笑みを浮かべている。
やがてドアが開き、恋人が顔を覗かせる。
彼は部屋に立つ「私」を見ると、ホッとしたように息をついた。
二人の声が聞こえてくる。
なんて穏やかな響きなんだろう。
「私」は幸せそうに微笑みながら、彼に寄り添っていく。
(こんなに、楽しそうに笑えるんだ)
私は壁の一部となって、その光景をただ眺めていた。
私の輪郭は、もう揺らぐことはない。

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