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境界はすぐそこに|【狸の短編小説】

 ドアベルが鳴り、濡れた肩をすくめた男が一人、入ってきた。雨音が店内に流れるジャズの中へ溶けていく。昼下がりのざわめきの中、彼は誰にも気づかれないように息をひそめ、窓際の席へと向かう。いつもと同じ席へ。

カウンターに立ち、彼は無言で二本の指を立てる。新人らしい店員が「お二人様ですか?」と問いかけた瞬間、奥から店長が駆けつけてきて「いつもの、ご用意します」と静かに対応した。

やがて、二つの珈琲カップがテーブルに置かれた。彼の手元のカップからは、白い湯気が螺旋を描きながら立ち上り、窓の外の雨粒をぼんやりと歪ませる。

向かいに置かれたもう一つのカップは、黒い水面が静まり返り、天井の照明と彼の疲れた顔を鏡のように映している。

彼が深く腰を下ろした重みに応えるように、向かいの空席の椅子は、小さく優しく軋んだ。

今年の金木犀は、少し早いらしい

その声は、静かな黒い水面に吸い込まれていく。彼の視線は窓の外へと移るが、ガラスに映った自分の姿はひどく孤独。

だが、その向こう側、雨に霞む鮮やかな黄色に、一本の傘に寄り添った日の記憶を、彼は滲みながらも見ていた。


 近くのテーブル客が、一瞬だけ彼に視線を送り、すぐに何事もなかったかのように自分達の会話へと戻っていく。その一瞥が、彼の世界と外の世界を隔てる、透明な壁の存在を知らせていた。

やがて店長が水差しを手に現れ、彼のカップにだけ、そっと湯を注ぎ足して無言で去っていく。向かいのカップには、決して触れない。それがこの場所の暗黙の作法。

彼は向かいのカップに手を伸ばし、そっと触れた。指先に伝わるのは、ただひんやりとした感触。それでもなお、冷たさの奥に、確かな温もりを探してしまう。黒い水面に映る自分の顔が、一瞬、懐かしい微笑みと重なった気がした。


 雨が止む頃、彼は静かに立ち上がり、一枚の伝票を手にカウンターへ向かう。

ドアベルが一度、乾いた音を立てた。西日が差し込み始めた店内、窓際のテーブルには、二つのカップが寄り添うように残されている。

ドアへと続く床には、濡れた足跡が一筋だけ、まっすぐに伸びていた。



見出し画像『境界はすぐそこに』。日が沈み始めた店内で、一人浮かない顔をした者が二つのカップを乗せた机に手を置いている。一つのカップからのみ湯気が立ちのぼる。

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ありがとうと書かれたメッセージカードをこちらに掲げるダナタの狸。カード作成した際に用いたであろう道具が散乱している。狸の苦労が伺える場面。

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