ウロボロスのあくび|【狸の短編小説】
金色の埃が動きを止めて、静けさが神経を研ぐほど均衡する図書館。
語るためではなく、沈黙を守るために存在していると錯覚させるような彼女の薄い唇は、緩やかに弧を描いて開かれた。
そこからこぼれ出した息は音にならず、ただ空間をわずかに揺らす。
網膜に焼き付いたその形に引かれるように、僕の顎も抗いようなく関節を軋ませた。
感染。
それは僕の身体が頭よりも先に知っていること。
彼女の中から流れ出した熱は、まだ名を持たない感情の原型。
それは彼女の中で密やかに熟した光で、偶然にも僕の内に宿主を見つけた。
これまで何度も、この熱は僕を乗っ取って、見知らぬ誰かの名を呼ばせている罪人。
だが今、僕の内に響くのは自分の名前だけ。
彼女の声が、僕を呼んでいる。
これは奇跡だと、そう思った。
翌日、鏡の前に立った時、その意味を識った。
寝癖のついた黒髪に、少し眠たげな瞳、噛む癖のある唇。
見慣れた部品で構成された、知らない青年。
そこに映るのは僕ではない。
言葉より先に感覚だけが動いて、目を吸い寄せられてしまう。
心臓が肋骨の裏で乾いた音を立て始めた。
ナルキッソス、と誰かが囁く。
違う。
これは僕が僕を見る視線ではない。
あの図書館の静寂を通して、彼女の瞳を通して見る、「彼」の姿。
僕の欠点はすべて、焦がれるべき記号に変換されて、美という虚構の下で、装飾のように配置されている。
彼の姿に釘付けになった視線を外すことができず、食事の味は砂に変わり、眠りは浅い水底になった。
僕はただ、鏡の前に座り続ける。
目の奥がジンジンと熱を帯びはじめた頃、ふと渇いた喉から息が漏れた。
あくび。
鏡の中の彼も、寸分違わず唇を開く。
その唇から吐き出された何か無色のものが、再び僕の口に流れ込む。
伝染。
脳髄を直接掴まれて、捩じ上げられるような衝撃。
視界が一度、白く焼き切れた。
僕の内を満たしていた熱が一度濾過されて、純度を増して還流してくる。
当たり前の反射が、僕を生の裏側、苦しみの回廊へと導いた。
気がつけば、鏡の中の彼の輪郭は、青白い光を帯びていた。
もっと。
渇きが喉を焼く。
意図して、あくびを彼に送る。
すると彼があくびを返す。
感染。
増幅。
還流。
繰り返すたびに、部屋の空気が希薄になっていく。
床の冷たさに、窓の外の車音、壁の染み。
現実を構成していたものが、一枚ずつ剥がされていって、代わりに彼の存在だけが質量を増していく。
肌は磨かれた陶器に、瞳の奥には星雲が渦巻く。僕の肉体は、彼を映すための抜け殻にすぎない。
ふと、よろめいた拍子に視線が鏡から外れた。
窓の外に沈む夕日。
図書館の匂いが、記憶の底から蘇る。
このままでは融けてしまう。
空っぽの器になってしまう。
指先が微かに震えて、理性で衝動を押し潰すのに必死であろうとする自分。
だが、大した葛藤をすることもなく、僕は視線を鏡に戻した。
あらゆる音が息を潜めて、形そのものが美を体現する者が、そこにはいる。
冷たいガラスを撫でる、骨と皮になった僕の指と、僕の憔悴を養分にして、神々しいまでに輝く、そこに映る彼。
もう、外の世界のざらついた光は必要ない。
僕は最後の力を振り絞り、痩せこけた顎をゆっくりと開く。
魂ごと吐き出す、深く長い息。
鏡の中の神性が、応えるように唇を緩めた。
その瞳の奥の星雲が、ゆっくりと回転を始める。
僕の視界は、そこから放たれる青い光に、静かに満たされていった。

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