誰かの窪み|【狸の短編小説】
路地の突き当たりに、それはあった。
夜露に濡れた木製の椅子。
使い込まれた肘掛けは滑らかに光り、座面には誰かの重みを記憶するように、緩やかな窪みが残っている。
男は導かれるようにそれに近づいて、工房へと運び込んだ。
修復のため、試しに腰を下ろしてみる。
椅子の窪みにスッポリと収まったその瞬間、知らない花の香りは漂ってきた。
陽の光があたりの埃を照らして、編み棒が触れ合う乾いた音と熟睡する猫の喉の震え。
男は目を見開いたまま、しばらく座っていた。
他の仕事が片付くと、男は決まって椅子に座った。
ある夜は、インクの染みた指先と心臓の速い鼓動。
またある夜は、嵐が窓を叩く音と握りしめた手の冷たさ。
男の工房の隅には埃が積もっていく一方で、飲みかけのコーヒーは冷えていくばっかりだった。
今夜も、男は椅子に深く身を沈めている。
流れ込んできたのは、取り返しのつかない別れの痛み。
言えなかった言葉の乾いた味。
自分のことのように、ひとすじの雫が頬を伝っていく。
不意に、電話のベルが工房の静寂を裂いた。
男は濡れた顔を拭って受話器を取ると、向こうから妹の声が聞こえてきた。
「明日、母さんの命日だけど」
男はただ黙っている。
訝しげに兄の名を呼ぶ声が、遠くで響いていた。
唇が、わずかに震えるが、それより先はなかった。
「ごめん」
その一言で電話は、静かに切れる。
男は受話器を置くと、自分の両手を見下ろした。
ただ、じっと見つめている。
工房の隅では、磨き上げられた椅子が鈍い光を放っている。
その滑らかな座面は、人を惹き寄せる窪みを見せつけ、男を静かに見返していた。

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