紡がれる声と噤まされる心|【狸の掌編】
彼を失ってから、
私の胸にはぽっかりと穴が空いていた。
ただの比喩ではない。
息をするたび、
その空洞を冷たい風が通り抜けるような、
確かな痛みと喪失感があった。
その見えない傷口からは、
温かい記憶が絶えず流れ落ちていくようだった。
そんな折、私は街の古びた雑居ビルに
工房を構えるという『声縫師』の噂を耳にした。
心の傷を、
その持ち主の声で縫い合わせてくれるのだという。
藁にもすがる思いで、私は錆びた鉄の扉を叩いた。
現れたのは、物静かな印象の男。
指先からはインクと薬品の匂いがする。
「あなたの声そのものを糸にして、傷を縫います」
彼は凪いだ水面のような瞳で私を見つめ、言った。
「
ただし、代償がある。
縫い合わせた傷にまつわる記憶は、
二度と声に出して語れなくなります。
それでも、よろしいですか。
」
彼の名前も、共に過ごした日々も、語れなくなる。
その事実の重さに一瞬躊躇したが、
この痛みから解放されるのならと私は頷いた。
施術は静かな対話だった。
彼に促されるまま、
私は彼との思い出をぽつりぽつりと語り始める。
初めて手を繋いだ公園のベンチ。
喧嘩した雨の夜。
好きだった彼の不器用な笑顔。
すると、私の唇からこぼれる声が、
淡い光を帯びた一本の糸となって
空中に紡ぎ出された。
声の糸は、彼のしなやかな指先に導かれ、
私の胸の見えない傷口を、ひと針、ひと針、
丁寧に縫い合わせていく。
愛しい記憶を語り尽くし、
最後の言葉が光の糸となって傷を塞いだ瞬間、
ふっと全身が軽くなった。
あれほど私を苛んでいた胸の空洞は跡形もなく消え、穏やかな温もりだけがそこにある。
私は生まれ変わったようだった。
悲しみは、まるで遠い国の物語のように、
私の中から遠ざかっていく。
ある日のこと、街角で彼の好きだった花を見つけ、
その名を呼ぼうとした時、
喉が詰まって声が出なかった。
彼の思い出が、
私の内で言葉になることを拒絶している。
安堵と引き換えに、
私は彼との軌跡を語る術を永遠に失った。
その寂しさを抱えたまま数ヶ月が過ぎた頃、
私は偶然、路地裏で声縫師の男を見かけた。
彼は壁に背を預け、
自分の胸にそっと手を当てている。
その瞬間、私には見えた。
彼の胸元に、無数の縫い跡のような光の筋が、
おびただしい数、淡く明滅しているのが。
そこから、
声にならない誰かの喜びや悲しみの残響が、
微かに、だが確かに
漏れ聞こえてくるような気がした。
彼は、他人の傷を縫うたびに、その声の痛みだけを、その身に引き受けていたのかもしれない。
私は彼に駆け寄った。
感謝を、労りを、伝えたいのに言葉が出てこない。
私に気づいた彼は何も言わず、
ただ静かに頷き返した。
その瞳の奥には、
私が失くしたはずの悲しみを理解し、
そっと包み込むような、
深い深い優しさが湛えられていた。
私たちは何も語らない。
けれど、その沈黙は、
失われたどんな言葉よりも雄弁に、
私たちの心を繋いでいるように感じられた。

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