「30歳、失恋をしたら年下のペットができました。ただし、まったく可愛くない。」第1話

◆あらすじ
主人公・月島結依は三十歳の誕生日に、五年付き合った恋人に別れを告げられる。ヤケ酒をした夜、たまたまバーで出会った自称家なき子の謎の青年、天音と一夜を共にしてしまう。そして翌日、天音から二十歳であることを明かされ、「俺のこと飼うって言ったじゃん」と迫られる。一夜の過ちをなかったことにしたい結依は、天音から逃げようとするが、失恋の傷を癒してくれた天音に流され、奇妙な同居生活が始まることに。さっさと結婚して落ち着きたいのに、危険な香りがする年下男子に沼っていく結依。さらに職場の上司や別れた元恋人からも迫られて……まだ三十歳、もう三十歳――人生に悩めるアラサー女子の恋物語。

◆登場人物設定
月島結依(つきしまゆい)(30)
本作の主人公。食品メーカー企画部で働くOL。一人暮らし、猫を飼っている。
意見ははっきりと言えるが、押しに弱く流されやすいかつ巻き込まれ体質。
結婚や出産は一般的にするものだと思っており焦りを感じているが、願望が強いわけではない。

本郷天音(ほんごうあまね)(20)
結依が拾った美青年。音楽の才能にあふれていて配信などを行っている夢追い人。
結依の勤める食品メーカー社長の次男だが、婚外子のため父親との仲は悪い。
見た目や肩書きで寄ってくる人間に辟易している。
結依には家がないと言って居候の身になるが、本当はある。
会社跡継ぎのスペアとして傍に置いておきたい父親から逃げるように生活している。
結依とは過去、路上ピアノを弾いていた時に出会っている。

本郷怜(ほんごうれい)(33)
結依の直属の上司であり、天音の腹違いの兄。
結依たちの勤める食品メーカー社長の嫡男であるが隠している。
結依にずっと片思いをしており、恋人と別れたことでアプローチするようになる。
天音のことは気にかけているが、嫌われており関係は良くない。

若宮瑛太(わかみやえいた)(30)
結依の元恋人。自信家でプライドが高い。
結依の後輩、紬と浮気し結依を振るが、後に結依とヨリを戻そうと奮闘する。

荒木 紬(あらき つむぎ)(24)
結依の後輩。人のモノが欲しがるクラッシャー女子。
結依の恋人である営業部エースである瑛太に手を出し浮気をする。

◆第1話

 毎朝、決まった時間に鳴り響くアラームが今日はどこか遠くに聞こえる。
 カーテンを閉め忘れたせいで、部屋の中に差し込んだ日差しが眩しい。
 昨夜、遅くまで酒を飲んでいたせいか頭は痛いし、身体は異常に重い。
 何の変哲もない、いつも通り、ちょっと飲みすぎた日の朝。
 身体が重いのはたぶん、歳のせいだと思う。
 私は昨日、三十歳を迎えたばかりなのだから。

 三十代になった瞬間これか……気持ちの問題かな。

 どんなにだるくても辛くても、今日は平日ど真ん中。
 仕事を休むわけにいかないと起き上がるけれど――

「ん……?」

 意思と反して、動かない身体に首を傾げる。
 起き上がらないんじゃない、起き上がれないのだと確信するまで、ほんの数秒。
 はっと意識が覚醒すると、隣でもぞっと何かが動いた。

「あ……おはよ」

 かすれた声で呟いて、私を抱き締める拘束を解いて、眠たげな目をこする。
 狭いシングルベッドの隣で眠っていたのは、恋人でも、飼い猫でも、幽霊でもない。
 上裸の非常に顔が良い、若い男だ。

「どちら様、ですか……?」
「あはは、すっげー他人行儀」

 見慣れない柔らかな金髪。
 私より明らかに若い男は、見た目と言葉遣いのわりに上品に笑うと、起き上がりかけた私の身体を、再びベッドへと沈めた。

「俺のこと、飼ってくれるって言ったじゃん。覚えてないの? おねーさん?」

 飼う……?

 形の良い唇の端を結んで、男がきれいな笑みを浮かべる。
 その笑顔に、昨夜の記憶が流れ込んで来た――

◇ ◇ ◇

 瑛太(えいた)、もう着いてるよね……。
 
 時計を気にしながら、恋人との待ち合わせ場所へと向かう。
 スーツ姿の人々が行き交うオフィス街を抜け、繁華街へ。
 煌びやかな外装のフレンチレストランの前に到着すると、すっと背筋を伸ばした。

 ――私、月島結依(つきしまゆい)は今日、三十歳を迎えた。
 そして今日は、これからの私の人生を大きく変える日になる予定だ。
 なぜなら五年付き合った恋人から「大事な話がある」と言われているから。
 誕生日に大切な話、しかも普段行くことのない格式の高いレストランで。
 これはもう結婚の話以外考えられない。
 正直、結婚に不安がないわけじゃない。
 とくに結婚や出産でキャリアが中断することはよく聞く。
 でも幸い、うちの会社は産休や育休制度もしっかりしているホワイト企業だし、女性の管理職採用を積極的に行っている。
 だから数年、ブランクができたとしてもキャリアにそう響くことはないだろう。
 しかも、恋人の瑛太とは同じ会社に勤めているため、ゆくゆく子供ができたとしても、子育てしやすくもあるはず。
 数年先のことまで考えて、今後のプランはばっちりだ。
 そして私は、何よりも結婚がしたい……! だってもう三十歳だもの。
 私は上がった息を整えると、重たい店のドアをゆっくりと開けた。
 
 出迎えてくれた店員の男性に、予約の名前であり恋人の名、若宮(わかみや)を伝える。
 すると店員はやや気まずそうな顔をした後で、にっこりと笑みを浮かべた。

「お待ちしておりました。ご案内いたしますね」
「はい……?」

 何だろう、今間があったような……気のせいかな。
 気を取り直して、ホールの中へと移動する。
 中央ではピアノの生演奏が行われており、雰囲気がある。
 お客さんが思い思いに食事を楽しんでいる中、辺りを見渡してみるけれど、そこに恋人の姿はなく――

「こちらへどうぞ」

 なぜか、空席へと案内された。
 一瞬席を外しているのかと思ったけれど、テーブルセットは一名分だけ。
 明らかに様子がおかしくて、私は店員に声をかけた。

「あの連れがいると思うのですが……」
「はい? 今日のご予約は一名様で伺っておりますが……」
「え?」
「ご予約いただいた男性から、そちらのお手紙を渡すようにと」
「手紙……?」

 言われて、テーブルセットの前に置かれている上質な手紙を手に取る。
 想定外のことに戸惑いつつも、今日が特別な日であることにピンとくる。

 まさかサプライズを……? そんなことしない人なのに、頑張ってくれたのかな。

 どんなサプライズを用意しているのか、まるで想像はつかないけれど、ドキドキしながら手紙を開ける。
 中身はたった三行。飛び込んで来た文字に、私は言葉を失った。

「何、これ……」

 結依、誕生日おめでとう。
 突然で申し訳ないけど、別れてほしい。
 今までありがとな。 

 別れてほしい……?
 あれ、これってサプライズの一貫……だよね?
 このタイミングで、「ドッキリでした」って現れるやつだよね?
 頭にはてなマークが飛びながらも、ぱっと周囲を見回す。
 けれど、瑛太の姿はなく……隣にいた店員が淡々と説明をし始めた。

「……お支払いは若宮様へ、と伺っております。まずはお飲み物からいかがでしょうか」
「え、あ……ちょっと、考えます……」

 メニューリストを受け取ると、店員はそそくさと去って行く。
 その後も念のためと恋人の登場を待ったけれど、待てど暮らせどやって来ることはなく。
 私はやっと最悪の事態を把握した。

 うそ、ドッキリじゃないの、これ……?
 私……振られたの? 手紙一通で? 本当に……?
 
 入店時に感じた、店員から感じた違和感は、「一人でフレンチを食べに来た女」か「これから振られる女への憐み」だったのだろう。
 それでも信じられなくて瑛太に連絡を何度もしたけれど、既読がつかなければ、折り返しの電話が鳴ることはなくて――
 傍で演奏されている聞き覚えのある曲が、嫌になるくらい耳に残った。

◇ ◇ ◇

 突然の別れから数時間後。
 ショックが怒りへと変わった私は、行きつけのバーで飲み干したグラスをカウンターへ強く置いた。

「別れ話を手紙でするって舐めてんの? 誕生日に高級レストランで一人で食事させるって何? サイコパス? つうか電話出ろや!!」

 結局瑛太から連絡が来ることはなく、レストランでひとり食事をし、しこたま飲んでやった。
 まずは乾杯のスパークリングをひとりで飲んだ後、赤ワインを一本ボトルで飲み切った。
 さらに食後にバースデープレートがついたケーキが出てきたときは耐えられなくて、追加で軽めのロゼを一本追加してやった。おかげでお腹はちゃぷちゃぷ、頭もくらくらして散々だ。
 どうせなら一番高いやつをって思ったけれど、さすがに桁がひとつ違うのがこわくてやめた。
 だけど今なら思う、やっぱり頼めばよかったと。
 こんな時まで、相手のことを考えてしまう自分が情けない。

「最悪な誕生日すぎん……?」

 カウンターで項垂れる私の向かい側で、このバーのオーナーであり、友人の明美(あけみ)が他人事のように笑った。

「ていうわりには満喫してるじゃん。ちゃっかりひとりで飲み食いしてきたわけだし」
「だって、もったいないじゃん……! しかも人気店で料理もめっちゃ美味しいんだよ?」
「だからってふつうはできないと思うけど。あ、頼むからここで吐かないでよ。結依飲みすぎだし」
「つっめた……親友が振られたっていうのに……」
「まあまあ、最後に美味いご飯食べられてよかったって思えばいいよ」

 明美はまったく悪びれることなく、私をなだめる。
 きっと明美だって、私の立場だったら同じことをする。
 いや、それどころか躊躇することなく一番高いボトルを開ける女だ。
 そんな彼女に、これ以上何を言っても共感は得られないと諦めて、一番許せないことについて話を振る。

「そもそもさ、五年も付き合ったのに手紙だけってひどくない?」
「付き合い長いからこそ言いづらかったんじゃない? 結依に言いくるめられると思ったからとか?」
「瑛太はそういうタイプじゃないよ。嫌なことははっきり言うしさ」

 口は上手いしお調子者だし、どちらかと言えば言いくるめられるのはいつも私のほうだった。

「しかも! せめて今日言うなって感じじゃない!? 私今日誕生日だよ? こんなのってあんまりだよ……」
「昨日言われも明日言われても変わらないでしょ」
「そう、なんだけど……。でもさ、仮に向こうも言いづらかったとしたら、別れるのか迷ってたってことだよね? まだチャンスは――」
「今そんなタイプじゃないって自分で言ったばかりじゃん、記憶喪失?」
「うっ……」
「ていうか、少しでも良心があるならそんな酷いことしないよ。結依の言う通りただのサイコパスだって。よって復縁は無理だね。やめたほうがいい」
「ねえ、何でこんな日くらい味方でいてくれないのっ!?」

 明美の冷静なツッコミに、なんだか悲しくなってくる。
 今は嘘でもいいから誰かに優しくされたいのに。

「ごめんって。じゃあアドバイス、失恋は新しい男で癒せ」
「雑……」
「いや間違ったことは言ってないでしょ。誰かいないの? 職場とかにいい人」
「いないよ。ていうか職場でとかもう無理だし絶対嫌」
 
 たった数時間ほど前、元恋人になった若宮瑛太(わかみやえいた)は、今勤めている食品メーカーの企業、フードブリッジ株式会社に新卒入社した同期。
 マーケティング部の私と、営業部の瑛太は部署こそは違うものの、付き合いが長かったこともあり社内では周知の仲だ。
 そんな職場で新たな出会いがあるわけないし、何よりも今後が気まずい。
 別れたともなれば、周りには気を遣われるだろうし……。
 この先のことを考えてため息が漏れると、明美が「でもさ」と落ち着いた声で続けた。

「物は考えようだけど、そういう運命だったんだよ。結婚も時期じゃなかったってことで」
「時期じゃないって……私今日で三十だよ? 今からまた新しい人と出逢って結婚とか、いつになるのよ……」
「そんなに結婚願望強かったっけ?」
「孤独死はしたくないじゃん!!」

 正直なところ、もともと結婚願望が強いわけじゃない。
 なんとなく年齢とか世間体を考えると、いつかはするんだろうなとはぼんやり考えていた程度。
 でも一昨年、親戚の独身の叔母さんが住んでいたアパートで孤独死を遂げたって聞いて怖くなったんだ。
 私も結婚しなかったらそうなっちゃうんじゃないかって。

「死んだことに誰にも気づかれずに、死んでいくのは嫌……」

 だから結婚と言うのは尚早かもしれないけれど、瑛太とは長い付き合いがあるし、結婚するなら彼なんだろうなと思っていた。
 なのに、こんなことになるだなんて……。

「気持ちはわかるけど、孤独死避けるために結婚とかリスク大きくない? 今なんていくらでもひとりじゃない方法なんてあるのに」
「どんな方法よ」
「買えばいいじゃん」
「かう……? 愛猫ならもういるけど……」
「猫じゃない。男だよ男」
「はいっ?」
「若くなくなっても金さえあれば相手なんて買えるんだから、そんな悲観的にならなくてもいいじゃんって話。幸い結依は大手企業に勤めて将来安定でしょ?」

 明美がシェイカーを振りながら、とんでもない発想をこぼす。
 金で男を買うなんて、考えたこともなかった。
 
「今のは一例だけど。結依も仕事ばっかで男だって多く付き合ってきたわけじゃないんだし。もう少し遊んでからゆっくり考えてみたら~」
「そりゃそうだけど、男を買うなんてありえないし、遊んでる時間なんてもう……」
「あるよ。私たち、まだ三十歳だもん」

 明美が「はい、奢り」と、おかわりのグラスを目の前に置く。
 
「私、この後仕事の約束があって出なきゃいけないから。それ飲んだら帰りな」
「えっ、今から? もう終電終わるよ?」
「次にオープンする店を検討しててさ。近隣店舗の偵察を兼ねてね~」
「はあ……さすがやり手は違うね……」

 明美はこの店を含め、都内に三店舗の飲食店を経営する若手のオーナー社長。
 結婚願望はなく、仕事一筋。生涯独身貴族をうたっている。
 もしかしたら若い男……買ってるのかな。

「じゃあ、私行くね。結依だいぶ酔っ払ってるから、気をつけなね」
「えっ置いて行くの!?」
「たまにはハメ外してもいいと思うけど~じゃっ」

 明美はほんの数分で、従業員にすべてを任せて店を出て行く。
 彼女との付き合いは大学時代から。昔からこうだ。
 雑な彼女だからこそ気兼ねなく何でも話せるのかもしれないけれど、本当にもうちょっと優しくしてくれたっていいのに。
 
「……お酒も優しくないよぉ」

 もう夏も終わったというのに、差し出されたのはフローズンマルガリータ。
 度数も高いしどう考えても、酔っ払ってる親友に出すカクテルじゃない。
 それでも残すわけにもいかず、冷たいカクテルを啜っていると、となりからふっと乾いた笑みが聞こえてきた。

「……?」

 隣をおそるおそる見る。
 ぼんやりとした視界に飛び込んで来たのは、驚くほど顔の良い男性だった。
 うわ、顔良いなこの子……。
 明るい金髪に、片耳にはピアスが光って、普段絶対関わることのないタイプ。
 連れはおらず、私に対して笑ったのだとすぐわかった。

「……何ですか?」
「いや、とっても優しいお友達だなーって」
「どこが……?」

 ぱっと見た印象は、すごく若い。顔も服装も。
 なのに私に対して物怖じもせず遠慮しない態度が、どこか印象的だった。

「おねーさん、失恋したんでしょ。かわいそうに、こんなに綺麗なのに」
「……大人をからかうんじゃありません」
「ひどいなー、俺も一応大人なのに」
  
 男はぷいっとそっぽを向いた私に、くすくすと笑みをこぼす。
 失恋して、親友にはあしらわれ、明らかに年下の男の子には笑われて、やっぱり散々な日だ。
 やけになってカクテルを一気に飲み干すと、トドメのように酔いが回ってくらくらとした。

「お酒強いんだね、大丈夫?」
「……お会計お願いします」
 
 これ以上話す気にはなれず、カウンターから従業員を呼ぶ。
 財布を手に取って立ち上がるけれど――

 あっやば……。

 足元がふらっとして倒れかけたところを、隣にいた男性が抱きとめた。

「酒くさ。どんだけ飲んだの?」

 揶揄するように言われて、羞恥で体温が上がる。
 その拘束を振り払おうとするけれど、男にぐっと距離を縮められて……耳元に低い声が響いた。

「ねえ、さっきお友達と話してた話なんだけどさ……俺が飼われてあげよっか」
「え……?」
「――おねーさん、俺のこと飼ってよ」

 艶めいた声に誘われて、何かすべてがどうでもよくなった――
 気がしたは一瞬で、ふうと息をつく。

「……ふざけないで。私、お金なんて持ってないし」
「お金? あーそういう意味じゃなくて――」
「それに君いくつ? いくら顔が良くたってね、自分のこと安売りしちゃ駄目。いつか取り返しのつかないことになるよ?」

 一瞬、揺らぎそうになった心と身体を立て直して、びしっと男性に説教をする。
 我ながら、なかなか面倒なおばさんだ。
 だけど彼はきょとんと私を見つめて、こらえきれず噴き出した。

「やっば、おねーさんおもしろ。おかんみたい」
「お、おかん……? せめておばさんって言ってよ!」
「えーおばさんでもいいの? お、ば、さ、ん?」

 そ、それはそれでむかつく……!
 男性は私を見て、また笑う。完全に獲物にされている。
 ていうか何で私はこんな若造に遊ばれているの……!?

「とにかく私はあなたを買いません。馬鹿言ってないでさっさと帰りなさい」
「あー待って待って。ならさ、もう少し一緒に飲もうよ」
「はあ? 何で初対面のあなたと――」
「俺さ、今日ちょーっと嫌なことあってひとりでいたくないの。おねーさんもそうみたいだし、傷ついた者同士、どう? 後腐れない関係だから話せることってあるじゃん」
「それは、そうかもしれないけど……」
「じゃあ決まり。家帰ってひとりで傷つくくらいなら俺といてよ。愚痴でも何でも聞いてあげるからさ。もちろん、甘口でコメントしてあげる」
「何それ……」

 適当なのに、今日はじめて誰かに優しくされたみたいで、ノーとは言いづらくなる。
 きっと目の前にいる彼からすれば、たまたま隣の席に座った傷ついたアラサー女で。
 彼は暇つぶしの相手として、私を都合よく利用したいだけ。
 もしかしたら面白半分で声をかけたか、ちょっと痛いとか思われているかもしれない。
 だけど、今日はひとりで帰りたくはなくて、目の前の優しさに甘えてもいいんじゃないかとも思ってしまう。
 ……あと少しだけ飲んで、あと少しだけ気持ちが軽くなったら帰ろう。
 大丈夫、明日は仕事なんだから。
 どんなに酔いつぶれても徹夜しても、たとえ体調が悪くとも、仕事の日は同じ時間に目が覚める。
 遅刻をしたことは、入社してから一度たりともない。
 だから大丈夫だと思ってうなずく。
 だけどその時の私は知らなかった。
 今日から三十歳、いつも通りが通用しなくなる瞬間があることを――

 ――そして、冒頭に戻る。

「俺のこと、飼ってくれるって言ったじゃん。覚えてないの? おねーさん?」

 昨日一緒に飲んでいたはずの若造は、なぜか上裸で私を押し倒していた。
 さらに私も裸だ。感覚から、おそらく裸。
 辛うじてショーツははいている。まあ、もはやどちらでもいいし、はいてないほうが潔くも思えるけれど。

 ……って、そうじゃない。今はこの状況をどうにかしないと。

「そこ、どいて。重い」
「うわ、すげー塩対応。昨日セックスした仲だってのに」
「っ……!」
「まさか本当に覚えてないとか言わないよね?」

 昨日のことは、思い出したくないけれど、覚えてる。
 あの後、目の前の彼と店を変えて一緒に飲んで、だけど早々に酔っ払って……。

「ねえ、おねーさんち行きたい」

 耳元で誘われた言葉を思い出して、自分をぶん殴りたくなる。
 というかぶん殴った。
 
「えーと、おねーさん……?」
「……ううん、何でもないの。とりあえずその『おねーさん』っていうのやめて」
「何で?」
「なんとなく……」

 若い男を誑かした痴女感がある。ものすごく。
 いや、この状況のせいかもしれないけれど。
 男は「ふーん」と考えた後で、私を下から覗き込んだ。

「じゃあ結依ちゃん?」
「は……」
「あれ、名前違う? もしかして偽名だった?」
「合ってるけど……」
「よかった。結依ちゃんって名前、かわいーね」

 なんだこのあざとい生き物。
 ていうか昨日も思ったけど……この子、若くない……?
 重なった肌はさらさらすべすべで、水を弾きそうな瑞々しさがある。
 顔だって毛穴ひとつ見当たらなくて、何よりも非常に顔がいい。
 もしかして、もしかしてだけど……。

「ねえ、君いくつ……?」

 聞くのは怖い。でも聞かなきゃいけない気がしておそるおそる尋ねる。
 彼は私の質問に、にっこりと無邪気な笑顔で答えた。

「俺? にじゅっちゃい」
「にじゅっちゃいか。にじゅっちゃい…………はっ、はたち!?」
「そ。は、た、ち」

 衝撃を受けすぎて、一気に身体を起こす。
 二十歳って正気? いや、未成年だから犯罪ではないか……。
 って、どちらにしてもアウトでしょ……!?

「うそでしょ、私十個も年下の子となんて……」

 明美にたまにはハメ外したらなんて言われたけれど、これは外しすぎでしょ。
 私が猛省する横で、男はけろっとしていて、

「結依ちゃん昨日で三十歳だったんでしょ? 二十と三十なら一個違いってことでいいじゃん」

 なんて暴論まで吐き始めた。
 相手側に被害者意識がないことだけが、唯一の救いだ。
 二十歳の若者さらにイケメンが、三十歳の女と一夜を共にしたなど、なかなかの出来事なのに。
 逆美人局の被害に遭ってもおかしくない。
 怖い人、入って来ないよね……?
 今一度部屋を見回すけれど、どう見ても自宅なのでほっと胸を撫で下ろす。
 そして彼に向き直った。

「……とりあえず、お互いに昨日のことは忘れよう」
「どうして?」
「だって昨日は酔ってて、一時の気の迷いでこういうことになって、それで……」
「俺のこと飼うって言ったのに?」
「はあ、そんなこと言って――」

 ――「俺のこと、飼ってくれる?」
 そう聞かれて、なぜか鮮明に記憶がフラッシュバックしたことを思い出し、もう一度自分をぶん殴る。
 きっと明美のせいで、若い男を買うとか普段しないようなことを吹き込まれたから、そうなったんだろう。
 いまさら言い逃れをできないと、ため息をついて身体を起こす。

「……お金、たぶん払ってないよね。わかった、ちゃんと払うから――」
「だから飼うってそういう意味じゃないよ」
「え?」
「お金じゃなくて、ペットとして飼うってことね」

 ますます訳が分からなくて、目を丸くする。
 男を……飼う? ペットとして? いくら酔ってたとはいえ、どうかしてる。
 逆に冷静になってきて、こほんと咳ばらいをする。

「いい、坊や」
「坊や?」
「昨日のことはごめんなさい。言い訳にしか聞こえないかもしれないけれど、実は私、あまり記憶がないのよ」
「何その喋り方」

 まあ、そこそこあるけど……。

「それにうちにはかわいいかわいい愛猫がいるから、二匹目を買う余裕はないの。わかる?」
「かわいい愛猫ってあれ?」

 彼が窓際に視線を送る。
 そこにはお世辞にもかわいいとは言えない、愛猫の大将(たいしょう)がふてぶてしく寝転がっていた。
 まるでこちらのことなど、眼中にないかのように。

「……そう。だから坊やは――」
「坊やじゃなくて、天音(あまね)って呼んでよ」
「今は名前なんて――」
「ベッドの中では何度も呼んでくれたのになぁ」

 わざとらしく拗ねられて、血の気がさっと引いて行く。
 さすがにそれは嘘だよね?
 もう何が本当で嘘なのかはわからないけれど、この状況がまずいということだけはわかった。

「ってことで、よろしくね。結依ちゃん」

 朝から暴力的な顔の良さを見せつけられて、私はただ目を細めるしかなかった。


◆第2話

◆第3話


#創作大賞2024
#漫画原作部門


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