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カツさんの準備は整った|準備が整った人が嫌われていった話

Project MOON No.12

「おはようございまーす!」

スタッフルームの扉が勢いよく開く。
朝の冷たい空気と一緒に、
カツさんの大きな声が店の奥まで入り込んできた。
白い歯を見せて笑いながら、
両手いっぱいに荷物を抱えている。
まだ勤務開始まで一時間ある。
それでもカツさんは、
もう“仕事の顔”になっていた。

年齢は50歳だというが、
とてもその年齢には見えない。
身長は158センチほど。
けれど、あと20センチくらい高くてもよいと思えるほどの存在感で、
スタッフルームの扉を元気よく開けて入ってきた。

「カツさん、おはようございます」

「カツさん」「カツさん」

うちのコンビニは、
この地域でいちばんの売上を誇る店舗だった。

年間の売上は約3億円。
月にすると約2,500万円、
1日でも80万円ほどを売り上げる店だった。

当時、
のんびりと大学生活を送っていた私には、
途方もない額に見えた。
その売上は店長の手腕というよりも、
立地の良さによるところが大きかったようだ。

そしてその店舗は、
コンビニチェーン本社の直営店だった。
直営店としての特別なルールが、
ふたつだけあった。

ひとつは、
新卒社員として入社した者が店長を務めること。
もうひとつは、
フランチャイズ店を任されるオーナーが、
研修のために3か月間所属することだった。
カツさんは、そのふたつめのルールに基づいて研修に来ていた、フランチャイズ店のオーナーだった。

それまで16歳から25歳くらいまでのスタッフを中心に回していたうちのコンビニにとって、
50歳のカツさんがアルバイトという形で入ってきたことは、かなり衝撃的な出来事だった。

変わった人の多い職場ではあったが、みな性格は優しい者ばかりだった。
それでも最初は、大きな緊張感が走っていた。

というのも、今度入ってくる新人は、元大手ハンバーガーチェーンで部長を務めていた人物だという話だったからだ。

私たちのゆるくて楽しいコンビニ生活が、
彼の登場によって息苦しいものに変わるのではないかと、
出勤前から戦々恐々としていたのである。

そして、カツさんの初出勤の日が来た。

いつもなら一気に距離を詰めにいくスタッフも、

優しいスタッフも、

そして唯一の飛び抜けた年長者であるベテランスタッフのハギさんも、

その全員の目の奥には、
強い警戒の色がにじんでいた。
次の日も、そのまた次の日も。
なかなか構えが解けない私たちの様子を、
カツさんは気にしていないように見えた。

もしかすると、本当はとても気にしていたのかもしれないが。
それでもカツさんは、いつも明るく元気だった。
顔いっぱいに笑顔を広げながら、変わらずにこやかに話しかけてくれた。

わからないところは、謙虚に丁寧に質問した。

二回りも年下のスタッフにも、
とにかく敬意をもって接していた。

「これ、わからないんだけど教えてくれませんか」

「先輩の接客ってすごいね。俺も見習います」

「あー、このシステムの動かし方ってこうやるんだね。教えてくれてありがとう」

カツさんの誠意ある態度は、
いつしか実を結び始めた。

うちのコンビニでいちばん気難しく、めったに笑顔を見せない先輩も。

フチなし眼鏡をかけ、身長が160センチに満たないことを気にしている三ツ星スタッフも。

深夜勤務で、目つきが鋭く、首元のだらけたTシャツを着ている大学生も。

そして、現役高校生のキャピキャピした若いスタッフたちも。

みんなが少しずつカツさんに心を開いていった。

しかし、店長とベテランスタッフのハギさんのふたりだけは別だった。
尊敬と畏れが入り混じった、どこか複雑な作り笑顔でカツさんに接していた。

ふたりだけは違った。
笑ってはいた。
けれど、
店長はカツさんと話すたびに、
無意識に胸元のネクタイを触っていた。
ハギさんは、
カツさんが近づくと、
ほんの少しだけ視線を横へ逃がした。
ふたりの間には、
目には見えない壁のようなものが残り続けていた。

カツさんは、いつも出勤の1時間前にはスタッフルームの扉を開けていた。
それは自分で決めたルーティンだった。
誰に言われるでもなく、
店の外やトイレを順番に掃除して回っていた。
在庫や品薄商品のチェックも欠かさなかった。
そのあと店長と、
近くの店舗で予定されているイベントや当日に向けた特別な発注について意見を交わしていた。

店長は、
カツさんの指摘を聞くたびに、
大きく何度もうなずいた。

「それ、気づかなかったです」

「さすがですね」

声が少し上ずっていた。
カツさんが話しているあいだ、
店長はずっとメモを取っていた。
私たちは、
その光景をレジ越しにぼんやり眺めていた。

私たちは、
店長の判断の輪郭をカツさんの指摘から知った。
社会の仕組みや、店長の立場が少しずつ変わり始めていることも、私たちはなんとなく察しはじめていた。

本来ならフランチャイズオーナーは3か月ほどで担当店舗へ異動していくはずだった。

しかし3か月たっても、4か月たっても、カツさんが異動する気配はまったく見えなかった。
どうやらフランチャイズとして選ぶ店舗の立地に、納得できる物件が見つからないようだった。

カツさんが条件にこだわっているらしい、という話を、ときどき来るスーパーバイザーから聞いた。

本来ならすでにオーナーとして店を持っている時期だった。
それでも本社直営の店舗で働き続けていた姿を見て、店長は思い切ってカツさんを店長代理に任命した。

店長業務を任せながら、フランチャイズ経営に向けた経験を先に積ませようという配慮だったのだと思う。

みな「本当か?」と半信半疑だった。

「店長は、自分の業務を楽にしたいだけじゃないのか」と疑う声もあった。

真意を確かめる人はいなかった。

それでもカツさんはその提案を喜んで受け入れ、店長業務を引き受けた。



そしてカツさんは、日に日に嫌われていった。

私はその変化を少し意外に感じていた。

とくに若いスタッフからは、露骨に距離を置かれるようになった。

それまで「カツさん、カツさん」
と恋愛相談をしていた女子高生もいた。

「……なんすか?」

もはや女子高生スタッフは、
振り返らなかった。
商品棚を整える手だけを動かしたまま、
上半身だけ少しひねって返事をした。
以前のような笑顔は、
もうそこにはなかった。

カツさんは、少し寂しそうな気配を目の奥ににじませながらも、間違った振る舞いはきちんと指摘した。

そして、コンビニ店員としてあるべき姿を説き続けた。

そんなある日、突然カツさんのフランチャイズ店への異動が決まった。

花束や色紙が用意された。
けれど、その色紙には全員のメッセージがそろっていたわけではなかった。

カツさんがいなくなってせいせいすると思っているスタッフも、少なくなかったのだ。

別れは、どこか静かなものになった。

それでもカツさんは、フランチャイズオーナーとして希望していた立地を任されたことへの充実感に満ちていた。

カツさんは、
最後まで笑顔だった。

「みんな、ありがとう!」

花束を抱え、
何度も頭を下げながら、
スタッフルームの扉を開けた。
自動ドアの向こうは、
西日が強かった。

カツさんの背中は、
いつもより少しだけ大きく見えた。



▶︎"コンビニ"シリーズです。


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