【森岡毅著『確率思考の戦略論』25年版】― ① 市場の本質は「プレファレンス」にある
はじめに:マーケティングの「科学」―バイロン・シャープとの共鳴
以前、マーケティングにおける長年の通説をデータで覆し、「ブランディングの科学」を提唱したバイロン・シャープ氏の『How Brands Grow』について解説しました。(「ブランディングの科学」「ブランディングの科学2」をいずれも紹介しています)
彼の理論の核心は、「ブランドの成長は、ロイヤリティの高い顧客の購入頻度よりも、いかに多くの顧客を獲得するか(浸透率の向上)にかかっている」というものでした。
今回ご紹介する森岡毅氏の『確率思考の戦略論』は、奇しくもシャープ氏と同様の結論、すなわち「広く売ることの重要性」を、全く異なるアプローチから、そして日本のビジネスパーソンにとってより実践的な形で解き明かす一冊です。
森岡氏は、P&GやUSJでの膨大な実戦経験と、それを裏付ける数学的モデルを用いて、多くのマーケターが信じてきた「ターゲティング神話」の誤りを鋭く指摘します。
本書は、森岡氏が「負の二項分布」という数学的証明によって理論的に裏付け、さらに「重心」という独自の戦略フレームワークへと昇華させています。「便益の最大化により、カテゴリ全体のユーザーにアプローチする」という点で、以前紹介したシャープの理論に通じる部分もあります。
今回は、すべてのビジネスパーソンが抱える「お客さんをもっと増やしたい。どうすればいいの!?」という切実な悩みに対し、森岡氏が提示する「確率思考」に基づいた答えを紹介したいと思います。
なぜ、あのパン屋はもっと売れないのか?―問題の核心は「コンセプト」
森岡氏は、経営規模の大小にかかわらず、あらゆる商売を成功に導く核心は、自社ブランドが「選ばれる確率」をいかにして増やすかにあると断言します 。その最大の鍵を握るのが「コンセプト」です 。
著者は、ある週末に訪れたパン屋の店主が漏らした「どうしたらもっと売れるんやろ……」という呟きをきっかけに、この問題を深く掘り下げます 。多くの店が新商品開発にばかり力を注ぎがちですが、本当に練るべきはパン生地よりも前に、お店そのものが選ばれるための「ブランド・コンセプト」なのです 。なぜなら、店を選んでもらえなければ、こだわりのメロンパンに出会う確率はゼロだからです 。
本書は、前作『確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力』で解き明かした市場構造の本質を踏まえ、読者から最も要望の多かった「では、どうすれば“選ばれる確率”を増やせるのか?」という問いに答えるものです 。本要約記事では、全2回にわたり、本書の核心的なエッセンスを解説していきます。第1回となる本稿では、ビジネスの根幹をなす「市場構造の本質」と、我々が集中すべき「たった3つの戦略変数」、そして多くのマーケターが陥る「ターゲティングの罠」について、本書のPart1を中心に詳解します。
第1章:「プレファレンス」に集中せよ!―市場構造のシンプルな本質
売上を伸ばすために、多くの企業は製品やサービス(プロダクト)の改良に心血を注ぎます。しかし森岡氏は、「プロダクトは大切だが、ブランドのほうがもっと大切である」と断言します 。なぜなら、消費者の脳は、プロダクトよりも先にブランドを選択する構造になっているからです 。
人間の脳は「ランダム」に選んでいる
人間の脳は、1日に3,000回以上もの判断を無意識のうちに行っている「激務で疲れ切った優秀なサラリーマン」のようなものだと著者は表現します 。そのため、脳は極力エネルギーを消費しないように、いくつかの特徴的な方法で意思決定を行います 。
重要でない情報は遮断する:自分に関係ない情報はそもそも認識されません 。
大きなところから選択する:旅行に行くなら、まず「海外か国内か」を決め、次に「どの国か」、そして「どの都市か」というように、大きな枠組みから判断します 。いきなり詳細な選択肢を比較検討するのは脳にとって負担が大きいからです 。
ランダムに選択する:そして最終的には、まるでサイコロを振るかのように、選択肢の中から一つをランダムに選んでいます 。
この「ランダムな選択」は、決して当てずっぽうではありません。消費者の頭の中には、各ブランドに対する「相対的な好意度」に応じた確率が割り振られたサイコロが存在します 。例えば、ある消費者のビール選択のサイコロは、アサヒ50%、キリン30%、サッポロ20%という確率で構成されているかもしれません 。ビールを買うたびにこのサイコロを振り、たまたま出た目のブランドを購入するのです 。
このサイコロの目、すなわちブランドが持つ相対的な好意度のことを、本書では最も重要なキーワードである「プレファレンス(Preference)」と呼びます 。
市場を支配する「負の二項分布(NBDモデル)」
個々の消費者の購買行動は、プレファレンスという一定の確率に従ってランダムに発生するため、「ポアソン分布」という確率分布に従います 。
一方で、社会全体で見た場合、あるブランドが選ばれると、その評判などによってさらに選ばれやすくなるという現象が起こります 。これは「成功が成功を呼ぶ」構造であり、「ガンマ分布」という確率分布で表されます 。
そして、この「個人レベルのポアソン分布」と「市場全体のガンマ分布」を統合し、市場全体の構造を一つの数式で表現したものが「負の二項分布(NBDモデル)」です 。
Pr=Γ(r+1)⋅Γ(K)Γ(1+M/K)−K×Γ(K+r)×(M+KM)r
この数式で重要なのは、数式そのものではなく、それが示す結論の意味です 。この法則は、消費財からテーマパーク、住宅に至るまで、消費者が自由に選択できるほとんどすべての市場に共通して当てはまります 。なぜなら、扱う商品は違っても、選択している人間の脳の構造は同じだからです 。
動かすべき変数は「プレファレンス、認知、配荷」の3つだけ
NBDモデルの数式が示す最も重要な結論は、「ブランドがどれだけ売れるかは、実質的にたった1つの変数『M』、すなわちプレファレンスによって決まる」ということです 。
我々がビジネスで結果を出すためには、動かせない「定数」ではなく、動かせる「変数」に努力を集中すべきです 。この数式によれば、マーケティング戦略において我々がコントロールできる決定的な変数は、以下の3つしかありません 。
プレファレンス:消費者の脳内にあるサイコロで、自社ブランドが選ばれる確率 。
認知:そのブランドを知っている確率 。
配荷:店舗などで物理的に購入できる状況にある確率 。
実際の購買確率は、これら3つの条件付き確率の掛け算で決まります 。どんなに高いプレファレンス(例えばポテンシャル100)があっても、認知率が50%、配荷率が50%なら、実際のビジネスの結果は 100×0.5×0.5=25 に制限されてしまうのです 。
したがって、我々マーケターの仕事は、この3つの領域に集約されます 。中でも、ビジネスの最大ポテンシャルを決めるのはプレファレンスであり、経営資源をここに集中させることが成功への最短距離となります 。
第2章:狭めるな! 拡げよ!―ターゲティング理論への反論
多くのマーケターが教科書として学んできたフィリップ・コトラーのターゲティング理論。それは「広く浅く売るよりも、狭く深く売る方が効率が良い」という考え方です 。しかし森岡氏は、この常識に真っ向から異を唱え、「間違っている」と断言します 。
「浸透率」と「購入頻度」は必ずセットになる
コトラー理論の信奉者は、特定のターゲットに予算を集中させ、ロイヤリティの高い顧客を育てることで購入頻度を高める方が効率的だと考えます 。
しかし、現実の市場では「浸透率(Penetration:ブランドを一度でも購入した人の割合)が低いのに、購入頻度(Frequency)だけが突出して高い」というブランドは存在しません 。著者はこれを数学的に証明し、浸透率が高いブランドは購入頻度も必ず高くなり、逆に浸透率が低いブランドは購入頻度も低くなるという「二重の足枷(Double Jeopardy)」の法則を示します 。
この法則の紹介の際に、バイロン・シャープ氏の理論にも触れていました。
なぜそうなるのか? 答えはシンプルで、浸透率と購入頻度はどちらも、市場全体のプレファレンス(M)によって同時に決まる「従属変数」だからです 。より多くの人に好まれる(プレファレンスが高い)ブランドは、結果としてより多くの人が買い(高い浸透率)、かつ、より頻繁に買われる(高い購入頻度)のです 。
したがって、「ターゲティングありき」で市場を狭めてプレファレンス(M)を小さくすることは、自らの首を絞める行為に他なりません 。我々が考えるべきは、「どうすれば、できるだけ広く売れるか」なのです 。
ターゲティングが有効な「消極的な選択」
では、ターゲティングは一切不要なのでしょうか。そうではありません。著者は、ターゲティングを「どうしようもない条件下においての消極的な選択」と位置づけます 。ターゲティングが有効なのは、結果として市場全体のM(プレファレンス)が増える場合のみです 。
例えば、以下のようなケースです。
WHAT(便益)の定義:ターゲットを絞ることで訴求可能になる便益Bが、絞る前の便益Aよりも市場全体のMを大きくする場合 。
HOW(戦術)の定義:限られた予算を投下する優先順位として、より効率の高い「コアターゲット」に集中する場合 。
いずれにせよ、それは「ターゲティングありき」の発想ではなく、あくまで「市場全体のMを最大化する」という目的から逆算した結果としての選択なのです 。
第3章:「重心」を衝け!―戦略的に集中すべき一点
ビジネスのあらゆる局面には、目的を達成するためにすべてのリソースを集中すべき、たった一つの「重心」が存在すると森岡氏は言います 。
USJをV字回復させた「重心」の発見
著者がUSJに入社した2010年当時、会社は集客の低迷、低い顧客満足度、予算不足など、30以上の重要課題を抱えていました 。この複雑に絡み合った問題の数々を前に、著者はまず全社レベルでの「重心」を探しました 。
その「重心」は「集客」でした 。集客さえ劇的に改善できれば、キャッシュフローが好転し、アトラクション開発の予算確保や従業員の士気向上など、他のほとんどの問題が解決に向かうからです 。
次に、「では、集客を改善するための重心は何か?」と、戦略の階層を一段下げて考えます 。そうして見定めたのが「不必要に狭められていたブランドのターゲット層を広げること」でした 。このように、最上位の目的から階層を一つずつ下りながら、各階層の「重心」を定めていく 。その重心を貫く一本の太いベクトルこそが、必勝不敗の道筋「勝ち筋」なのです 。
ブランド戦略の「重心」を見つけるフレームワーク
ブランド戦略における「重心」とは、「ブランドが生き残る確率を高める、構造的に有利なブランド・ポジショニング」のことです 。そして、この「重心」は、以下の3つの条件が重なり合う点に見出すことができます。
Consumer Value(消費者価値):消費者の本能が何を求めているのかを深く洞察し、ブランドが衝くべき本質的価値を定義する。
Company Edge(自社の強み):自社が持つリソースや特徴の中で、その消費者価値に繋がる強みは何かを発見する。
Competitive Defense(競合に対する防御):そのポジションが、競合には容易に模倣できないものであること。
USJの再建事例に当てはめてみましょう。
Consumer Value:著者は消費者心理を深く分析し、テーマパークというレジャーに人が求める本質的な価値は「失敗しない選択肢」という安心感、すなわち「テッパン感」であると突き止めました 。
Company Edge:当時のUSJが既に持っていた世界レベルのエンターテイメントを創り出すノウハウを活用することにしました 。
Competitive Defense:競合を東京ディズニーリゾートではなく関西地区の施設と再定義し、関西では比類のない圧倒的なスケールとクオリティを武器にしました 。
この3つの円が重なる「重心」は、「“テッパン感”の第一想起率を上げること」でした 。そして、この重心を射抜くためのHOW(具体的な施策)として、「世界最高を、お届けしたい。」という強力なブランドキャンペーンが展開されたのです 。
まとめ:勝つための地図を手に入れる
本稿では、『確率思考の戦略論』の根幹をなす、市場構造の普遍的な法則について解説しました。その要点は以下の4点です。
市場の本質は「プレファレンス」:消費者の購買行動は、ブランドへの相対的好意度(プレファレンス)に基づく確率的な選択であり、その構造は「負の二項分布」で説明できます 。
変数は3つだけ:ビジネスの成果を左右する動かせる変数は「プレファレンス、認知、配荷」の3つに集約されます 。
狭めるな、拡げよ:市場を狭く絞るターゲティングは、浸透率と購入頻度を同時に下げてしまうため、原則として非効率です 。常に「広く売る」ことを目指すべきです 。
「重心」を衝け:あらゆる戦略には、リソースを集中すべき一点=「重心」が存在します 。ブランド戦略においては、消費者価値・自社の強み・競合への防御の3つが重なる点に「重心」を見出し、そこに全リソースを投下することが「勝ち筋」となります。
これらの法則は、ビジネスという複雑な航海における「地図」のようなものです。この地図があれば、我々はどこに向かうべきか、どのルートが最も確率の高い道なのかを判断することができます。
しかし、地図だけでは目的地にはたどり着けません。実際に船を動かし、目的地へと導くための強力なエンジンが必要です。そのエンジンこそが「コンセプト」です 。
次回の第2回では、本書の後半部分に焦点を当て、この最強のビジネスドライバーである「コンセプト」とは何か、そして、選ばれる確率を劇的に高める「強いマーケティング・コンセプト」をいかにして創り出すのか、その具体的な方法論を深く掘り下げていきます。
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