現場に入れていなかった日|新人タレントアキヤマの話
Project MOON No.15'
芸能界は、
もっと華やかな場所だと思っていた。
ライト。
歓声。
カメラ。
拍手。
でも実際に最初に覚えたのは、
入り時間と、
待機場所と、
そして、いつ来るかわからない本番に備えながら、自分で答えを探し続ける、終わりのないなぞかけのような仕事だった。
◇
アキヤマは昨年、大学を卒業したばかりのフリーターだった。
そう、フリーターだったのだ。少なくとも先月までは。
大学では教育学を専攻し、教員免許も取得した。
わりと真面目に4年間勉強をし、サークル活動にも傾倒し、アルバイトもしていた。朝まで飲み会をして、そのまま1限へ向かう。
振り返れば、それなりに充実した大学生活だったと思う。
大学3年
今ではもう遅いと言われる時期だったが、周囲の空気に流されるように就職活動を始めた。
何をしたいのか。
自分は何者なのか。
それもよくわからないまま履歴書を書き、面接を受け、受かったり落ちたりに一喜一憂しながら、内定も何社かもらった。
その合間に教育実習へ行き、
それなりに生徒からも好かれた。
黒板の前に立ち、教科書を読み上げながら、
教室の後ろで眠そうにしている男子生徒や、ノートの端に落書きをしている女子生徒を眺めていた。
教員になるのも悪くないな、とその時は思っていた。
ただ、気づけば、無職のまま卒業していた。
アキヤマは、自分のことをわりと器用な人間だと思っていた。
昔から、なんとなく人間関係もこなせたし、バイト先でもそれなりに可愛がられた。だから、新卒ブランドがなくなっても、まあどうにかなるだろうと、どこか楽観的だった。特に焦ることもなく、大学卒業後、そのままフリーター生活を始めたのである。
アキヤマは180cmを超える長身で、少しくせのある髪が歩くたびに揺れていた。
前髪がよく目にかかり、そのたびに無意識に指でかき上げる癖があった。
特別目を引く顔立ちではない。
ただ、スタイルがいいとか、人懐っこい笑顔をするとかは、昔からよく言われていた。
いわゆる、
「遠くから見ると雰囲気がいいタイプ」
らしい。
そんなある日、大学時代の友人から連絡があった。
「映画撮影のエキストラに穴が空いたから、急遽補充しないといけない。参加できないか?」
という内容だった。
その友人――大山は、「ニース」というモデル・タレント事務所に所属する、いわゆる“芸能人”だった。
地元で流れるCMや雑誌にもよく出ていて、大学内でも有名な人気者だった。
身長が高く、姿勢がいい。
人前に立つことに慣れている人間特有の、少しだけ周囲と空気のズレた立ち方をしていた。
それでいて、誰にでも気さくに話しかける。
サークルの飲み会でも中心にいるタイプだったが、不思議と嫌味がなかった。
アキヤマは、たまたまゼミとサークルが同じだった縁で、大学の4年間を通して仲良くさせてもらっていた。
(なんか、おもしろそうだな)
アキヤマは軽い気持ちでその依頼を引き受けた。
この時はまだ、
その連絡一本で、自分の生活が少しずつ変わり始めるとは思っていなかった。
◇
そうして、アキヤマは映画のエキストラとして撮影に参加することになった。
撮影現場は、自宅から車で五分ほどの場所にある地元の大きなコンサートホールだった。
(こんなところでやるのか……)
見慣れたはずの建物の前には、
大量の機材車が並び、コードリールを抱えたスタッフたちが忙しそうに行き来していた。
開いた搬入口からは、ライトの熱気と人の声が漏れている。
出演者らしき人間たちは、それぞれ衣装姿のまま台本を片手に立っていて、周囲ではスタッフたちがインカム越しに短く言葉を飛ばしていた。
普段はコンサートや成人式くらいでしか使われない場所が、まるで別の世界になっていた。
アキヤマは興味津々で、その様子を眺めていた。
「おー! 久しぶり。元気にしてたか?」
背後から声をかけてきたのは、大山だった。
大学の頃と変わらない柔らかい笑顔だったが、どこか立ち方が違う。
周囲のスタッフに軽く会釈をしながら歩く姿は、すでにこの現場に馴染んでいる人間のものだった。
アキヤマは、大山からエキストラの内容について説明を受けながら、少しずつ緊張し始めていた。
その時だった。
後ろから、明るくよく通る女性の声が飛んできた。
「あー! あなたがアキヤマさんですか? 今回は急遽すみません。ありがとうございましたー!」
振り返ると、褐色の肌にTシャツとデニムというラフな格好をした、痩せ型の女性が立っていた。
ポニーテールを頭の高い位置でまとめている。
日に焼けた腕には何本ものヘアゴムがついていて、首からはスタッフパスが揺れていた。
彼女は立ち止まることなく、手元の香盤表に目を落としながら話している。
「撮影自体は5分NGなければそこで終わり。もし出たらOK出るまでやります。たぶん30分以内には終わると思います!」
早口なのに聞き取りやすい。
しかも、不思議と圧迫感がなかった。
アキヤマは、説明を受けながらぼんやりと思った。
(これが芸能界のマネージャーか……)
その女性はスタッフから別の声をかけられるたびに、顔だけそちらへ向けて短く返事を返している。
「はい!」
「あと5分」
「今確認します!」
返事が妙に速かった。
そして最後に、彼女はさらりと言った。
「あなた、すごくかっこいいわね。身長もあるし。もしよかったら連絡先教えてくれない? スカウトしたいんだけど」
(え?)
アキヤマが言葉を返せずにいると、
「水樹ー! まだこっちの撮影セットそろってないよー!」
遠くから別の女性スタッフの声が飛んできた。
「あ、ごめん!」
その水樹と言われる女性はそちらを振り返りながら、慌てて言葉を続けた。
「私はあなたの友人の彼のマネージャーをしてる、水樹っていいます。ただ、ごめん、もう行かなきゃ!」
そう言うと、“水樹”という名前のそのマネージャーは、本当に嵐みたいな勢いで走り去っていった。
ポニーテールだけが忙しなく左右に揺れていた。
※この「水樹」という芸能マネージャーについては、以前Project MOONでも書いています。
誰かを輝かせるために、
現場を止め続けた人の話です。
エキストラの仕事は、拍子抜けするほどあっさり終わった。
水樹が話していた通り、5分
監督が「はいオッケーです!」と声を上げると、周囲の空気が一気に緩んだ。
エキストラはそのまま解散となった。
だが、大山たち出演者側にはまだ別カットの撮影が残っているらしく、現場には引き続きスタッフが慌ただしく動き回っていた。
アキヤマが帰ろうとしていた、その時だった。
「おー! 間に合った!」
また、水樹がこちらへ走ってきた。
「お疲れさまー! エキストラどうだった? 楽しかった?」
さっきまで走り回っていたはずなのに、息はほとんど乱れていない。
「はい、これ今日の手当。本当にありがとう。助かったよー。たしか大山くんの大学の同級生だったよね?」
そう言いながら、水樹は封筒を差し出した。
大山とは、隣にいる友人のことだった。
大山は大学1年
大学では目立つ存在だったが、この現場では妙に自然だった。
アキヤマは、水樹の小気味いい話のテンポと、初めて触れた撮影現場の空気に、少しだけ気分が高揚していた。
「じゃあ、わたしもう行かなきゃだから。今日は本当にありがとう!」
そう言って、
水樹はまた慌ただしく走り出しかける。
そして数歩進んだところで、
首だけこちらへ向けて言った。
「また連絡するね!」
(また連絡するって、どういうことなんだろう……)
アキヤマは、
もう遠くにいる
水樹の背中をぼんやり見つめていた。
その背中は、さっきからずっと、
いろんな場所から名前を呼ばれ続けていた。
◇
その日の夜。
アルバイトを終え、風呂に入り、夕飯を食べ終わったあと。
心地よい疲れの中で、バラエティ番組でも見ようかとテレビのリモコンに手を伸ばしかけた、その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、小さく震えた。
アキヤマは何気なく画面を開く。
すると、見慣れないショートメッセージが届いていた。
◇
アキヤマさん
大山くんから連絡先を聞きました。
今日は急遽対応していただき、ありがとうございました。
正式にあなたをウチの事務所にスカウトしたいんだけど、来週の水曜日にCMの仕事があるので来てみない?
某キャリア携帯のCMなんだけど。
水樹
◇
(マジか……)
アキヤマは、スマートフォンの画面をじっと見つめた。
テレビでは芸人たちが騒いでいたが、内容はほとんど頭に入ってこない。
さっきまでいた撮影現場の熱気と、水樹が忙しそうに走り回っていた姿がぼんやり浮かんでいた。
そして、その日は返信をしなかった。
◇
翌日。
アキヤマは友人の大山に電話をかけた。
コール音が2回
「昨日、おまえのマネージャーの水樹って人から連絡あったんだけど」
電話越しに、大山は少し笑っていた。
「一緒にやろうぜ。わりと大変だけど、やりがいある仕事だぞ」
大学時代と変わらない軽い口調だった。
だが、その奥にはどこか仕事の顔が混ざっている。
そして大山は少しだけ間を空けて続けた。
「ただ、おまえが思ってるほど華やかじゃないし、結構泥臭い仕事になると思う」
電話の向こうで、ライターを鳴らすような音が聞こえた。
「まあ、やるなら軽い気持ちでは入ってほしくないから。ちゃんと考えて返事したら」
「でも来週撮影って急すぎない? こっちの都合もあるんだからさ……」
すると、大山の声色が少し変わった。
「じゃあ断ればいい」
短く、はっきりと言った。
大学の飲み会でふざけていた時とは違う声だった。
「その仕事を取ってくるのも大変なんだし、タレントが入れるCMの枠だって限られてるんだから」
(なんだよ。勝手に連絡先教えておいて。急に説教くさいこと言って……)
アキヤマは少しだけ気分を悪くしながらも、その日のうちに水樹へ返信を送った。
来週水曜日のスケジュールは空いていること。
参加できること。
短い文章だった。
◇
迎えた水曜日。
今度の撮影現場は、前回とは打って変わって郊外だった。
海沿いにある某キャリア携帯の電波塔の下。
そこが集合場所だった。
場所の連絡が来たのは前日の夜。
アキヤマは、連絡の遅さに少し苛立っていた。
(こっちは行ってやる立場なのに……)
まだどこか、客のような感覚でいた。
しかも今回も現地集合。
車で1時間
高速を降りると、周囲にはコンビニすらなくなった。
潮の匂いが少しずつ強くなる。
海沿いの一本道を走りながら、アキヤマはぼんやりと思った。
(CMって、こんなところで撮るんだ……)

海沿いの電波塔の周囲には、
本当に何もなかった。
その日は雲ひとつない晴天で、
アスファルトの照り返しが強い。
風だけがやけに強く、
遠くで波の音が聞こえていた。
すでに撮影スタッフたちは集まっていて、
仮設テントが組み立てられている。
企業の社員なのか、
パリッとしたスーツを着た人間たち。
撮影クルーに囲まれた監督らしき人物。
大型のレフ板を抱えたスタッフ。
そして、明らかに空気の違うタレントたちと、
その周囲を動き回るマネージャー。
多くの人が行き交い、
現場は活気を帯びながらざわついていた。
アキヤマは現地に到着すると、
水樹を見つけて声をかけた。
水樹はすでにインカムを耳につけ、片手に香盤表を持ちながら別のスタッフと同時に会話をしていた。
「あ、来てくれてありがとう!」
そう言うと、
水樹はすぐ隣にいた女性へ手を向けた。
「こちらは今日あなたに共演してもらう、うちの事務所のタレントのハンナ。
ダブルよ。たしか、お父さんがアメリカ人なの」
ハンナは長いストレートの髪を胸元まで流し、白いシャツにデニムというシンプルな格好をしていた。
同い年くらいだろうか。
肌は透き通るように白く、
目鼻立ちがはっきりしている。
だが、それ以上に印象的だったのは立ち姿だった。
何もしていないのに、人の目を引く。
ただ立っているだけで、
周囲から少し浮き上がって見えた。
ハンナは軽く微笑みながら、小さく会釈をした。
「よろしくお願いします」
声は思ったより低く、落ち着いていた。
アキヤマは少し緊張しながら頭を下げ返す。
その間にも、水樹は香盤表をめくりながら周囲へ視線を飛ばしている。
「あ、ごめん!」
突然、監督に呼ばれた水樹は顔を上げた。
「またあとで!」
そう言い残し、水樹はアキヤマの隣にハンナを残したまま、再び現場の奥へ走っていった。
ポニーテールが風の中で大きく揺れる。
アキヤマは、目の前にいる綺麗な女性に緊張しながら、撮影が始まるのを待っていた。
◇
撮影は、なかなか始まらなかった。
しかも、なぜ遅れているのかについて、タレント側へ説明はほとんどなかった。
今回このCMに参加しているタレントは、アキヤマを含めて10名
前回のエキストラ撮影では百人近くいた。
アキヤマはその中の一人でしかなく、決められた場所から場所へ、セリフもなく歩くだけの役だった。
しかも一発OK。
だとすれば今回は10名
単純に考えれば、10倍
アキヤマはそんなことをぼんやり考えながら、海沿いの強い日差しの中に立っていた。
だが、撮影は一向に始まらない。
空には雲ひとつない。
照り返しだけがじわじわと体力を奪っていく。
すると、水樹ともう一人の女性スタッフが、大きな固定式パラソルを慌てて立て始めた。
「ちょっと待って、風やばい!」
「押さえて押さえて!」
パラソルは海風にあおられ、大きくぐらつく。
その日は風が強かった。
隣にいるハンナの長い髪は何度も大きくなびき、そのたびにヘアメイクの女性スタッフが駆け寄ってくる。
「すみません、前髪だけもう一回!」
「ハンナさん、ちょっと顎引いてもらっていいですか?」
髪を整え、メイクを直し、また少し離れる。
だが数分後にはまた風が吹き、再び駆け寄る。
その横で、水樹はインカム越しに誰かと話し続けていた。
「はい、まだ雲抜けません」
「あと10分
「機材の準備整ったらすぐいけます!」
そのたびに、
「この風が少し弱くなったら」
「雲が向こうに抜けたら」
「光が安定したら」
と、さまざまな理由が現場を飛び交っていた。
アキヤマはその様子を見ながら、ぼんやりと監督から事前に説明されたCM内容を思い返していた。
某キャリア携帯に関わる、さまざまな立場の人々。
電話をかける家族。
恋人。
会社員。
(あー……あのスーツの人たちは会社員役か)
そして別撮り予定らしいコールセンターのスタッフ。
最後に、そのすべての人たちが電波塔の下へ集まり、笑顔で話し合う。
その様子を遠くからカメラがゆっくり寄っていき、最後は全員の笑顔でCMが終わる。
監督は雑な絵コンテを片手に、ざっくりそんな説明をしていた。
(…だとしたら今回も30分くらいかな)
アキヤマは軽く考えていた。
……だが、そうはならなかった。
1時間
なぜ始まらないのか。
どれくらい待つのか。
説明はなかった。
タレントたちは、いつ始まるかもわからない撮影を、炎天下の中でただ待ち続けていた。
アキヤマが困惑していると、隣に立っていたハンナが静かに声をかけてきた。
「もうすぐ始まるから、しっかり準備して待ちましょう」
ハンナはスマホも触らず、背筋を伸ばしたまま前を見ていた。
(準備……準備って何だ?)
アキヤマはさらに困惑した。
今回の撮影に向けてアキヤマがしてきた“準備”といえば、
・バイト先に頼み込んで休日を変更したこと
・水樹から送られてきた2つの約束
そして2つの約束
・白いTシャツ(できれば無地)とデニムを着てくること
・髪を染めないこと
それ以外に何を準備しろというのか。
ハンナはそんなアキヤマとは対照的に、風に髪を揺らしながらも落ち着いていた。
ヘアメイクが来るたびに自然に顔を向け、
スタッフの細かな指示にもすぐ反応する。
待機時間が長くなっても、疲れた様子を見せない。
むしろ、撮影が近づくほど静かに集中しているように見えた。
そして撮影は、突然始まった。
「撮影スタートするぞー!」
監督の大きな声が響いた瞬間、それまで散らばっていたスタッフたちが一斉に動き出した。
レフ板が持ち上がる。
カメラがレールへ乗せられる。
マネージャーたちは一気に持ち場へ散る。
そしてタレントたちの空気も変わった。
さっきまで雑談していた人間たちが、
急に“画面の中の人”になる。
アキヤマはその変化についていけなかった。
動くカメラを目で追いながら、周囲に合わせるので精一杯だった。
撮影は3テイク
あとから時計を見る。
集合から一時間。
現場待機でさらに一時間半。
撮影時間は30分。
合計3時間。
そして、アキヤマの仕事は終わった。
撮影終了後、
OKショットをモニター越しに見せてもらった。
アキヤマの動きや目線は、明らかに不自然だった。
周囲のタレントたちは自然に笑い、
自然に立ち、自然に視線を動かしている。
だがアキヤマだけが、どこか浮いていた。
CM全体から見れば、一瞬のカットでしかない。
しかもメインでもない。
おそらく完成した映像としては問題ないのだろう。
だがアキヤマは、自分の演技のヘタさにしっかり失望していた。
こんなに短いカットなのに。
こんなに一瞬しか映らないのに。
その“一瞬”にすら、自分は入れていなかった。
そこには技術不足だけではなく、
自意識も混ざっていた。
「どう見られるか」ばかり考え、現場の空気にまったく入れていなかった。
だが、そんなアキヤマに対しても、
ほかの9人は誰も見下さない。
むしろ自然に声をかけてくれる。
それが逆に、アキヤマには少し苦しかった。
撮影終了後。
アキヤマは帰り支度を終え、車に乗り込もうとしていたハンナへ声をかけた。
「あの……ハンナさんが言ってた“準備”って、どういう意味だったんですか?」
ハンナは少し驚いたような顔をした。
そして次の瞬間、とても大きな笑顔を浮かべた。
「いつ撮影が始まっても、自分のベストパフォーマンスをそこへ持っていける準備のことだよ」
海風で長い髪が揺れる。
ハンナはそれを耳にかけながら、自然に続けた。
「待ってる時間も仕事だから」
アキヤマは言葉を返せなかった。
そのまま、ハンナを乗せた車が遠くへ走っていくのを、ぼんやり見つめていた。
なんの手応えも感じられないまま、たった3時間の拘束で、途方もない疲労だけが残っていた。
力なく車へ向かっていると、後ろからまた水樹が走ってきた。
「アキヤマ君! 今日お疲れさま!」
水樹はすでに次の現場へ向かう準備をしながら話していた。
「どうだった? わたし次あるからもう行かなきゃなんだけど。また連絡するね!」
そう言いながら、水樹は返事も待たずに走り去っていく。

どうだったもなぁ……
アキヤマは帰りの車を運転しながら、朝からの出来事を思い返していた。
準備、か。
その後、車を走らせながらハンズフリーで大山と話していたアキヤマは、ハンナの年齢を聞いた瞬間、思わずハンドルを握り直した。
「え? 42歳?」
同い年くらいだと思っていた。
海風の中で髪を押さえながら立っていた姿。
待機中も崩れなかった背筋。
疲れを見せない笑顔。
あれは、偶然ではなかったのだ。
ハンナは日頃から肌のケア、喉のケア、食事、睡眠、健康管理を徹底しているらしい。
事務所のエースタレントの一人だと大山は言った。
ハンナの言っていた“準備”とは、撮影中の集中のことだけではなかった。
撮影前日。
撮影当日。
いや、それ以前の日常そのもの。
いつ、どんな仕事が来ても、最高の状態を現場へ持っていけるよう、自分自身を整え続けること。
つまり、“自分自身を商品として扱う”ということだった。
(確かに……奥が深い)
アキヤマは、水樹に声をかけられた日のことを思い返した。
大山との電話。
撮影当日までの自分のスタンス。
待機中の気の抜けた時間。
あの現場に立っていた人たちと、自分はまるで違っていた。
ハンナは、
撮影が始まる前から、
もうすでに仕事をしていた。
待機時間も、
移動時間も、
風が強い時間も。
あの人は、
「撮られている瞬間」だけで成立していたわけじゃなかった。
そしてその”商品”は、まず自分自身で磨かなければ品質は上がらない。
アキヤマは車に流れるHIPHOPの音量を少し下げた。
赤信号で止まり、
バックミラーに映った自分の顔を見る。
今日の自分は、
画面の中でずっと浮いていた。
家に帰ったら、
水樹へ連絡をしようと思った。
今度は、
軽い気持ちではなかった。
了
