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全文一気読み|夕日―魅惑の赤、覚醒の赤― 【#創作大賞2026 #ホラー小説部門 】応募作品。全13章・完。約60分で読めます。

◾️各章ごとに読みたい方は【目次】へ

【あらすじ】
夕日 ―魅惑の赤、覚醒の赤―
これは愛を知った男が壊れていく物語。
感情を殺し、自分のルールに従い、
愛車だけを大切に生きていた男・武井。
同僚のめぐみとの出会いに安らぎを見いだす。
彼女と見た夕日の赤は、救いの色に見えた。
だが、その赤は、救いではなく覚醒へと変化していく。
裏社会の男・久保田に導かれる武井。
後戻りできない場所へ踏み込んでいく。
めぐみへの愛。吉田との友情。
金。裏切り。暴力。仕込まれた罠。
それぞれの思惑が錯綜する中、武井は愛と信じて鉄パイプを振るう。
選んだのか。それとも、選ばされていたのか。
彼が見たのは、二種類の夕日だった。

全13章・完。本文約28,000字。
ハードボイルド・サイコホラー。
#創作大賞2026
#ホラー小説部門 応募作品。


【注意】
・本作には、暴力・殺傷を示唆する場面が含まれます。
・苦手な方は閲覧をお控えください。




【第1章】『白い息と 15 カウント』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第1章】バナー
―吉田幸平を、覚えてるな?―

1998年クリスマス。

白い息。
寒さのせいなのか。
煙草の煙なのか。
白さが混じり合う。

その白さの奥に、
吉田の腫れた顔が浮かぶ。
白。競艇。
1号艇と言っていたな。

カイロ代わりの
缶コーヒーも冷めてしまった。

足元には吸い殻が増えていく。

それよりも、
箱の中の煙草が
減っていく方が気になる。

闇の中にZippoの乾いた音が響く。
煙草の先だけが赤く光った。

左手には鉄パイプ。
指先の感覚がほとんどない。

遅い。
クリスマスだからか。

2ヶ月。
たった2ヶ月でこんなことになった。

冷めた缶コーヒーを開けて一口飲む。
口の中がカラカラだ。

ナマハゲと呼ばれる男の仲間。
名前も知らない。
毎日、この時間にここを通る。

吉田の情報。
それだけを頼りに待った。

足音を待つ。
ひたすら待つ。

聞こえてきた足音。

気持ちより先に、身体が前へ出る。

「臭ぇと思ったら、ゴミがあったか。」

男が笑う。

これから自分に起こることを
想像すら、できていないだろう。

「吉田幸平を、覚えてるな?」

返事は待たない。

男の最後の記憶は「吉田幸平」でいい。
鉄パイプを右手に持ち替え、
振り下ろす。

「知らな」

声は途中で切れた。

1。
2。

数えながら振り下ろす。

5。
鈍い音がした。

10。
男はもう動かない。

11。
それでも、身体が止まらない。

15まで数えたとき、
ようやく右手が止まった。

男だったものが、
足元に転がっている。

聞こえるのは自分の息。
荒い呼吸の音だけだ。

吐く息で、視界が真っ白になる。

深呼吸。
鼻から吸って口から出す。
繰り返す。

早くここから離れなければ。
車。
赤いカローラワゴン。

どこに停めたのか分からない。

右を見た。

いない。

左を見た。

いない。

もう一度、右を見る。

いた。

カローラワゴン。赤。

ドアを開けると
冷えたシートの匂いがした。

落ち着く。

カローラワゴンの匂いなら、
どんなものでも俺を落ち着かせる。

腰を落とした瞬間、
背中の熱を吸い取ってくれた。

右手から、鉄パイプが離れない。
握っているつもりはない。

なのに、指が開かない。

振り落とそうとする。
落ちない。
左手だけで運転するしかない。

カローラワゴンのエンジンに
火を入れる。
エンジン音が安定している。

30分走った。

信号は青だった。

多分、青だった。

全部、青に見えた。

信号の右端が赤く光っているのに、
青に見えた。

新聞配達のバイクもいない。

人影もない。

誰にも見られていない。

カローラワゴンのエンジン音。
その音に合わせるように、
俺の呼吸も戻っていく。

部屋に戻っても、灯りはつけない。
ドアを閉める。
静かだ。

右手は、まだ開かない。
鉄パイプが熱い。

さっきまで、
あんなに冷たかったのに。

左手で、指を一本ずつこじ開ける。

固い。

自分の指ではないみたいだ。

乾いた音を立てて、
鉄パイプが床に落ちた。

金属音が、部屋の中で大きく響く。

動けなかった。

しばらく鉄パイプを眺めていた。

初めて人を殺した。

ジャンパーもジーンズも、
血で汚れていた。

それなのに
気になったのは、
カローラワゴンのことだった。

血がついていないか。

傷がついていないか。

シート。
ドアノブ。
ステアリング。

触った場所が頭に浮かんだ。

重なる記憶。
モノクロだ。
子供の頃の記憶。

隣の家に犬がいた。
毎日、うるさく吠えていた。

鉄パイプを振り下ろした。
同じ鉄パイプだ。

数えるたびに
鳴き声は弱くなった。

終わってからしばらく、
鉄パイプを握っていた。

同じだな。何もかも。
カローラワゴンがあるか、ないかだ。

床に落ちた鉄パイプを、
足で蹴って壁際に寄せた。

カラカラと、乾いた音が響く。

音が止むと、
部屋はまた静かになった。

その静けさの中で、
めぐみの息づかいが
部屋の空気を揺らしていた。

カローラワゴンのエンジン音。
安定したエンジン音も
耳の奥で鳴り続けていた。

吉田の分は終わった。
あと2人だ。やってやる。

「終わったの?」

めぐみが言った。

俺は手を見ていた。
指先で擦ると、
固まった血がポロポロと落ちる。

「終わりじゃない。」

声は、自分でも驚くほど
落ち着いていた。


「始まったんだ。」



【第2章】『赤いカローラワゴン』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第2章】バナー
―選んで、選ばれた―

約2ヶ月前。
1998年10月下旬。朝、7時。

毎日、同じ時間に家を出る。

アラームはかけない。

少し音を出すだけで
隣の奴が壁を叩く。

テレビは見ない。
元々持っていない。

顔は洗わない日もある。
歯も磨かない日がある。

靴は揃える。
髭は前の日の夜に剃る。

ネクタイは太い方と細い方を同じ長さにする。
同じ長さになるまで、
何度もネクタイを締め直す。

荷物は持たない。

スーツは1着。

通勤のルートは変えない。
そういうルールだ。

同じ電車、
同じ車両、
同じドアの前に立つ。

高校を出て3年間繰り返した。

自分の「場所」に誰かいると
睨んで移動させた。

誰とも話さない。
目も合わせない。

そのルールが、
壊されていった。
たった2ヶ月で。
想像もできない方向に。


工場では
部品に油が注ぎ込まれる。
火花が飛び散る。

銀色に輝く部品も、すぐに錆びる。

朝は音が重なる。
何も聞こえない。

夕方には、それぞれの音がはっきり聞こえる。

仕事は単純だ。何もかも、
ルールを決めて作業にする。

作業にすれば楽だ。

流れてくるものを、
決められた形にする。

溶接でつなげる。
それだけだ。
考えなくていい。

考えると疲れる。
それに、遅れる。

後ろから「遅い」と
舌打ちが聞こえたら睨み返す。

睨むと大人しくなる。
付き合わなくていい。
友人も、同僚も、面倒だ。

昼休みに
缶コーヒーを一本だけ飲む。

自分だけの時間。
邪魔させない。

仕事が終わると遠回りして
中古車屋の前を通って帰る。

毎日、同じ場所に、
同じ車が並んでいる。

色の褪せた車。
白もある。黒もある。銀もある。
その中に、赤があった。

赤いカローラワゴンがあった。
目立つ色。
最初は目立つだけだった。

気になりはじめた。

通り過ぎるとき、歩く速度が落ちていた。

赤い色が俺を引き込んだ。
鮮やかな赤。

晴れた日は、
当然のように赤い色が輝いた。

雨の日には、他の車が褪せる中、
カローラワゴンは更に映えた。

他の車は走ればいいだけの車。
カローラワゴンも平凡な車。
そんなことは、分かっていた。

でも、このカローラワゴンだけは
違う顔をしていた。

ある日、その場所から消えていた。

別の車が置かれていた。
足が止まった。
その場所に、赤がなかった。

何度見ても、なかった。

代わりに白いセダンが、
置かれていた。

そこにいることが許せなかった。
そこはお前の場所じゃない。

しばらく見ていた。

店の中に入った。

「あの赤いカローラワゴンは?」

「ああ、あれ?売れないから他に回したよ。」

場所を聞いた。
その日のうちに行った。
金額を聞いた。

持っている金では足りなかった。
無理をした。それでも買った。

帰り道、
カローラワゴンの
エンジンに火を入れたまま
しばらく動けなかった。

エンジンの振動に、身体が溶ける。

ダッシュボードに触れる。
ステアリングに触れる。
シートに触れる。

触った場所が、
自分のものになっていく気がした。

それまで、
自分のものと呼べるものは何もなかった。

部屋は古く、借り物。
余計なものは置かない。
冷蔵庫は空。

コンビニで買った惣菜を、
皿を使わず食べる。

ゴミはその都度捨てる。
コーヒーは缶コーヒー。

カローラワゴンだけは違った。

タイヤを換えた。
ステアリングも換えた。
次はホイールだと思った。

よろこんでくれている。

俺が選んだ。
カローラワゴンも、
俺を選んでくれた。

毎週洗った。
水をかけて拭く。
ワックスをかける。

少しでも汚れが残ると、
やり直した。

シートに座ると、落ち着く。

ドアを閉めた瞬間、
外の音が消える。

俺とカローラワゴンだけの世界だ。

カローラワゴンだからと
舐めて煽ってくる奴もいた。

そういう連中を負かす。
舐められたら、黙らせる。

工場で舌打ちする連中と
何も変わらない。

俺は、いつも
カローラワゴンと同じ場所にいた。

安く見られて、舐められて、
それでも走る。

カローラワゴンも俺も、
同じ世界にいる。

ただ、
本当にいい車に乗っている、
本当に運転の上手い奴には
負けるだろう。

なんとなく、そう感じる。
だが、そんなものは負けではない。

その頃の俺には、
赤いカローラワゴンだけが
自分の世界だった。

誰も入れない。
誰にも触らせない。

そう思っていた。

吉田幸平、

いや。


めぐみに出会うまでは。




【第3章】『クラブリッチと吉田』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第3章】バナー
―その男は、なぜか俺に話しかける―

工場の給料では、
カローラワゴンに
十分に使ってやれない。

そう思ったときには、金がなかった。

工場が終わって、夕方から働ける場所を探した。

見つけたのが「クラブリッチ」。

工場の倍の給料をくれる。
でも、倍もきつくはないだろう。
そう思っていた。

名前は派手だったが、
最初にやらされたのは
店の前に立つことだけだ。

夕方から夜中まで、
入口の横に立つ。

風の強い日でも、雨の日でも、
立つだけだ。
最初は、楽だと思った。

だが、立っているだけというのは
思っていたよりきつい。

時間が進まない。

客が来ても、
自分には何もできない。

ドアを開ける。
頭を下げる。
閉める。

それだけだ。

動きがない分、
寒さが襲ってくる。
煙草を吸う回数が増えた。

白い息と煙草の煙が混じり合う。

「ポケットに手を入れるな。」

と言われていたから、指先が先に冷えていく。

煙草を吸うと、余計に冷える。

店の中から、笑い声と音楽が漏れてくる。

別の世界の音みたいだった。
工場の音ともまるで違う。

そのとき、横から缶コーヒーが差し出された。

「持っとき。」

熱かった。
思わず持ち替えた。

「飲むんやないで。ポケットに入れとくんや。
手ぇ冷えるやろ。」

その男は、少し猫背の男だった。
年上に見えた。

髪は適当に流していて、
シャツの襟も曲がっている。

きっちりしていないのに、
妙に場慣れしている雰囲気だ。

「吉田いうねん。」

吉田は自分の分の缶コーヒーを開けて、
ずずっと音を立てて飲んだ。

「吉田幸平っていうんやけどな。
名字は普通の吉田や。
幸平は幸せの幸に、平らの平。
どっちも一本足やろ。」

知らない。
急に漢字をイメージできない。

そう思ったが、
口には出さなかった。

「せやから、
どこ行ってもフラフラして、
まともに務まらへんのですわ。」

自分で言って、
自分で笑っていた。

「そうですか。」

「なんや、自分。薄いな反応。」

「初対面で濃い反応せんでしょう。」

「ハハハ。そうか。それもそうや。」

それから吉田は、
何かあるたびに話しかけてきた。

客の服がどうだとか、
マネージャーの機嫌がどうだとか、
今日来る女の子の一人が
また彼氏と揉めているだとか、
競艇が大好きだとか。

どうでもいい話ばかりだった。

ただ、競艇の話をするときだけは、
吉田の目は輝いていた。

その日、仕事が終わるころに
吉田が店の裏で煙草を吸っていた。

「乗って帰るん?」

「はい。」

「見せてぇな。」

断る理由もなかった。

店の裏のその奥に停めていた赤いカローラワゴン。
その前で、吉田は口笛を吹いた。

「ええ色しとるなぁ。
3号艇やなぁ。武井はん。
赤が好きなら競艇は3号艇から狙い。」

ボンネットを撫でようとしたので、
思わず声が出た。

「触らんでください。」

吉田は手を引っ込めて、笑った。

「怒るやん。」

「汚れる。」

「分かる分かる。大事なもんって、
人に触らせたないもんなぁ。」

それなら最初から触るな、と思った。

「ちょっとだけ乗せてぇなぁ。」

「今度でいいなら。」

「ほんまに?」

「いいですよ。」

「ほな約束や。平和島まで。」

「平和島?」

「世話になった連れがおるんや。
競艇友達なんやけど、
最近ちょいと顔出せてへんでなぁ。」

「そうですか。」

「一緒に行こうや。」

吉田は煙草を靴の裏で消した。

「ええ車乗って、
ええ景色見ながら行ったら、
ちょっとは男前に見えるやろ。」

「そんなもんですか。」

「見たいねん、ハンドル握ると、
男前になる顔。」

「元が元ですからね。」

「お。言うようになったやん。」

どうも吉田との会話は
いまいち成立しないうえに、
しつこい。

それにカローラワゴンに乗る資格は
俺にしかない。
その約束は守れない。

それからも吉田は、
店の前に立つ俺に
缶コーヒーを持ってきた。

熱すぎるやつだった。

本当にカイロ代わりに
ちょうどよかった。

そのうち、吉田が来る時間が
なんとなく分かるようになった。

1時間くらい経つと来る。

「まだ生きとるか。」

たいていはその一声だ。

「なんとか。」

「顔が死んどるで。」

「元からです。」

「便利やな、その顔。」

便利なわけがない。

だが吉田は、いちいち笑った。

笑う意味が分からない。

吉田は、店の中では少し、
浮いているように見えた。

若いスタッフとも年配の客とも、
どこか距離が合っていない。

それなのに、
なぜか誰とも切れていない。

不思議な立ち回りだった。

マネージャーには
よく怒鳴られていた。

返事が遅いだの、
動きが鈍いだの、
客への愛想が足りないだの。

そのたびに吉田は
「すんません」と言って頭を下げた。

だが、頭を下げた直後には
もう別のことを考えている。

そんな感じに見えた。

ある日、吉田が言った。

「武井はん、昼は工場も行っとるんやろ。
しんどないん?」

「別に。」

「寝る時間ないやろ。
工場って、何しとるん?」

「眠くなったら寝ます。
空調部品の組み立てです。
溶接もあります。」

「溶接か。技術あるんやなぁ。」

「慣れです。作業ですよ。」

「若いなぁ。」

吉田は笑った。

「俺も、若いときにそういうの覚えとったら、
違うとこにおったんかな。」

「吉田さんも、今からでも間に合いますよ。」

「そんな歳でもないで。」

そう言ってから、
吉田は煙草をくわえた。

「ただなぁ、
もうちょい真面目に生きとったら、
違うとこにおったんかなとは思うわ。」

「あ、でも、そしたら
武井はんには会えんかったな。」

吉田は笑っていた。

頭に浮かんだのは、
工場で見ている部品の銀色だった。

新品の部品でも、すぐに錆びる。
若いというのは、そういう色だ。
俺も3年でずいぶん錆びた。

「吉田さんは、なんでここにいるんです?」

つい聞いていた。

吉田は珍しく、
すぐには答えなかった。

缶コーヒーを
ずずっとひと口飲んで、
店の灯りの方を見た。

「なんでやろな。」

「分からないんですか。」

「分からんようになるんよ。
気づいたら、ここにおった。」

「武井はんくらいのときは
日雇いの建設現場で日銭作って
翌日には競艇で使ってしもうとった。」

「ここの仕事もええんやけど、
ずっとは続かんように思っとる。
ほら、名前が一本足の幸平やから。」

ふざけているようで、本気。
そんな感じだ。

「でもまぁ、
寒い日に飲む缶コーヒーだけは本物やな。
落ち着くんよ。
ささやかな幸せってやつや。」

いつものように
ずずっと音を立てて飲んだ。

もう一本を
こっちへ投げて寄こした。
受け取る。熱い。

「これ、経費で落ちるんですか。」

「落ちるわけないやろ。」

「じゃあ自腹ですか。」

「せや。」

「なんでです?」

「なんでやろな。
俺も、そうしてもらったからやろな。」

意味のない会話だ。

その夜は客が少なく、
終わるのも早かった。

店の前を掃いたあと、
吉田と並んで煙草を吸った。

「武井はん。」

「はい。」

「人ってな、誰にでも一個くらい
戻りたい場所あるやろ。」

戻りたい場所。
場所と言われても、
光景しか思い浮かばない。

隣の家が飼っていた、うるさく吠える犬。

「さあ。」

「ないんか。」

「ないですね。」

「ほな強いわ。」

「別に強くないです。」

「いや、ない方が強いんや。
戻りたい場所あると、
そこが足引っ張るから。」

吉田はそう言って笑った。

その笑い方が、疲れて見えた。

吉田は優しすぎる。
ルールを決めれば、楽になる。
触らせない。
近づけない。
約束しない。

競艇の話は、そのあとも何度か出た。

「3号艇から狙えば結構増えるで。」

「当たれば、でしょ。」

「今度でええから。」

「そのうち。」

「忘れんといてや。」

「忘れないです。」

吉田は何度も言った。

競艇の話。
昔の連れの話。
平和島の水面は広くてええ、という話。

「捲り差しもええな。
1号艇と2号艇の狭い隙間から抜く。
最高やで。」

聞き流していたが
少しずつ頭に残っていった。

「1号艇が白、2号艇が黒、3号艇が赤」

被せるように聞いた。

「銀色はないんですか?」

「銀色なんかあったら
眩しすぎてレースにならんわ。」

眩しすぎる。
でも、すぐに錆びる。
俺にはそういう色だ。

寒い夜だった。

入口のガラスに
店内の灯りが反射していた。

その向こうに、
自分の顔がぼんやり映っている。

隣には缶コーヒーを飲む吉田がいる。

知らないうちに、それが当たり前になっていた。

一度くらいなら、
乗せてもいいかもしれない。

そう思った。

平和島へのルートが頭に浮かんだ。

でも、俺だけでは決められない。


カローラワゴンは、どう思うだろうか。




【第4章】『あの男と初仕事』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第4章】バナー
―運べば、金になる―

吉田と話すことにも、
慣れはじめた頃。「クラブリッチ」の閉店後。
ようやくフロアで働くかと思えば掃除だった。

音楽もない。
静かな店内。
床に残った水をモップで拭いていた。

ドアが勢いよく開いた。
男が転がり込んできた。

「もう閉店です。」

そう言いかけて、止まった。
顔色が悪い。
息が荒い。

店に入ってきても、
まだ白い息を吐いている。

「助けてくれ。」

視線が泳いでいる。

「トイレ、あそこですよ。」

指で示すと、男はそのまま駆け込んだ。

周りには、俺以外いない。

他のスタッフは、店の奥だ。
事務所で客の酒を勝手に飲んで笑っている。
吉田も一緒に酒を飲んでいる。

フロアにいるのは俺だけだ。

煙草を一本、ゆっくり吸った。
誰も来ない。

トイレのドアが開いた。
男が出てきて、顔を拭いている。

さっきよりは落ち着いているように見える。

「ありがとう。」

近くまで来て、立ち止まった。

「名前は?」

一瞬、考えた。
口が先に動いた。

「吉田です。」

咄嗟に、吉田の名前が出た。
なぜだか分からない。
そうした方がいいと思ったのかもしれない。

男は小さくうなずき、
胸ポケットに何かを押し込んだ。

1万円札と、
名前と住所だけの名刺。

何をやっている男か分からない。
知ったところで何か変わるわけではない。

「助かった。」

それだけ言って、男は出ていった。
ドアが閉まる。
しばらく、動かなかった。

ポケットの中。
1万円札と名刺。
どうするか考える。

報酬ではない金を
受け取りたくはない。

仕事が終わって外に出る。
もう11月だ、夜は冷える。

煙草を一本吸ってから、
カローラワゴンに乗る。

缶コーヒーを飲む。

カローラワゴンの
エンジンに火を入れる。

回転数がわずかに高い。
緊張しているのか。

道路地図を開いて
住所を探す。

30分で見つけた。
小さいが、きれいなビル。

ドアの前、ノック。
鍵が閉まっていたら帰る。
そう決めていた。

ドアは開いた。

「来ると思っていたよ。私の勘は当たる。」

男が立っていた。

リッチに逃げ込んできたときとは、
別人のような余裕だ。

事務所内には、
ファイルがずらりと並んでいる。
几帳面なのか神経質なのか、
全て同じ大きさのファイルだ。

不必要なものは何もない、そんな感じの事務所だ。

「金を返しに来ただけだ。」

名刺と1万円を出す。

「ハハハ。」

男は笑った。
深く、ゆっくり笑った。
余裕のある笑い方だ。

「もらう理由がないからな。」

「君は私を助けた。理由として、十分だ。」

「トイレの場所を教えただけだ。」

「頑固だなぁ、武井君は。」

「吉田」と名乗ったのに「武井」と呼ばれた。
短時間でよく調べたもんだ。

もう十分に喋りすぎだ。
反応したくない。
隙をつくりたくない。

「怖いお兄さんにモテるだろう?」

「男にモテたくねぇよ。」

男は視線を外さない。
痛いほどに視線が強い。

「ここに置くぜ。」

名刺と1万円札を机に置く。
ドアに向かう。

「工場の仕事、面白いか?」

「面白くて仕事してるわけじゃあねぇよ。」

振り向きながら言った。

「噛みつくのは目だけにしてくれないか。」

妙に残る言い方だった。

「格好つけた言い回しで
上からものを言うのは良くないぜ。」

「いいねぇ。」

男はまた、笑った。
いちいち余裕のある笑い方だ。

「だが、その素直さで
つまずくときが、必ず来る。」

黙っていた。
喋らない方が良さそうだ。

「ウチで仕事しないか?」

「人を殺したり、ヤバい仕事はしないぜ。」

「おいおい、飛躍するなよ。
だが、君ならやりかねんがね。」

男は続けた。

「君のアパートの裏に自販機があるだろう。
小さなバッグが置いてある。よく探せ。」

強い視線。
負けそうだ。

「それを大田区の平和島に届けるだけだ。」

平和島。
吉田の顔が浮かんだ。
平和島に連れて行く約束。

地図はこの前調べたばかりだ。
行き方は分かっている。

「終われば、正当な対価を払う。」

「具体的には?」

「駅横のゲームセンターだ。
プリクラの中に置いてこい。」

それだけだった。

「やるかどうかは、君が決めればいい。」

リッチに駆け込んできた時とは違う、
余裕と圧力。
リッチでの追い込まれた感じは
演技だったのかもしれない。

面白そうだ、乗ってやろう。
それに「正当な対価」。

金になる。報酬だ。
堂々とカローラワゴンに使ってやれる。

「最後に、これは伝えておく。
私は君の敵ではないが、味方でもない。
もし、その時が来たら躊躇なく君の敵に回る。
帰っていい。」

男がドアの方を指差した。
調べられたことより、
正確な情報を持っていることに驚いた。

敵か味方か、どうでもいい。
俺は作業をするだけだ。

アパートに戻る。
裏に回る。

指定された場所には、
小さなバッグがあった。
誰もいない。

バッグを助手席に置く。
カローラワゴンに身を任せる。

エンジン音が高めだ。
興奮しているな。
やるか。

環七は空いていた。
信号にもあまり引っかからない。
流れが速い。
バッグは助手席に置いたまま。

中身、一瞬気になった。
見ない。
見る必要がない。

中身を知っても何も変わらない。

届ける。それだけだ。
平和島。
ゲームセンターはすぐ見つかった。

光が強い。
夜中とは思えない。
プリクラの機械が並んでいる。

高校生だろうか。
日付も変わっている時間に、
子供みたいな連中がいる。

きゃっきゃと意味のない笑いで
騒いでいる。何が楽しいのか。

工場とは音が違う。
でも、同じ匂いがした。

一番奥に入る。
カーテンを閉める。
椅子の下に、バッグを置いた。

それだけだった。
誰も見ていない。

ゲームセンターの客は
騒ぐのに夢中になっている。

カローラワゴンに戻る。

来た道を戻る。
エンジン音が心地いい。
回転数も安定している。
安心感が身体を包む。

アパートに着く。
ドアポストに何かが入っている。
開けた。

3万円と黒い携帯電話。

部屋の中に入った。
そのとたん、携帯電話がブルブルと震えた。

携帯電話を初めて手にした。
どのボタンを押せばいいのかも分からない。

震え続ける携帯電話。
このボタンか?

「おめでとう。」

あの男の声だった。

「合格だよ。」

「合格?」

遮るように男は話し続けた。

「何も言わなくても、バッグを開けなかった。」

「まっすぐ現場へ行った。
目的地をすぐに見つけた。」

「これができる人間が、なかなかいなくてね。」

「次回からは、時間も指定する。」

切れた。
3万円を見た。
工場なら3日分の給料だ。

バッグを運んだだけだ。
悪い気はしなかった。

むしろ、

楽しかった。

顔がほてっているのが分かる。
カローラワゴンのエンジン音は安定していた。

まるで俺を、


肯定してくれているようだった。




【第5章】『金と作業』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第5章】バナー
―仕事は作業にできる―

「クラブリッチ」には
後輩が入ってきた。

表に立つ仕事から、
フロアに回された。

吉田の補佐だ。

やることがある分、時間は過ぎる。

賑やかな音楽、
女の子の楽しそうでいて
大袈裟な笑い声。

そのくせ、席を変えろと
サインを送ってくる。

俺は吉田に教えてもらった通り、
灰皿の吸い殻が3本になる前に取り替える。

氷が半分になる前に持っていく。

女の子のドリンクは薄めに作ってやる。

そんなことを繰り返す。
やることは単純だ。

作業と思えばいい。

客には「すみません」と言っておけば、
大抵揉めずに済む。

常連の客も女の子の名前も簡単に覚えた。

中でも女の子たちに
「ナマハゲ」と呼ばれている
常連は嫌なやつで、すぐに覚えた。

2日に1回は来る。
何が楽しいのかさっぱり分からない。

女の子に嫌われている。
本人は気づいていない。

ナマハゲは、
女の子の手首を笑いながら掴む癖があった。

女の子は笑っている。
でも、目は笑っていない。

やめさせてほしいとサインを送ってくる。
俺は灰皿を替えるふりをして、
ナマハゲと女の子の間に入る。

いい気はしてないだろう。

中でも、めぐみという女は
頻繁にチェンジしろとサインを送ってくる。
やたらと目が合う。

新しいボーイが珍しいのか。
何かミスをしているのか。

どうでもよかった。

仕事は作業だ。
作業を繰り返すだけで金がもらえる。

あの男からの仕事も増えていく。
時間指定のものばかりになった。

腕時計は持っていない。
だからG-SHOCKを買った。

何がおかしいのか、
店員はヘラヘラ笑っていた。

「丈夫ですよ。それに見やすいです。
暗がりでも見えます。」

店員はそう言って、
G-SHOCKを勧めてきた。

デジタルではなく、
秒針のあるものにした。
目的の時刻も分かりやすい。

「設定次第でカウントアップも
カウントダウンもできますよ。」

無視した。複雑なものを覚えるより
単純なことを正確にやる方がいい。

指定された時間に、

指定された場所へ行く。

指定されたものを持って、

指定された場所へ届ける。

それだけだ。

指定時刻にピタリと合ったときの快感は
他に代えられない。

ポストには金が貯まり、
工場は休みがちになった。

工場に休みの連絡を入れるのが
面倒になっていった。

そのうち、行かなくなった。

最後に渡された紙には、
「解雇」と書いてあった。

「失業保険、すぐ出るから。
悪く思わんでくれ。」

表情がこわばっている。
俺に怯えてるのか。
そんなに俺が怖い顔なのか。

実際には何も思っていない。
辞めさせてくれてありがたい。

「解雇」の紙は
工場のゴミ箱にそのまま捨てた。

十分に食っていける。
そういう仕事を見つけた。
工場に休みの電話をする手間も省ける。

工場に行かなくても、
カローラワゴンを喜ばせてやれる。

そんなとき、
あの男から初めて夜の仕事が入った。

時間も指定された。
指定の時間は0時だった。

「クラブリッチ」の仕事がある。
迷ったが、吉田に電話した。

「風邪ひいたみたいで。
今夜、休ませてもらえませんか?」

「大丈夫かいな。
マネージャーには、うまいこと言うとくわ。
その代わりメシ奢ってもらうでぇ。」

助かった。
リッチの方はなんとかなりそうだ。

男からは、
指定時刻は1秒もずらすな、
と言われた。

早すぎてもいけない。
遅れてもいけない。

待つ。

エンジンには火を入れたまま。

回転数がわずかに高い。

下げる。

また上がる。

落ち着かない。

秒針を見る。

あと3分。

2分。

1分。

動く。

アクセルを踏む。

指定の場所に入る。

止める。

降りる。

取る。

戻る。

届ける。

それだけだった。
誰もいない。
誰も見ていない。

カローラワゴンとG-SHOCKは
相性が良さそうだ。

家に戻ると、いつも通り
ドアポストに金が入っていた。

厚みが違った。
机に置く。

封筒には、入れられていない。
1万円札がそのまま入っていた。

数えた。
25枚。

昼か夜かの違いだけで、
やることは変わらない。

作業だ。

報酬だけは、桁が違う。

電話が鳴る。

「正確だね。頼もしいよ。」

それだけ言って、切れた。

仕事の後に必ずある電話。
部屋に入ったとたん鳴る。
そして一方的に切られる。
あの男も正確だ。

どこから見ているのか。
考えても仕方なかった。

次の日、リッチに行くと
吉田が話しかけてきた。

「風邪、大丈夫やったん?」

「治りました。」

「よかったわ。自分、治るの早いなぁ。」

冗談なのか、
本気なのか、
嫌味なのか。

吉田との会話は、
いつまで経っても成立しない。

いつも通り、
缶コーヒーを渡してくる。

熱い。
ポケットに入れる。

「最近、顔色ええやん。」

「そうですか。」

「金回り良さそうな顔しとる。」

「顔で分かるんですか。」

「分かる人には分かる。」

笑っている。

知ってるのか
知らないのか全く分からない。
知っていたとしても、何も変わらない。

「武井はん、今度の休み、平和島どう?」

またそれだった。

「そのうち。」

「ほんまに?」

「ええ。」

「ほな約束や。」

めぐみが走ってきた。

「吉田さん、武井君、
マネージャーが呼んでるよ。」

マネージャーは高圧的で
いかにも機嫌が悪そうだ。

「武井ぃ。お前昨日風邪か?
熱あったのか?」

「はぁ。すいません。体調不良で。」

「そっかぁ。俺は熱があったのか?
って聞いたんだよ。
体調不良は、分かってんだよ。」

「38度くらいです。」

「甘いなぁ。クリスマスケーキかよ。
吉田はなぁ。根性あるぜ。」

「インフルエンザで40度の熱のときも
マスク3枚重ねて仕事してくれた。」
「ボーイの鑑だよなぁ。」

「その先輩が優しいからって、
煙草はスパスパ、
コーヒーはガブガブ。」

「おまけに当日欠勤って
武井ぃ。お前舐めてるな。
また表に立つか?ああ?」

ポップコーンを食べながら
汚い手で胸ぐらを掴んできた。
ネクタイが曲がる。
襟が汚れる。
胸ぐらを掴む手を振り払いたい。

「汚い手で触るんじゃあねぇ。」
そう言いかけたとき、
吉田が割って入った。

「すんません。
今度から、きちんとさせますわ。」

「吉田ぁ、ちゃんと教育しとけよ。」

マネージャーは出て行った。

「吉田さんすみません。
俺、もう辞めますから。」

「給料もまだやのに、働き損やがな。」

「吉田さんはともかく
あの人には、ついていけないっすね。」

もうリッチの給与さえも要らない。

カローラワゴンがあればいい。

「まぁそんなカッカせんと。」

「今日はもうマネージャー来んと思うさかい
早退したらええがな。
出勤したことにしとくわ。」

めぐみが見ている。

「今日は帰ります。
明日は来ますから。」

カローラワゴンに座る。
静寂。何もかも忘れさせてくれる。
このままあの男の仕事が増えれば
リッチも辞めていい。

缶コーヒーを開ける。

深く息をついた。

カローラワゴンに火を入れる。
回転数が高い。

部屋に戻る。

押入れを開ける。
ナンバープレートが増えた。

いつからあったのか、
覚えていない。

最初は2枚だった。

気づくと、
4枚になっていた。

6枚。

10枚。

まとめて、奥に押し込む。

考えない。
考えても仕方ない。
仕方ないことは作業にする。

テーブルの上には、
札の束が増えた。

輪ゴムでまとめる。
同じ厚さで揃える。
並べる。

それだけでいい。

灰皿に吸い殻が溜まる。
3本で替える。

分かりやすいように
店と同じルールにした。
ルールを決めると、楽だ。

自分で自分のルールを決める。

それだけで、
全て作業にできる。

札の束を見ながら考える。
あの男の仕事だけで十分だ。

舐めて見下してくる連中と
無理に付き合う必要はない。


俺はカローラワゴンとだけ
うまくやれればいい。




【第6章】『めぐみ(侵入 1)』

―侵入の違和感―

マネージャーとやり合ったあと、
深く眠っていた。

5時にドアを叩かれて目が覚めた。

どれくらい寝たのか、
分からなかった。

ドアがもう一度叩かれる。

隣のやつに壁を
叩かれてしまいそうだ。

重い身体を起こして、ドアを開ける。
めぐみが立っていた。

「最近、元気なさそうだったから。」

両手に袋をぶら下げている。

「熱があるって話してたし。」

部屋の中を覗き込んでくる。

「ご飯とか、食べてるかなって。」

何か言う前に、
勝手に入ってきた。

「どうやって来た?」

「ん?タクシーよ。
もっと早く来たかったけど、
ナマハゲがアフター行こうってしつこくてさ。」

「なんで、俺の家が分かったんだ?」

「昨日、マネージャーもいなかったから、
事務所から履歴書持ってきちゃった。」

「武井君、辞めそうだったし、
履歴書なんか置いておかない方がいいよ。」

靴を脱ぐ場所を探して戸惑っている。

「ここでいい?」

「どこでもいい。」

袋をテーブルに置く。
テーブルといっても、低い台だ。
何も乗っていない。
めぐみは、すぐに袋を開ける。

「はい、これ。遅くなるし、
コンビニのでいいかなって思ったけど、作っちゃった。」

たまごサンドだった。
ラップに包まれている。

コンビニのとは見た目も
パンの厚さも違う。
四角に切ってある。

普通のパンのサンドイッチ。
そんなものを、初めて食べる。
甘い匂いがした。

「食べてみて。」

言われるままに、手に取る。

柔らかい。

一口かじる。
しっかりと味がした。

たまごが溶けていきそうだ。
コンビニのとはまるで違う。

うまい。

しばらく、何も言わずに食べた。

手作りのサンドイッチ。
いつ以来だろう。

いや、そんなものを
食べた記憶がなかった。

子供の頃から、食事はいつも、
母親が買ってくるものだった。

遠足の弁当さえ、
スーパーの弁当を
詰め替えたものだった。

「どう?」

「まぁまぁ、だな。」

めぐみは笑った。

「そっか。今度は別なの作るね。」

嬉しそうでもなく、がっかりした様子もない。

そのまま、台所に立つ。
台所というほどのものでもない。
コンロはカセットコンロだ。
流しは小さい。

めぐみは、
使っていない皿を一枚取り出して、
水で洗い始めた。

音がする。

水の音。

それだけなのに
部屋の空気が変わった。

誰かが台所に立つ。
そんな風景はテレビの中だけ
だと思っていた。

「普段、料理しないの?」

「しない。」

「そっか。何もないもんね。女もいないね。」

めぐみは笑った。

それ以上は聞いてこない。

皿を拭いて、元の場所に戻した。

めぐみが缶コーヒーを開けた。
俺以外が缶コーヒーを開ける、
その音を初めてこの部屋で聞いた。

また部屋の空気が変わった。
違和感が身体を包む。

「ねえ。」

「なんだ?」

「ここ、寒くない?」

「寒い。」

「エアコンつけないの?」

「使わない。」

「なんで?」

「そういうルールなんだよ。」

めぐみは、驚いている。

「変なの。」

そう言って、笑った。
よく笑う女だ。

悪い意味ではなさそうだった。

食べ終わる。
手を拭くものがない。
ズボンで拭いた。

めぐみはそれを見ても
何も言わない。
ただ微笑んでいる。

めぐみが
ベッドの方へ行く。

シーツはそのままだった。
シワが寄っている。
めぐみが、シーツを整えた。

「抱いていいよ。」

「いい。」

「いいから。」

「いい。」

「抱いて。」

押し倒した。
めぐみは、目を閉じた。
声は出さなかった。

終わって、そのまま横になる。
天井を見る。

白い。

隣で、めぐみが何か話している。
店の客の話。
ナマハゲがどうのと言っている。

内容は覚えていない。
いつの間にか、眠っていた。

深く。深く。

音で目が覚めた。
電話だった。
身体が重い。

携帯電話を手に取る。

「期待以上だよ。」

あの男の声だった。

「それに」

「可愛い彼女じゃないか。」

一気に目が覚めた。
部屋を見る。
めぐみがいる。

「彼女」という言葉が、
妙に引っかかった。
めぐみは関係ない。

「渡したナンバープレートは、
指示するまで持っておけ。
それから、カーナビも付けておけ。」

「分かった。」

切れた。
また、静かになった。

「誰?」

「友達だよ。」

「ふーん。女じゃなさそうだからゆるすよ。」

笑っている。

「私、武井君の冷たいところが好き。
だって他の女にとられる心配を
しなくてすむから。」

わずかに声が震えていた。
そのまま立ち上がる。
服を拾って、ゆっくり着る。

「ねえ、ライター買ってあげる。
煙草はマルボロにして。
今度、たくさん買っとくから。」

「煙草くらい自分で買う。
ライターは選んでくれ。金は出す。」

サンドイッチも悪くなかった。
今まで食べたサンドイッチとは、
比較にならないほど、うまかった。

ひとつくらい、
言うことをきいてもいい。

稼げる仕事を見つけた。
これからは煙草代をケチることも
しなくていい。

「また来るね。」

「一緒に住むのは、なしだ。」

「うん。毎日来ても毎日帰れば
一緒に住んでることには、ならないよね?」

「勝手に来い。」

めぐみが、ドアの前で一度振り返る。

「送ってやる。」
そう言いかけて、やめた。

めぐみはそのまま出ていった。
ドアが閉まる。

部屋に、
昨日までなかったものたちが残された。

甘い匂いとたまごサンドが、もうひと袋。

サンドイッチをつまむ。

口に入れる。

しっかりとした味。
表現が思いつかない。
さっき食べたのとは違う味に感じた。

だが、うまい。
うまいとしか言えない。

睡魔が襲ってきた。
カーナビは午後から付けに行こう。

ベッドに戻る。
まだ少しぬくもりがある。

天井を見る。
こんな天井だったか?

今までと同じ白だ。

何も変わらない。

昨日と同じなのに、


違う部屋に見えた。




【第7章】『めぐみ(侵入 2)』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第7章】バナー
―生活の音―

めぐみが来るのが日常になった。
鍵は開けておく。
勝手に入ってくる。

自然にそうなったのが、
不自然に感じる。

テーブルに食事を並べる。
たまごサンドだけじゃない。

カレーやおでんも
持ってくるようになった。

洗面所にはピンクの
歯ブラシが増えて、
台所にはキャラクターものの
マグカップが増えた。

最初は目障りだった。
自分以外のものだ。
不必要なものに感じた。

でも、めぐみがピンクの歯ブラシで
歯を磨いているのを見た。

使う人がいる。
それだけで、邪魔ではなくなった。

めぐみが洗濯物をたたむ。
慣れた手つきに見えて、どこかずれている。
なんとなく、感じる。

部屋の中の音も変わった。
袋を開ける音。
鍋に水を入れる音。
まな板に包丁が当たる音。

心地いい音に聞こえて、
音がぎこちない。

今までこの部屋にあったのは、
換気扇の音と、
隣の壁を叩く音と、
缶コーヒーを開ける音
くらいだった。

部屋は確実に変わっていった。

めぐみはよく、勝手に窓を開けた。

「武井君。空気、悪いよ。」

そう言って、
カーテンのない
すりガラスの窓を開ける。

「武井君」と苗字で呼ばれる
この距離感が心地よかった。

朝の光が入ってくる。

目障りだったはずの
ピンクの歯ブラシも、
キャラクターもののマグカップも、
いつの間にかそこにあるのが
当たり前になっていた。

めぐみが勝手に冷蔵庫を開ける。
空の冷蔵庫を見ながら笑った。

「私がいなかったら飢え死にだね。」

「缶コーヒーばっかりは身体に悪いよ。
コーヒーメーカー買おうよ。」

コーヒーメーカー。

そういうものは、
ちゃんとした生活をしてる
ちゃんとした仕事をしてる
ちゃんとした人間の道具だと思っていた。

「いつもありがとうな。これで足りるか?」

言いながら、5万円を渡した。

「えっ?こんなに?
お昼のお仕事、工場だよね?
リッチのお給料もまだだよね?
怖いお仕事してないよね?」

「仕事に怖いとか怖くないとかねぇよ。」

「時々変な電話かかってくるから。」

「なんでもねぇ。心配いらねぇ。」

そのまま、肩に頭を乗せてきた。

重さがある。

そのまま、時間が過ぎる。

動かない。

それでも、気にならなかった。

音もない。

会話もない。

そのまま、動かずにいた。

鼓動だけがあった。

「何か欲しいものないのか?
指輪とかネックレスとか。」

自分で聞いて自分で驚いた。

「じゃあ、指輪。」

「でも、まだあとでいいよ。
リッチのお給料入ってからで。」

「だからリッチを辞めないで。
私を守ってよ。」

冗談の声じゃなかった。
真剣なまなざしだ。
何に怯えているのか。
聞こうとしたとき、電話が鳴った。

「いつも邪魔して悪いな。
今までとは違う、
大きな仕事が入りそうだ。」

めぐみが心配そうに見ている。

「今、分かっているのは場所だけだ。
JR鹿島神宮駅。茨城だ。」

「下見が必要だ。女とドライブのふりをしろ。」

女。彼女なのだろうか。
その言葉に、めぐみを見る。
震えているように見える。

静かな部屋。
電話の声も漏れ聞こえているだろう。

「鹿島神宮駅から高速までの道を覚えろ。
複数のルートを覚えろ。」

「いつ?」

「今日、今すぐ行ってくれ。
カーナビはつけたか?」

「ああ。つけたぜ。」

いつも電話は一方的に切られる。

「出かけるぞ。
たまごサンド作ってくれ。」

「材料とかなんもないよ。
買ってきていい?
ついでに鍋とかも。
コーヒーメーカーも買うよ。」

「好きにしろ。」

嬉しそうにめぐみは出ていった。

押入れを開ける。
ナンバープレート。
金。

それと、鉄パイプ。

冷たい。
そして乾いている。

子供の頃の記憶が蘇る。
あの時の血がついたままだ。

犬。

隣の家の犬を殴ったとき。
振り下ろすたびに、
数を数えた記憶。

鉄パイプ。

いつか必要になるかもしれない。
カローラワゴンに預けよう。

めぐみが大量の荷物を
抱えて帰ってきた。

「すぐに作るね。たまごサンド。
気に入ってくれてたんだね。嬉しい。
コーヒーいれるから飲みながら待ってて。」

新品のコーヒーメーカーから
香りがただよってきた。

めぐみが嬉しそうに
いれたてのコーヒーを持ってくる。

茨城ナンバーは持っていたか?
そんなことを考えながら
ひと口飲んだ。

うまい。コーヒーがうまいのか
めぐみといるからうまいのか。

女、彼女。
めぐみを連れて行っていいのか。

「ねぇ、どこに行くの?」

「鹿島だ。」


「ドライブ?
やったぁ。鹿島アントラーズだね。」




【第8章】『魅惑の赤』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第8章】バナー
―初めての美しさ―

めぐみを乗せて、
鹿島へ向かう。

カローラワゴンに
俺以外が乗るのは初めてだ。

めぐみなら悪い気はしない。
自分でも不思議だった。

カローラワゴンのエンジン音も
安定している。
めぐみを認めてくれている。

助手席で、
シートベルトを引っ張る音がした。

「仕事だ。」

「え?」

「ドライブだ。」

「もう。どっちなの?」

「どっちでもいい。」

めぐみは笑った。

納得したのか、
していないのかは分からない。

環七を抜ける。

流れに乗る。

信号が減る。

速度が上がる。

めぐみは、最初はよく喋っていた。

店の話。
客の話。
吉田の話。

「吉田さんさぁ、
またマネージャーに怒られてたよ。」

「そうか。」

「なんかさ、
あの人、怒られても
あんまり気にしてないよね。」

「そう見えるだけだ。」

「どうかなぁ。」

それ以上は続かない。

頭の中は道順のことでいっぱいだ。

高速に入る。

音が変わる。

外の景色が流れる。

めぐみは、窓の外を見ていた。
そのうち、喋らなくなった。

途中のパーキングエリアで、
めぐみが作った
たまごサンドを食べた。

初めて食べたときより
ふんわりしてるように思えた。

「うまいな。」

「嬉しい。コーヒー買ってくるね。
ブラックのホットでいいよね?」

「あぁ、頼む。」

取り付けたばかりの
カーナビを確かめる。
順調だ。

たまごサンドを食べた指で、
カーナビの画面に触った。

画面に、薄く跡がついた。
ティッシュで丁寧に拭く。

カローラワゴンに
取り付けられたカーナビ。
カローラワゴンの一部だ。

めぐみが戻ってきた。

「外で飲むコーヒーって美味しいね。」


鹿島に着く。
言われた通り、
鹿島神宮駅の周辺を回る。

1周。

2周。

3周。

同じ道を、
何度もなぞる。

右に曲がる。

左に曲がる。

信号を数える。

目印を覚える。

コンビニ。
ガソリンスタンド。
小さな公園。
外田新聞店。
目印になりそうな店。

全部、頭に入れる。
めぐみが、見ているのが分かる。

「迷ったの?」

「遊んでるだけだ。」

「変なの。」

また笑う。
よく笑う女だ。

何度も。同じ道を走る。
それが仕事だった。

途中、コンビニに入った。

「なんか買う?」

「いらない。」

「私は買う。」

降りていく。
一人になる。

ステアリングを握る手。
汗でびっしょりだ。

カローラワゴンを
汚してしまいそうだ。

丁寧に手を拭き、
ステアリングも拭く。

カーナビを確かめる。
走ってきた道を辿る。
鹿島神宮駅周辺の道は網羅した。

順調だ。
何もかも順調だ。

ドアが開く。
めぐみが戻ってきた。

「ほい。」

缶コーヒー。
見たことのある銘柄だった。

「なんでこれを選んだ?」

「吉田さんがいつも飲んでるやつ。」

熱い。

「飲まないの?」

「あとでな。」

ポケットに入れる。
癖のようなものだ。
おまもりといってもいい。
安心できる。

「カイロ代わり?」

「そんなもんだ。」

「変なの。」

めぐみはまた笑った。
本当によく笑う女だ。

また走る。

同じ道。

同じ景色。

少しずつ、頭に入っていく。

どこからでも、
インターに出られる。
そういう形に、道が組み上がっていく。

土地の人間と同じくらい、
道を頭に入れておきたい。

めぐみは、また窓の外を見ている。

何か言いかけて、やめる。

その繰り返しだった。

帰りの高速だった。

だんだんと空が暗くなっていく。

前を走る車のライトが増える。

めぐみが、
急に身を乗り出した。

「見て。」

声が変わった。強かった。

視線の先を見る。

右。

空が赤かった。

ただの赤じゃなかった。

広がっていた。

流れていた。

光がこちらに向かってくる。

俺も、めぐみも、
カローラワゴンも、
のみこまれていく。

一瞬、アクセルを緩めた。

車の速度が落ちる。

後ろから、
軽くクラクションが鳴る。
無視した。

前を見る。

また右を見る。

赤い。

血。

隣の家の犬を殴ったとき。

鉄パイプが吸った色。

同じ色だと思った。

だが、違った。

広がり方が違う。

音がない。

匂いもない。

数も数えない。

犬の鳴き声も聞こえない。

光だけ。

「きれい。」

めぐみが言った。

つぶやくように、でもはっきりと。

その言葉が、遅れて入ってきた。

きれい。

きれいというのは、
こういうことなのか。

しばらく、何も言わなかった。

初めて景色に見入った。

初めて、
誰かと、
同じものを見ていた。

ステアリングが、
軽くなった気がした。

「今日は、これが見れたからゆるしたげる。」

めぐみが笑う。

「お前の許しなんか要らねぇよ。」

いつも通りに返す。

だが、声の出方が違った。
自分でも違うと気づくほど。

窓の外を見る。

赤はまだ続いている。

沈んでいく。

少しずつ。

消えていく。

その間、何も考えなかった。
考えられなかった。

ただ見ていた。

それだけだった。

しばらくして、視線を戻す。

前を見る。

道路は同じだ。

カローラワゴンも同じだ。

何も変わっていない。

それでも、
俺の、全身の、血の流れ方で分かる。
鼓動を全身で感じる。

俺の中になかった、何かが生まれた。
なんだか恥ずかしい気持ちになった。


サングラスが要るな。



【第9章】『真ん中の公衆電話』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第9章】バナー
―ダミーを無視しろ―

鹿島の下見の翌日。
意外に早く、その日がきた。

「情報が来るのが遅くてね。
すまんが、今夜鹿島に行ってくれ。
鹿島神宮駅に公衆電話が3つある。」

「真ん中の公衆電話にバッグが置いてある。
23時ジャストだ。」

「右や左の公衆電話にも
バッグがある可能性があるが、
それはダミーだ。
無視して真ん中のだけ持って来い。」

「今回は、こっちでも手を打っておく。」

「どこに持っていくんだ?」

「バッグを取れたら連絡する。
それから、念のため茨城ナンバーに
変えておけ。」

押入れの中を探す。
あった。茨城ナンバーを取り出す。

23時まであと6時間。
時間は十分にある。

カローラワゴンを点検する。
ナンバーを変える。
ガソリンを満タンにする。

ガソリンを入れた帰りに小さな
ジュエリーショップを見つけた。

「じゃあ指輪。」

めぐみが言っていた。
こういう店に初めてきた。

指輪はどれも同じに見える。
何が違うのか分からない。

高ければ喜んでくれるのか。
入った店が悪かった。
一番高いもので35万円。

とりあえずそれにした。

22時。
鹿島神宮駅に着いた。
公衆電話まで、30秒の位置に
カローラワゴンを止める。

昨日めぐみと来たことが
遠い昔のようだ。

姿が見えないようにうずくまる。
火は目立つ。煙草は吸えない。

22時55分。
黒いセダンが
公衆電話に近づいたのを確認した。

まだだ。23時ジャストと
言われている。
その5分が長い。

22時59分。
カローラワゴンの
エンジンに火を入れた。

回転数が安定していない。
待ち切れないんだな。

ライトはまだだぜ。

あと30秒。
G-SHOCKの秒針を見つめる。

5、
4、
3、
2、
1、
急発進。
23時ジャストに
公衆電話の前で急停車。

ドアを開ける。飛び出す。

左右の公衆電話の上にバッグ。
ダミーだ。無視する。
真ん中。バッグ、足元だ。

掴む。
戻る。

ドアを閉めるより早く、
カローラワゴンを出した。

追ってきた。
パッシングを続けてくる。

思い出せ。信号の少ない道を。
下道。走る。
アクセルを踏み続ける。

狭い道。選んで走った。
引き離せない。
セルシオのようだ。

インターに乗るときが危ない。
料金所で一度は
減速しなければならない。

セルシオとの距離。
それだけを見る。

できるだけ引き離しておきたい。
前方の信号が黄色になった。

踏み込む。

セルシオは止まった。
往来する車に足止めされている。
クラクションを鳴らしている。

一気にインターを目指す。
どのレーンが速いか。
どこが空いているか。
一番空いているところを目指す。

高速、乗れた。

ハイビームがルームミラーを焼く。

眩しい。

昨日の夕日とは違う眩しさだ。
エンジン音が近づく。
ミラーの中のセルシオが大きくなる。

アクセルを踏んでも小さくならない。

セルシオとカローラワゴンでは、
車の性能が違いすぎる。

更に前方を2台の大型トラックが
塞いでいる。

これまでか。

そのとき、トラックが左右に割れた。
道ができた。

前に出る。
左右にはトラックの壁。

その間を、カローラワゴンが走る。

全長18メートルのトラックが
俺たちを挟んでいる。
ステアリングを間違うと終わる。
ブレーキを踏んでも終わる。

吉田ぁ!
競艇で、差すってこういうことかぁ!
頼むっ!
カローラワゴン!

ギアを下げて急加速。

アクセル全開。

アクセルペダルが、
すっと軽く沈んだ。

俺の考えの先を、
もっと先まで
知っているかのように、
アクセルペダルが反応してくれる。

カローラワゴンと意思を共有した。

全速でトラックの間を抜きにいく。

エンジンが唸る。
ステアリングの震えが全身を包む。
タイヤが軋む。
最後にカローラワゴンが吠える。

めぐみへの指輪の箱が揺れる。
絶対に落とさない。

抜けた。

セルシオはトラックに
足止めされて、ミラーから消えた。

携帯電話が震えた。

「おめでとう。第一関門突破だな。
五反田で降りろ。
つけられてないことを確認したら
また連絡する。」

どこから見てるのか
不思議なくらい正確だ。

五反田で降りる。
尾行を確認する。
住宅街を目指す。

一方通行を選ぶ。
ルームミラーに一瞬、
ライトを確認した。

気のせいか。

一般道に出る。
また一方通行に入る。
後ろを確認する。

ついてくる車はいない。

携帯電話が震える。

「おめでとう。成功だ。
戸越銀座の入口にファミレスがある。
そこの店員に、バッグを渡せ。」
「この時間には店員は一人しかいない。」

目つきが鋭く、
ファミレスの店員とは思えない男に
バッグを渡した。

無愛想にバッグを受け取ると
大事そうに抱え、店の奥に入って行った。

仕事は終わった。

アパートに帰るとドアポストに
100万円が入っていた。
多いのか少ないのか、
俺には分からない。

ただ、命懸けだった。

カローラワゴンと、やり切った。

部屋に入るといつも通り
携帯電話が鳴る。

「君ならやれると思っていたよ。」
「こちらで手配したトラックが役に立ってよかった。」

手配したトラック?
まぁいい。

俺はカローラワゴンと、
2人でうまくやれた。

手配など必要なかった。

100万円と指輪をテーブルに置く。
めぐみは喜んでくれるだろうか。
ネックレスも買えばよかった。

この稼ぎがあれば、
めぐみとやっていける。

めぐみがいれてくれた
コーヒーで目を覚まして、
朝食はたまごサンド。

ちゃんとした人間に
なれるかもしれない。

めぐみが怖がってる何かからも、
俺が守る。

俺もめぐみも、
リッチで働かなくてもいい。

新しい暮らしが
できるかもしれない。

セルシオ。

性能の差が歴然としたセルシオでさえ、
俺とカローラワゴンは負かした。


何者にも負ける気がしない。



【第10章】『赤い車の男』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第10章】バナー
―一本足の幸平―

「ドツボやわ。」

リッチの準備中、
店の裏で缶コーヒーを飲んでいると
吉田がポツリと言った。

「何かあったんですか?」

「まぁ難しい話や。
八方美人もやりすぎて
八方塞がりってとこやな。」

「なんですか。それ。」

「そやな。」

「俺が昨日休んだからマネージャーに
なんか言われたんですか?」

「あぁ、マネージャーね。
あんなもん、もうどうでもいいわ。」

いつもの吉田とは違う。
何かあったのは間違いない。

俺は自分のルールに従い
作業をこなすだけだ。

めぐみは、今朝、部屋に来なかった。
体調でも悪いのだろうかと思っていた。
でも、リッチには来た。

めぐみはナマハゲの席についている。
ただ、いつもより一人分、
距離を置いていた。

珍しく、チェンジのサインを送ってこない。

吉田はいつもと雰囲気が違う。
めぐみもパターンが違う。
店の中は、いつも通り華やかだ。

それなのに、空気が違う。

そういえば、吉田がナマハゲと
長く話し込んでいる。

ボーイが客と話し込むのは
珍しくはない。
めぐみが客と距離を置くのは
珍しい。

三人とも笑っていない。
これだ。違和感は。

灰皿を替えるときに会話を盗み聞く。
ナマハゲは、かなり声を落としている。
聞き取りにくい。

「とにかく、赤い車の男だ。」

赤い車。俺のことか。
いや、俺と分かっているのなら
ここでは話さないだろう。

ナマハゲの連れらしき
若い男も来た。
ナマハゲに怒られているようだ。

なにかが起きている。

昨日の鹿島の仕事が原因か。
考えても仕方ない。

俺はルール通り作業するだけだ。

リッチが終わって
煙草を吸っていると
吉田が缶コーヒーを持ってきた。

「俺な、リッチ辞めるかもしれんわ。」

そう言って、
缶コーヒーをずずっと飲んだ。

「え?辞めてどうするんですか?」

「さぁな。一本足の幸平やから
やっぱり続かんのやなぁ。」

「なんかあったんですか?」

「うん、まぁな。
武井はんと出会えて楽しかったのは、
ほんまや。これだけは、ほんまや。」
「だけどな、下手うってな。
ナマハゲに迷惑かけたんや。」

「ナマハゲって、何の仕事しているんですか?」

「飯連れてもろたり、
家に呼んでもろたりしたけどな。
よう知らんのや。
これは、武井はんには話すけどな。」

「リッチに来る羽振りのいい客を、
ナマハゲに教える。
それだけで金がもらえる。
そっから先は、知らんのや。」

「それからな。」

「これは謝らないかん。」

「武井はん、バイトしよるやろ?」

「え?」

「隠さんでええ。知っとるんや。」

「なにをです?」

「あれな。俺や。俺が紹介したんや。」

吉田の目が死んでいる。

「俺を紹介して金になるんですか?」

「すまん。
俺も仕事の内容は知らんのや。
金が要りそうな男がいたら紹介するだけや。」

「今まで何人紹介したんですか。」

「5人以上や。
みんなリッチを黙って辞めていった。
どうなったかも知らん。」

「その男のこと知ってるんですか?」

「電話番号しか知らん。顔も知らん。」

あのとき、店に駆け込んで来た男。
あの焦った顔は
俺の面接がわりの演技だ。

「最初は、負い目やった。
せやから缶コーヒー渡してた。
でも今は違う。友達やと思うとる。
ほんまや。
堪忍してや。」

ナマハゲとあの男は同じ組織か?
同じなら、こんな探り方はしない。

一本足の幸平。
本当に、ふらふらしている。

「気にしてませんよ。
金になってるし。助かってます。」

「でもこの前も風邪言うて休んだし、
昨日かて。それが理由やろ?」

「はい。まぁ。
でも気にせんでください。」

「おかげで色々なことがつながってきたし。
教えてくれて、ありがとうございます。」

昨日のバッグは、
ナマハゲのものだったのかもしれない。

あの男は、それを俺に運ばせた。

ナマハゲが俺を探している。
あの男も、俺を使っている。
その間に吉田がいる。

吉田は、それがどういう意味なのか
分かっているのだろうか。

赤い車ということまでバレている。
茨城ナンバーくらいでは
ごまかせない。
すぐに俺に辿り着くだろう。

めぐみ。
めぐみは、なぜ、


今朝アパートに来なかったんだ。



【第11章】『指輪と発信機』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第11章】バナー
―贈り物の中身―

指輪と札束を見ながら
めぐみを待つ。

ひたすら待つ。

あの男からの仕事の
待機時間より長く感じる。

吸い殻だけが増える。
3本で交換のルールも無視した。

階段を上ってくる足音。
ドアが開く。

「無事か?」

思わず聞いていた。

「うん。」

「たまごサンド作ってくれ。」

「いいよ。でも。」

「その前に話できる?」

声が震えている。

「あぁ。」

「私、怖かった。」

めぐみは、うつむいている。
表情が読めない。

「武井君が、
もう帰って来ないんじゃないかと思ったの。」

「だから昨日は来なかったのか?」

めぐみは頷いた。

「怖かったし、行くなって言われた。」

「誰に止められた?」

うつむいたままだ。

「久保田さん。」

「誰だ?それは。」

「武井君に、仕事を頼んでる人。」

あの男は久保田というのか。
俺はあいつに名刺を返して
名前も覚えてなかった。

「お前、あいつのこと知ってたのか?」

めぐみは小さく頷いた。

「私が命令されて、武井君の車につけたの。」

「何をだ?」

「小さい機械。車の下に。」

発信機というやつか。
だとしたら、かなりの高性能だ。

「それ、まだついてるのか?」

めぐみは小さく頷いた。

「たぶん。」

「外すな。」

「え?」

「外すな。まだ、
俺が気づいてないと思わせる。」

「他にも、武井君の見張りがいると思う。」

ようやく繋がった。

部屋に戻るタイミング。
仕事の時の俺の動きを知っている理由。
鹿島での状況を把握している理由。

俺の動きが、丸分かりだ。

俺は、めぐみを見た。

怒鳴る。
殴る。
追い出す。

どれも選択肢にない。
あの日見た夕日のせいか。
あの時生まれた何かのせいか。

うまく言えない。
めぐみは大切だ。
守る。守ってやる。

めぐみは、うつむいたまま動かない。

「脅されてたの。借金があって。」

「久保田にか?」

めぐみは頷いた。

「父親の借金。事業に失敗して、
久保田さんのいたところから借りたの。」

「そうなのか。」

「その頃の久保田さんは、
まだ武井君と同じ運び屋だったの。
私が中学生の頃。」

「久保田が運び屋を?」

「その頃から、
人の弱みを握るのがうまかったの。」

「使える人は誰でも利用する。
そんな人よ。
父も、そうやって利用されたの。」

久保田。あの男の名前。
名刺も金も突き返した。
名前など、どうでもよかった。

そのどうでもよかった名前が、
今、俺とめぐみの間に立っている。

俺は、机の上の指輪を取った。

「これ、欲しがってたろ。」

めぐみが顔を上げた。

「え?」

「やる。」

「許してくれるの?」

「許すとか、そういう話じゃねぇ。」

俺は、札束を見た。

「金のことも心配いらねぇ。」

「でも。」

「俺がなんとかする。」

「ナマハゲは、どこまで知ってる?」

「分からない。
ナマハゲさんが、吉田さんたちに言ってた。
赤い車を探せって。」

「久保田のことを、もっと教えてくれ。」

「とにかく怖い人。
先手先手で何でも知ってる。
それに、父が言ってた。
あの人には、掃除屋がいるって。」

「掃除屋?」

「何があっても、
何もなかったことにできる人たち。」

なかったことにできる掃除屋。
久保田の後ろには、まだ何かいる。
久保田も組織のトップではないのかもしれない。

「武井君だけじゃないの。
同じように使われてる人が、
他にもいるの。怖くてたまらない。」

「他にも?」

「監視する人もいる。
受け取るだけの人もいる。
普通に働いて、普通の顔をして。」

鹿島の仕事。ファミレスの男。
あの鋭い目。
やはり普通の人間ではなかった。

「リッチにもいるのか?」

「たぶん。私も、誰かに見られてる。
リッチの女の子の誰かに。」

めぐみは小さく首を振った。

「私は久保田さんに逆らえないの。
もう、誰も信じられないよ。」

「久保田さん、言ってた。
武井君は変だって。
普通は中身が気になって、
いつかバッグを開けるんだって。
弱みも見つからないって。」

「時々、嘘の仕事を混ぜてるって。
バッグを開けるか、試すために。
武井君は中身を全く気にしない。
逆に怖いって。」

「開けたらどうなる?」

「分からない。
でも、突然いなくなった人がいたの。
掃除屋さんが何かしたんだと思う。」

「マネージャーや吉田は関わってるのか?」

「分からない。
けど、2人とも知らないと思う。」

「武井君の弱みを見つけろって
久保田さんに命令されたの。」

「見つけたのか?」

めぐみは首を振った。

「見つけられなかった。」

「どうしてだ。」

「好きになってしまったから。」

「そうか。心配いらねぇ。
早くたまごサンド作ってくれ。
腹ペコなんだよ。」

「うんっ。すぐに作るよ。」

めぐみは指輪を指にはめた。

「ぴったり。きれい。」

まだ赤い目で笑っていた。
そうだ。
いつものめぐみでいてくれ。
いつも笑っていてくれ。

俺は吉田からもめぐみからも
久保田に繋がっていた。
俺がどこにいるのか、
何もかも知っている。

それよりナマハゲだ。
なんとかしないとまずい。
俺はようやく灰皿を交換した。

「今日から、俺と離れるな。
普段通り、リッチには行く。」

吉田が危ない。
めぐみも危険な状態だ。
俺も狙われている。

自分が生き残るため。
めぐみを守るため。

俺とカローラワゴンと鉄パイプで

やられる前に、やる。

たまごサンドを食べたあとに
時々来る、急激な睡魔が襲ってきた。

たとえ、たまごサンドに何か
入っていたとしても
久保田の指示だ。
めぐみの意思じゃない。

俺はめぐみを守ると決めた。

耐えられない睡魔。


俺は深い眠りにつく。



【第12章】『言わんかったで』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第12章】バナー
―1998 年クリスマス―

深い眠りから覚めたあと、
すぐにめぐみの携帯電話が
ブルブルと震えた。

「あっ、久保田さんだ。」

「俺と一緒ってことは言うな。」

「分かった。」

めぐみが携帯に出る。

「もしもし。はい。部屋です。
はい、ひとりです。」

めぐみは、こちらを見ない。
うつむき加減で表情が見えない。

「え?」

めぐみの声が変わった。

「はい。分かりました。」

電話が切れた。

「なんて言ってた?」

「大変。吉田さんがお店のあとに
五反田で怪我して病院にいるって。」

吉田が襲われた。
五反田。
鹿島の夜に使ったインターだ。

「すぐに行くぞ。」

病院はすぐに分かった。
受付で名前を言うと
救急の奥の部屋に通された。

吉田はもう吉田の顔ではなかった。
大きく腫れあがっている。

「話せるのか?」

吉田はうなずいた。

「来てくれて、ありがとう。」

と言った。そして、

「言わんかった。言わんかったで。」
と続けた。

「なにを?」

「バイトのこと。紹介したことや。」

「でも、すまん。
赤い車に乗ってることは
言うてしもうた。なにか言わんと
殺される思て。堪忍や。」

「誰にやられた?」

「ナマハゲの連れや。若いやつ。」

「他に何か言ってたか?」

「バッグはどこだ?って。
そればっかり何回も聞いてきた。」

「顔、治るのか?」

「あぁ、傷は残るかもしれへんけど。」

「生きてて良かったな。」
「ナマハゲと連れのこと。
知ってること、全部教えてくれ。」

「ナマハゲとは、
何度か外でも会うとる。」
「家も知っとる。
連れの若いやつも、
だいたいの動きは分かる。」
そして、最後に言った。
「治ったら平和島連れてってぇや。」

「ああ、治ったらな。」

吉田が襲われた。
俺が久保田に初めて会ったとき
「吉田」と名乗ったからか?

理由はどうでもいい。
吉田はやられた。
次は俺か、めぐみだ。

やられる前に、やってやる。

一番危なそうなのは
ナマハゲの連れだ。
コイツを最初にやる。

吉田はナマハゲの家と
ナマハゲの連れの行動パターンを
知っていた。

明日になれば、向こうも動く。
考える時間を与えたら、
こっちが終わる。

それは確かだ。

病室を出てからも吉田の声が
耳に残った。
「言わんかった。言わんかったで。」

あの顔で、
吉田はそれを先に言った。

俺は病院の外で煙草に火をつける。
指先が震えている。

ほんの2ヶ月前。吉田と出会う前は
俺は工場に勤める男だった。

3年間変わらなかったルールが
ずいぶん変わった。
これからも変わるのだろうか。

夜まで待つ。

めぐみが作ってくれた
たまごサンドを食べた。
眠くならない。

コーヒーメーカーでいれた
コーヒーを飲んだ。

クリスマスプレゼントだと言って、
めぐみがライターをくれた。
Zippoのライターだ。

シルバーに輝いている。
「Solid Bond」と刻印されている。

シルバーか。錆びるなよ。
そう思いながら、着火してみた。
Zippoの乾いた音が静かな部屋に響く。

夜になっても待った。
めぐみと二人ぼっち。
何も話さず待った。

時間が来た。
カローラワゴンに火を入れる。

回転数が異常に高い。
興奮を抑え切れない。

めぐみは部屋に残してきた。
灯りはつけるなと言ってある。

子供の頃の、
隣の犬と同じと思えばいい。

あのときから、
もう始まっていた。

1998年のクリスマスに。
ナマハゲの連れの男に。
名前も知らない相手に。

鉄パイプを使った。

1。
2。

数えながら振り下ろす。

5。
鈍い音がした。

10。
男はもう動かない。

11。
それでも、身体が止まらない。

15まで数えた。

信号が全部青に見えた。
鉄パイプが手から離れなかった。

初めて人を殺した。

ジャンパーもジーンズも、
血で汚れていた。

それなのに、
先に気になったのは、
カローラワゴンのことだった。

血がついていないか。
傷がついていないか。

重なる記憶。
子供の頃の記憶。

床に落ちた鉄パイプを、
足で蹴って壁際に寄せた。

カラカラと、乾いた音が響く。

音が止むと、
部屋はまた静かになった。

その静けさの中で、
めぐみの息づかいが
部屋の空気を揺らしていた。

カローラワゴンのエンジン音。
安定したエンジン音も
耳の奥で鳴り続けていた。

吉田の分は終わった。
あと2人だ。やってやる。

「終わったの?」

めぐみが言った。

俺は手を見ていた。
指先で擦ると、
固まった血がポロポロと落ちる。

「終わりじゃない。」

声は、自分でも驚くほど
落ち着いていた。

「始まったんだ。」

めぐみは、俺の手を見て言った。

「もう乾いてる。大丈夫。
武井君は悪くないよ。
私を守ってくれたんだから、悪くない。
掃除屋さんもいるし、大丈夫。」

それから静かに、

でも、はっきりと言った。

「あとは、ナマハゲさんだけだね。」

静かな暗闇の中、

めぐみは、


わずかに、微笑んでいるように見えた。



【第13章・最終章】『覚醒の赤』

【 創作大賞2026 ホラー小説部門 】応募作品「夕日」【第13章】バナー
―久保田の椅子―

ナマハゲの日課、ジョギング。
吉田の情報だ。
頼るものがそれしかない。

その時を狙う。
朝だ。
鉄パイプは目立つ。
別のものを選ぶ。

「たまごサンドとコーヒーを頼む。」

「うん、いいよ。すぐに作るね。」

「食ったらすぐに向かう。
お前はここでじっとしてろ。」

カローラワゴンのエンジンに火を入れ、
ナマハゲの自宅に向かった。

エンジン音が安定している。

日が昇る頃だ。
そろそろ出てくるか。

待つ。
出てきた。
後ろから近づく。

「おはようございます。」

ナマハゲが振り返った。
朝の白い光が、
鋭く顔の横を抜けた。

俺の手元で、朝日が反射した。

朝の光。

輝いている。

何をしたのか。

よく覚えていない。

滑らかに
滑り込むように入ったこと。
数を数えたこと。
それだけは覚えている。

1、
2、
3、
4、
5、

5つ数えるまで、動かなかった。
抱きかかえるようにして、動かなかった。
ナマハゲの身体から力が抜ける。
それを全身で受け止める。

ナマハゲをそっと置いた。

朝日が昇っていく。
周りには誰もいない。

朝日が眩しい。
サングラスを買うのを忘れていた。

そう思った瞬間、電話が鳴った。

「見事だよ。金を入れておく。
君ならいつかやる。そう思っていたよ。」

久保田だった。
一方的に切られた。

「次はお前だ。」
小さくつぶやいた。

カローラワゴンのエンジンに
火を入れる。

エンジン音。安定している。
俺の呼吸も落ち着いている。

ステアリングを握る手。
少し付いた血。
赤い。

乾きはじめて、
黒くなりかけている。

部屋に帰ると
ドアポストに金が入っていた。

金など、もう、どうでもいい。
ドアポストに入れたままにした。

めぐみが話しかけてくる。
「ありがとう。守ってくれて。」

「やられる前にやった。
それだけのことだ。」

「なにか食べる?」

「たまごサンド、あるんだろ?」

「うん。もちろん。」

たまごサンドを食べ、
コーヒーを飲んだ。

うまい。
とてつもなくうまい。

まただ。
たまごサンドを食べたあとの
急激な睡魔。

今日は特に強い。
強烈に眠い。
耐えられない。

二人分の命の重みが、
腕に残っている。

重い。
身体が重い。

これだけは、めぐみに言わないと。

「外出はやめておけ。」

やっとの思いで言えた。

疲労感がすごい。
信じられないほどの睡魔が襲う。

深い眠りの底で、
めぐみの声が聞こえた気がした。

俺に話しかけているのか。

違う。
誰かと話している。

「はい。眠りました。」

眠った?
俺のことか?

「大丈夫です。起きません。」

起きなければ。
考えとは逆に、身体が沈んでいく。

ちぎれる意識の中、聞こえたのは
「掃除屋さん」と「久保田さん」だった。
最後に、つぶやくように

「ごめんね。武井君。」
と聞こえたような気がした。
夢か?分からなくなっていた。


目を覚ましたときには、
どのくらい眠ったのか
分からなかった。

夢だったのかも分からない。

めぐみがいない。

部屋が静かすぎる。
時計を見る。
15時。

気のせいか。
ライターの位置、灰皿の位置が違う。
俺の置き方ではない。
わずかに、ほんのわずかに。

外から誰かの話し声が聞こえる。
めぐみの声か?

早く久保田のところに行かなければ。

煙草を吸う。
階段を上ってくる足音。

ドアが開く。

めぐみだ。

「よく眠っていたし、
ご飯の材料買いに行ってたの。」

「まだあぶねぇぞ。久保田が残ってる。」

「え?久保田さん?」

「あぁ、命令されてたんだろ?
借金の件もある。
久保田のせいでこうなった。」

「今から?」

「やられる前に、やる。」

転がっていた鉄パイプを拾う。

ナマハゲの連れの男の血を
吸っている。
乾いて黒くなっている。

「俺が帰るまで、ここで待ってろ。
お前は俺が守る。」

カローラワゴンのエンジンに
火を入れる。

回転数が今までになく高い。

途中で眼鏡屋に寄って
サングラスを買った。
違いが分からない。
一番高いものにした。

最初に来たきりだ。
小さいが、きれいなビル。

カローラワゴン。
エンジンが安定してきた。
呼吸を合わせるように
俺の鼓動も安定してきた。

ドアに鍵がかかっていても、ぶち壊す。
決めていた。

初めて来た時と同じで
鍵は開いていた。

窓越しに夕日が見える。
燃えている。

真っ赤だ。

夕日と俺の間に久保田。
夕日が見えない。邪魔だ。

久保田が先に口を開いた。

「ここに来るなんて珍しいな。」

「邪魔なんだよ。
見えねぇ。見えねぇよ。」

「物騒なものを持ってるな。渡せ。
掃除屋にキレイに処分させる。
あの二人も掃除させた。
表に出ることは、ない。」

逆光で久保田の表情が読めない。

「いつもどおりの段取りだな。」

「仕事は段取りだよ。武井君。
私の段取りで全ては成立している。
鹿島のトラックも私の手配だ。
勘違いするな。君の力では、ない。」

「流石の余裕だな。
俺はまだ、勢いしか知らねぇ。」

「その勢いが
君の魅力だと上にも伝えてある。
よく考えろ。」

「そこにいられるとよ。
きれいな夕日が見えねぇぜ。
だから、どいてもらう。」

「冷静になれ。
私を殺せば、君も女も終わりだ。」
「提案がある。君がここに座る。
私はもうひとつ上にいく。
悪い話じゃないだろう?」
早口になっている。

久保田の右手が
机の引き出しに伸びる。

逆光。だからこそ、しっかりと見える。

飛びかかる。

赤。夕日の赤。
久保田だけじゃない。
俺まで赤に染めている。

表情が分かる距離。
怯えている。

いつもの余裕はない。
何か言おうとしているのか、
唇が震えている。

夕日で真っ赤に染まる久保田。
目を見開いている。

めぐみが言った「きれい。」の意味。
俺とは意味が違う。

本当に、きれいだ。

鉄パイプを振り下ろし、
ゆっくりと、確実に数えた。

1。
久保田の額から、赤が落ちた。

3。
鈍い音がした。

5。
久保田の視線が弱くなる。

7。
段取りだけでは勝てないぜ。

11。
まだ、止まらない。

15。
ようやく腕が止まった。

計算高い、
口先だけの男が倒れている。

数えている間、犬の記憶が蘇る。
カウントと犬の鳴き声が重なった。

最後は勢いなんだよ。

数え終わったとき、
するりと手から鉄パイプが落ちた。
指をこじ開ける必要もなかった。

真っ赤だ。

夕日に照らされて真っ赤だ。

俺も、この部屋も、久保田も
真っ赤に焼かれている。

これを美しいというのだろう。

美しく、眩しい。

サングラスをかける。

俺は動かない久保田を跨ぐ。
ファイルが並んだ机と椅子がある。

頑丈そうな椅子だ。
座り心地も良さそうだ。

机の開いた引き出しから
黒い拳銃が覗いている。

久保田。命の重みはよ。
自分の手でしっかり感じないとな。

久保田の椅子に全身を預ける。
全身をしっかり支えてくれる。

ドアをノックされた。

「失礼します。掃除屋です。」

掃除屋は久保田を見た。
それから俺を見た。

掃除屋は、驚きもしていない。
何もなかったかのように、
俺に軽く頭を下げた。

「聞いています。よろしくお願いします。」

聞いてる?誰に?何を?
まだ上がいる。そういうことか。

机の上に写真立てが置いてある。
家族。久保田、家族がいたのか。

お前は守るもののために負けて
俺は守るもののために勝った。

机の上の久保田の携帯電話が
ブルブルと震えている。

出る。思わず言っていた。

「運べば、金になるぜ。」

これからは、俺の携帯だ。

「えっ、武井君?」

めぐみだ。

「終わったぜ。」

「そっか。」

「久保田さんは?」

めぐみの声が震えている。

「もう動かねぇ。」

「じゃあ」
「たまごサンド作って待ってる。」

「あぁ。コーヒーも頼む。
それから、眠くなるたまごサンドは、
もう作らなくていいからな。」

「うん。分かった。
守ってくれてありがとう。」


「これからも、私を守ってね。」


-完-



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・創作大賞2026 ホラー小説部門 応募作品なので「スキ」で応援してもらえると巨大なエネルギーになります。


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■以下連載(ノンフィクション)
・僕のメチャクチャな人生の恥を晒して書いています。
「人生が終わった日も、朝のコーヒーだけは飲んでいた。」

【第一章・失踪編】

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「人生が終わった日も、朝のコーヒーだけは飲んでいた。」失踪編【第1話】へ

【第二章・新聞配達編】

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#創作大賞2026
#ホラー小説部門


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