フレームアウト|【狸の短編小説】
窓の外には、風に揺れる枝の形が見える。
雨粒がガラスを叩く振動だけが伝わって、音は生まれる前に死んでいる。
部屋の中央のテーブルに置かれた花束は色の染みで、コーヒーの湯気はただ視界を白く曇らせるだけ。
鼻腔を埋めるはずの焦げた苦味は、どこにもない。
ドアが開く音がして、彼が帰ってきた。
床板を軋ませる重い足音だけが、この凪いだ空間に許された唯一の侵入者。
私に視線を向けた彼は、数歩手前で足を止める。その口元は微かに動いた。
「ただいま」
声は決して届かない。
唇の動きが、かつての響きを思い出させるだけ。
彼が纏っていたはずの薬品とインクの匂いも、今はもうない。
空っぽの空気がそこにあるだけ。
彼が置いたカップに手を伸ばしても、指先は陶器の冷たさに触れることなく、その向こう側の木目にかすかな影を落とす。
彼は私を通り過ぎて、壁の一点を見つめている。
去年の秋、金木犀の木の下に立つ、私が写った過去の痕跡。
彼はそれに近づき、ガラス越しに中の私の頬に触れた。
「香写封」
彼の唇から、熱のない息と共に言葉が漏れる。
「これで、君は」
言葉は続かない。
ただ、失われた何かを慈しむように、その指はフレームの縁をなぞっている。
私の視界の四隅はわずかに暗み、黒い枠がジワリと侵食してくる。
彼が立つ床も天井の照明も遠近感を失って、平たい面に貼り付いた模様に変わっていく。
彼の背中が、壁の染みと等価になっていった。
***
現像液の匂いが満ちる暗闇の中、男は浮かび上がった像にそっと触れる。
印画紙からは、金木犀の香りがした。

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