【 ダンマパダ 71 】チーズは好きです(という話でもないですが)(草稿)
●はじめに
仏教、仏典につきましては以下のような見解で述べさせて頂いております。
何卒ご容赦賜りますよう願います。
●ダンマパダの71
71 悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
こちらは、ダンマパダという仏典を中村元さんが現代語訳したものです。
第五章「愚かな人」に収録された一節です。
少し前に同じ章からダンマパダの一節を引用させて頂きました。
その時に、このダンマパダの71について「後ほど取り上げたい」と明記致しましたので、忘れないうちに行動に移したく、投稿させて頂きます。
●業(カルマ)はチーズもしくはバター?
実は個人的にこのたとえは気に入っていて、「業(カルマ)ってチーズみたいなものなのか」とひとりニヤニヤしながらこの一節を黙読していました。
変人だという自覚は、一応ございます。
余談も余談ですが、私自身チーズが好きなのでそういう意味でもお気に入りの一節です。
チーズができるまでは待ち遠しいかもしれませんが、業(ここではいわゆる”悪業”)は、一般的な意味での「悪事」をなした方には「固まって熟して欲しくないもの」かと存じます。
ただ、これは本当に主観的な思い込みに過ぎませんが、「悪事」をなしている方々というのは「その自覚がない」ように思います。
ですから、私含め「なんで私がこんな目に!!」と憤るのでは?と思うのです。
ここで気をつけたいのは、世間一般でいう「悪事」と仏教で説いている「悪事」とは必ずしもイコールではない、という点です。
●「悪事」とはなんぞや
世間一般の「常識」というものが「無常である」のですから、それに基づいた「正義」とは「永久不変」のものなのでしょうか?
一般的な通念としては、「正義」に反することは「悪事」となります。
ですが、その「正義」「常識」というものは時代や場所で異なることに留意したい所です。
ただ、仏教でいう所の「悪事」とは一言であらわすとしたら「執着すること」だと思うのです(個人的な感想でしかも暴論ではありますが)。
●仏教は「執着の学問」なのかなって思います
たとえば、資本主義社会においては「利潤を追求すること」それ自体は善です。
私も金儲けそのものは「悪」だと思いません。
とはいえ、「なにかに執着すること」が(自分ばかりでなく他人にとっても)苦を生むので、そういう意味では「悪」といえるのではないでしょうか?
他にも仏教では「三毒」や「四苦八苦」についても言及されていますので、そのあたりに仏教でいうところの「悪」の全貌が描かれていると感ずる所です(「三毒」や「四苦八苦」について言及されているダンマパダの一節もいつか取り上げたいです)。
●宗教を押し付けるつもりはないんですが…
「悪事」はチーズのように、熾火のように、じわじわと時間をかけて「果」となるので「何が悪事だったのかわかりづらい」という所がやっかいだなと思うんです。
すぐに「果」となる「インスタントカルマ」というものもあるみたいです。
noteアカウント「ねはんラジオ」のねはんさんに教えてもらった言葉です。その節はありがとうございます。
「Radiotalk」というアプリで楽しくて学べる配信もされています。
オススメです!!
ならば、何が「放置しておけない牛乳」すなわち「悪事」なのかわかっていれば対処のしようはあります。
それを、あらゆるたとえを用いて何度もくりかえし説いているのがダンマパダのような仏典だと思っています。
ですから私はダンマパダとかスッタニパータに興味を持ちました。
それは単に私の好みなのかもしれないので、それを押し付けたいわけではございません。
ただ、「こういう話」は個人的に好きです。
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ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでもいい記事が書けるよう精進致します。
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