トイレが収まらなかった日|サクラが「理解しているつもり」で仕事を見誤った話
Project MOON No.06-2'
その日、サクラは初めて仕事が怖いと思った。
初めて工事管理を任された現場で、便器の位置が思った場所に収まらなかった。
商品自体は合っていた。トイレの交換なんて簡単だと思っていた。お客様からの要望も確認したし、カタログの仕様も頭に入れていた。だから問題はないはずだった。
「排水芯が違うね」
会社が抱える設備職人が、低く、底に響くような声で言った。
サクラは、その言葉の意味が分からなかった。排水芯という言葉は知っていた。図面にも書いてあった。けれど、その数字が何を決めているのかを理解していなかった。
トイレはトイレだろうと、どこかで簡単に考えていた。
カタログどおりに選べば、その通りに納まるものだと思っていた。
でも、目の前のトイレは納まらなかった。
設備職人は怒っているわけではなかった。
ただ淡々と、確認するような口調で言った。
「排水芯は、発注するときに確認しなかったのか?
これじゃあ、便器が前に出すぎてドアが閉まらねえぞ」
サクラは言葉を失った。喉の奥が少しだけ乾く。何かを答えなければいけないのに、言葉が出てこなかった。
想定しうることはすべて確認してきたつもりだった。
確認した“つもり”だった。
“排水芯200mm”
図面に書かれていたその数字が、暮らしの中で何を意味しているのかを、サクラはまだ知らなかった。
◇
サクラはリフォーム会社に転職して二か月になる。前職は都内に四店舗のカフェを展開する会社の本社だった。マルチタスクな業務が苦手で、忙しさに追われるうちに判断が遅れ、クレームを抱え込み、周囲に迷惑をかけてしまった。結果的に、退職という形で区切りをつけた。
転職したリフォーム会社は未経験の業界だった。正直に言えば、強い動機があったわけではない。なんとなく飛び込んだ世界だった。
その日、サクラは、自分がまだこの仕事の入口にも立てていなかったことを知った。
◇
現場を出たあと、車の中で先輩は特に何も言わなかった。
怒られたわけではなかった。
ただ、「次から気をつけよう」とだけ言われた。
その言葉が、かえって重かった。
サクラには、「何に気をつければよかったのか」が分からなかった。
排水芯の数字は図面に書いてあった。数字は確認していた。仕様書も見た。寸法も見た。
けれど、それが何のための図面なのかを理解したうえでの確認ではなかった。
数字を確認する“意味”を知らないまま、「図面を見て発注しろ」と言われた通りに手を動かしていただけだった。
本来は自分の現場であるはずなのに、どこかで「先輩が見てくれている」という甘えがあった。
作業としてはやっていた。
でも、それは仕事ではなかった。
サクラは、取り付けるトイレの排水芯の寸法を間違えて発注していた。
それ以外は正しかったはずだった。商品も、色も、仕様も、工事段取りも、お客様への連絡も、事前養生も、荷物移動の指示も、駐車場の手配も。すべて整っていたはずだった。
それでも、排水芯をひとつ間違えただけで、現場は成立しなかった。
窓の外に流れていく景色をぼんやりと見ながら、サクラは自分が理解していると思っていた範囲を記憶の中でなぞっていた。
トイレは、サクラが考える「トイレ」ではなかった。
それは、家庭で、家族が毎日使う設備だった。
排水の位置が合わなければ、暮らしを損なう寸法だった。
サクラは、契約を取り、工事を段取りし、着工に立ち会うその瞬間まで、それを具体的に想像できていなかった。
車の中は静かだった。
エンジン音だけが一定のリズムで響いていた。
先輩は、何事もなかったかのように前を見て運転していた。
確認したつもりだった。
分かったつもりだった。
でも、その「つもり」は現場では何の役にも立たなかった。
そこには忖度も配慮もなく、
新人だから仕方ない、という空気もない。
すべては、そのまま結果として現れるだけだった。
住宅リフォームの仕事は、
契約をもらえば終わる仕事ではなかった。
商品を選べば終わる仕事でもなかった。
工事の段取りをしても、
職人を手配しても、
商品を発注しても、
着工前の準備を整えても、
そのどこか一つでも理解を誤れば、現場は成立しない。
たとえば、トイレの排水芯を間違える。
それだけで、すべてが崩れる。
排水芯の位置は、ただの数字ではない。
その場所でどう暮らすのか――
家族の毎日の形を決めてしまうものだった。
◇
帰りの電車の中で、サクラは少しだけ転職を後悔した。
会社を、業種を間違えたのかもしれないと思った。
前の仕事では、ここまで細かいことを求められることはなかった。
ここでは、分かっていないことがすぐに明らかになる。
ごまかしはきかない。
“仕上がり”という一つの結果において、それは必ず現れる。
受け取るお客様の目と、自分の仕事に誇りを持つ職人の目によって、隠しようもなく露わになる。
確認したつもりだったことが、確認になっていなかった。
理解したつもりだったことが、理解になっていなかった。
(私はまだ、この仕事の入口にすら立てていない)
揺れる電車の中で、窓の外に流れていくビルの灯りをぼんやりと見つめながら、サクラはそう思った。
電車の窓に映る自分の顔を見ながら、面接のときに言われた言葉を思い出す。
「俺たちは顧客の生活を託されてるんだ」
その言葉を聞いたときは、大げさだと思っていた。
リフォームという仕事が、そこまで人の生活に踏み込むものだとは思っていなかった。
でも、排水芯を間違えるとトイレは設置できない。
設置できたとしても、正面の扉までの距離が足りなくなり、足が収まらなくなるかもしれない。
あるいは後ろの壁を削らなければならなくなるかもしれない。
それはもう、「交換」ではなかった。
生活を壊す可能性のある判断だった。
家にトイレがない生活なんて考えたことはなかった。
でも、もしあのまま設置できなければ、それが現実になっていたかもしれない。
幸いにも設備職人の機転で、仲間の在庫品を仮設置することができた。
あのときの素早い対応がなければ、お客様の信頼は取り返しのつかないところまで落ちていたはずだった。
日々の暮らしを支えているのは、目に見えない数字だった。
トイレにおいては、それが排水芯だった。
そして、その数字を決める仕事を、自分はしていた。
◇
その夜、机の上に図面を広げた。
排水芯について、もう一度ゼロから理解し直すためだった。
図面の寸法を見た。承認図面と、今回の手書き図面を見比べた。現場写真を並べた。建築用語辞典を開いた。
排水の位置があり、給水の位置があり、壁の厚みがあり、床の高さがある。
そのすべての条件の上に、トイレは静かに置かれていた。
トイレはただの設備ではなかった。
空間の中で、毎日使われる場所として、自然に存在していた。
カタログの中から選び、仕様を説明し、金額を伝える。
間違いではない。でも、足りなかった。
この会社でのリフォーム営業は、契約がゴールではなかった。
むしろ、契約はスタートだった。
そこから先に、本当の仕事があった。
お客様との打ち合わせで決めることは無数にあった。
一つひとつが暮らしに影響する選択だった。
さらに商品を発注し、納期を合わせ、職人を手配する。
特にトイレ工事は、ほとんどが一日で完結する。
すべての工程を一日に集約し、確実に収めなければならない。
一つでも狂えば、現場は止まる。
サクラは、その重さをようやく理解し始めていた。
排水芯は、ただの寸法ではなかった。
暮らしを支えるための、意味を持った数字だった。
◇
「俺たちは顧客の生活を託されてるんだ。君はそういう覚悟で、この会社に入ってこれるか?」
サクラがこの会社に入社するとき、面接で言われた言葉だった。
面接官は、人事部長と名乗っていた。名前はもう思い出せない。ただ、その男はやけに厳しかった。
どの会社でも歓迎される中で、この会社だけが違った。
(覚悟がないなら来るな?普通の営業がしたいなら他に行け?)
サクラの中で、何かが引っかかった。
負けず嫌いな性格が、静かに火をつける。
――ふざけるな。
――入ってやろうじゃないか。
そう思って、この会社を選んだのだった。
(……失敗したかもしれない)
そう思いかけて、サクラはその言葉を飲み込んだ。
苦しいのは、覚悟の上だった。
自分で切った啖呵だった。
逃げる理由にはならない。
サクラは図面と現場写真を改めて揃え直し、冷蔵庫からサラダを取り出した。
フォークで乱雑に口へ運ぶ。
(さあ、明日は取り返すぞ)
声には出さなかった。
でも、その言葉は確かに胸の内にあった。
さっきまで沈んでいた視線が、少しずつ前を向いていく。
建築用語辞典を手に取り、もう一度水道設備のページを開く。
排水芯という言葉を、見つめ直す。
頬張ったレタスは、少しだけ苦かった。
その味を噛みしめながら、サクラは図面と辞典に視線を走らせた。
サクラは図面に、ひとつずつ線を引いていった。
了
この物語は、リフォーム営業として働くサクラのはじまりの記録です。
トイレひとつをきっかけに、
「仕事とは何か」「責任とは何か」を見誤っていたことに気づくところから、
彼女の物語は始まります。
サクラシリーズでは、現場で起きる違和感や判断の揺らぎを通して、
仕事の見え方が少しずつ変わっていく過程を描いています。
▼サクラシリーズまとめはこちら
この物語の前に、サクラは別の場所で働いていました。
うまくできないこと、抱え込みすぎてしまうこと、そして、仕事から少し距離を置くことになった過去。
その原点は、こちらにあります。
▼サクラ0エピソード(転職前)
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