静寂のオーバードーズ|【狸の掌編】
僕は音響デザイナー。
世界から必要な音を拾い上げ、不要な音を消し去る。
僕にとって都会のノイズは、あまりに執拗で、
いつしか完全な静寂を渇望するようになっていた。
逃げるように移り住んだ海辺の町。
古い借家の屋根裏で、僕はその箱と出会った。
黒檀のように深く、冷たい光沢を放つ木箱。
表面には音波を吸収するかのような、
細かく複雑な幾何学模様がびっしりと彫られている。
蓋には蔓草のような書体で『帰響箱』。
振ってみても、音ひとつしない。
まるで、内部が真空であるかのよう。
僕はそれを仕事部屋の机に置いた。
究極の静寂を体現する、美しいオブジェとして。
その日の仕事を終え、疲れ果てて椅子に身を沈めた。
窓の外から聞こえる、単調な波の音。
僕はそれにさえ苛立ち、無意識に呟いた。
「静かにしてくれ」
その瞬間、僕の言葉が、ふっと空気に吸い込まれる。
絶え間なく響いていた波音が、ぴたりと止む。
いや、違う。音は続いている。
だが、僕の鼓膜には届かない。
分厚い壁の向こう側のように、
その存在感だけを残して、
音そのものが消え去っていた。
ハッとして机の上の箱を見る。
箱の模様が、ほんのわずかに脈動したように見えた。
専門家としての探求心に火がつき、
僕は箱にあらゆる音を聴かせ始めた。
鳥のさえずり、クラシック音楽、人の話し声。
どんな音も、箱の近くではその輪郭を失い、
意味のない残響となって霧散していく。
箱は音を喰っていた。
それも、無差別にではなく、
僕が「不要だ」と意識した音を優先的に。
この箱は、僕の世界を編集してくれる、
完璧なノイズキャンセラー。
箱の力は、僕を抗いがたく虜にした。
近所の犬の鳴き声、遠くを走る車の音、風の音。
「ただいま」と家に帰るたび、
僕はあらゆる生活音を箱に吸わせ、
完璧な無音の空間を創り出す快感に溺れていった。
その絶対的な静寂の中で、
僕の仕事はかつてないほど捗っていく。
僕の創る音は研ぎ澄まされ、純度を増していく。
最初に異変に気づいたのは、
仕事でクラシック音楽を聴いていた時だった。
ベートーヴェンの『運命』。
かつては、その力強い旋律と
ティンパニの轟きに心を揺さぶられたはずなのに、
今はただの音の羅列にしか聞こえない。
頭では構成を分析できても、
胸を打つような感動が湧き上がってこない。
美しい絵画の色だけを抜き取られて、
線画だけを見せられているような感覚。
次に、ユーモアが分からなくなった。
テレビで見た漫才師の巧みな話術に、
論理としては面白いと理解できる。
しかし、腹の底から笑いがこみ上げる感覚がない。
箱に吸わせた不要な笑い声と共に、
僕の中から笑うという感情の響き
そのものが消えつつあった。
僕の世界は、静かに歪み始めていた。
ある日、電話口で聞いた母の声が、
ひどく薄っぺらく感じられた。
「元気でやってるの?」
という言葉に、かつて感じたはずの温かみがない。
ふと、都会のワンルームで
暮らしていた頃の記憶が蘇る。
深夜まで続いた仕事で、
疲れ果てていた僕に届いた母からの電話。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、
「ちゃんと食べてるの?」
という心配そうな声だけではない。
背景で微かに響く、実家の古びた柱時計の音。
時折混じる、隣の部屋のテレビの笑い声。
それら生活音の全てが、
母の声に故郷という名の温かい響きを
与えてくれていた。
あのノイズこそが、
僕の心を解きほぐす安らぎだった。
だが今、僕の耳に届くのは、
あらゆる背景音を削ぎ落とされた、
無菌室から発せられるような声。
言葉の意味は理解できる。
しかし、そこに宿るはずだった感情の質感、
声の揺らぎ、心配のニュアンスは、
綺麗に濾過されている。
意味を剥ぎ取られた記号のように
空虚に響くだけだった。
僕が箱に喰わせてきた言葉や音が、
現実世界での重みや実感を失っていく。
僕は言葉の味が分からない
味覚障害のようになっていた。
僕は恐怖した。この箱は音ではなく、
概念そのものを喰らっているのではないか。
僕が毎日家に帰るたびに願った静寂。
その代償として、付随する安らぎや温もり、
家族との繋がりといった響きが、
僕の世界から消え去っていた。
故郷の風景を思い出そうとしても、
ノイズの混じった古い写真のように、
その輪郭がぼやける。
箱を捨てなければ。
僕は震える手で箱を掴み、嵐の夜、外へ飛び出した。
この忌まわしい箱を、海の底へ沈めてやる。
一歩家の外に出た瞬間、世界が牙を剥いた。
風の音が耳の中で刃物のように暴れ、
叩きつける雨音は無数の針となって鼓膜を突き刺す。
遠くのサイレンが頭蓋を直接揺さぶり、
僕はその場にうずくまって嘔吐した。
耐え難いノイズの洪水。
僕はもう、箱が創り出す無なしでは、
一秒たりとも正気でいられない身体になっていた。
這うように家に戻り、箱を机に置く。
世界が再び、嘘のような静寂に満たされた瞬間、
僕は地獄から救われたような深い安堵感を覚える。
そして、悟る。もう逃げられない。
この静寂こそが、僕にとって唯一の救いなのだと。
僕は箱を強く抱きしめた。
ああ、そうだ。まだ喰わせるべき音が残っている。
僕の存在を証明する、最後の音。
僕が僕であるための、根本的な響き。
それを喰わせれば、僕は究極の静寂と一体になれる。
震える唇で、僕は箱にそっと囁きかけた。
僕自身の、名前を。
その声は、
音になる前に箱の中へと吸い込まれていった。
僕の身体が、輪郭からゆっくりと透き通っていく。
思考も、記憶も、僕という存在の概念そのものが、
静かに、静かに箱の奥へと帰っていく。
***
季節が一つ巡った頃。
その家の前を通りかかった町の住人が、
不思議そうに首を傾げた。
海鳴りも、風の音も、
すぐそばで鳴いているはずのカモメの声さえ、
その家の一点にだけは届かない。
分厚いガラス壁に阻まれたかのように、
不自然に途切れている。
家の中では机の上に置かれた黒い木箱が、
世界のあらゆる響きを拒絶し、
絶対的な静寂を守り続けている。
いずれこの家を訪れるであろう、
次なる静寂の探求者を待ちながら。

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