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飛騨 高山城 金森長近6万石

見出し図は、内藤昌復元の高山城です。高山城本丸 復元図   内藤昌責任編集 復元日本大観 城と館 昭和63年(1988)世界文化社刊より


●はじめに

ネットでは、高山城イラスト図がいくつも見られますが、復元図と呼べる「復元的研究」の成果なのでしょうか。

ネットに転がる 金森長親の高山城 復元図
ネットに転がる 金森長親の高山城 復元図 
右の出丸が「大手」とあり、左の二の丸へは「搦手」とされています。おかしな事になっています。
天神山の古城跡に本丸を作り、その後に殿様が住むニの丸を城下町側に繋げた事が、城下町に面しない「大手」となりました。
大手と搦手はその後の都市形成から入れ替わる事が良くありました。安土城、松阪城、会津若松城、丸亀城etc.

それより、多くの方は「えっ、高山に城なんかあったの?」でしょう。金森長近が可重と共に作った城下町は100年続いたのですが、300年も前に壊され、高山は代官の町になったので、皆さんの記憶にないのが当然です。
「城は天守でなく殿主であった」と私が「復元 安土城」にて書いた殿主の姿は、ここ高山にもあります。

高山市が内藤復元案を別アングルでイラストレーターに書かせたような気もしますが、ぱっと見は誰の復元かはハッキリさせていませんので、ここでネットで高山市のまとめている高山城資料を追いかけてみます。

私が、内藤昌先生の弟子の端っこにある事を公言して、ネットに城の文を書くようになったのは、2012年先生のお葬式で研究室の先輩から「先生の功績を消す輩がいる。お前が挽回せよ。」と言われ名古屋市に抗議の手紙を書いてからでした。私は「お城は都市である。」と都市史を先生の元で行っていましたが、安土城天守は石垣しか見ていませんでしたので、60歳になってから木造建築の勉強のしなおしでした。

内藤先生は「天守は最後の切腹の場」という城マニアに自分の復元案を使われることを嫌って、著作権により自分の復元案が使われる事を縛っていました。
先生がお亡くなりになった後は、内藤復元案が雑誌、テレビで見られないのは、著作権で縛られているからであり、先生の「復元的研究」の成果が学会で否定されたわけではありません。

高山城は現地での木造復元の話はないので、著作権は問題にならないと思いますが、静岡市の駿府城、滋賀県の安土城では、現地に木造復元をしたい方がおられ、内藤先生・河田先生の学問成果を、行政は怪しい扱いにしてしまっています。

滋賀県では、広島大学文学部中村准教授の安土城復元案を昨年2025年動画にして、観光に生かしています。中村泰明氏が「復元的研究」を新たにされて、内藤復元案を否定されての事なら、学問の発展につながりよい事ですが、中村氏の復元平面図には柱も書かれていなく、これはイラストレーターによる想像図です。学問としての復元ではありません。

滋賀県県知事は「いくつもの安土城天主が復元されたのですが、どれも確実なものはなく、幻の天主となっています。」とだけで内藤復元案否定の内容は無く、私にはただ、著作権で縛られた内藤復元案を滋賀県が使えなかっただけだとしか思えません。なぜなら、2015年に近江八幡市は内藤復元案を使って、福田知弘大阪大学大学院准教授が動画を作っていたからです。滋賀県と近江八幡市は共に観光に安土城を使うのですが、文化施策では仲が悪いようでバラバラです。

現存する天守は12しかなく、1602年に全国一斉にできた近世都市150を、現代都市につながる都市史として研究するには、「復元的研究」はかかせません。復元という研究方法であり、お城を再建するための研究ではありません。
私には「お城は都市である。」と都市構造をつかむための「お城の復元」です。
もちろん、デザイナーとして、天守造形の魅力も十分味わっています。

第一章 インバウンドに沸く高山駅

先日、岐阜9時発の高山線特急ひだを使い富山に向かったのですが、11時に高山駅に着くと、ホームはリュックを担いだ白人であふれていたのでした。立って富山駅まで1時間半です。話を聞くと、その後北陸新幹線で東京に戻るか、古都金沢、京都と関西に向かうのだそうで、雪の白川郷も大人気でした。団体バスを使い、犬山城を訪ねてから白川に向かうのだそうです。

白川村 萩町地区
岐阜県白川村の「荻町地区」は、1976年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、1995年にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。93年の法隆寺、姫路城、94年の京都文化財に続いて、約100棟の合掌造り家屋が残る集落ぜんたいが指定されました。 冬の豪雪に耐え、蚕を飼うための大屋根が日本海に流れる庄川の谷に沿ってある姿は確かに圧巻です。
開発に取り残された町の古い建物群が古色に整備され、観光ネタに復活させる、これは中山道の馬籠・妻籠から始まりました。

白川郷の合掌造り、伊勢の妻入り、農家の田の字プランなどの「民家」については、城戸久「城と民家」毎日新聞社昭和47年刊 をどうぞ。もちろん、名古屋城、犬山城も書かれています。私の師匠の師匠、城戸先生の退職前は、建築・街並みの保存運動が学会をあげて盛り上がっており、私も薫陶を受けました。内藤先生は下戸でしたが、城戸先生は大変お酒がお好きでした。

外国人、特に欧州人に好かれる飛騨の町

高山市三町伝統的建造物群保存地区 天保 3 年(1832)に起こった大火でほとんどが焼失した高山の町です。ですので、江戸の街並みではありません。
1979年に、江戸末・明治期の町屋が色濃く残る「上三之町」「上一之町」「上二之町」を中心とした「高山市三町」が保存地区に指定され、大人気になりましたので、1997年には、その南側に続く「下二之町」エリアが追加指定されました。地区の面積は約4.4haで、南北通りは約420m、東西の幅は約150m。伝統的な建造物が172棟あります。
壊すしかないようなボロ屋が、床を剥いで土間にして商品を並べ、天井を払って曲がった梁を見せ、格子などの新しい材料も古色仕上げをして、街並みが新築のように蘇っていく様を私はたまたま間近でみてきていますので、多少のオーバーツーリズムには目をつぶって、犬山と同様に応援しています。

昭和9年 宮川の西に高山線高山駅ができ、新たな都市軸が作られました。

第二章 金森 長近(1524~1608)による築城

長近は18歳になると近江国野洲郡金森を離れ、尾張国の織田信秀に仕官し、1551年あとを継いだ信長17歳にもそのまま仕えました。27歳になっています。10歳年上でした。永禄10年(1567年)信長33歳が美濃を平定します。この頃に長近43歳は、関吉田3000石を賜ったようです。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、家康配下の酒井忠次3000騎と共に織田軍5000騎の分遣隊を率いて、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦への強襲を敢行し、同砦を陥落させた金森は信長41歳が信頼する武将51歳でした。

このとき酒井忠次は、長篠城を救出した上に、勝頼の叔父の河窪信実等を討ち取り、さらに有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げたとされています。兵数では長近の率いた方が多いにもかかわらず、長近の軍功は後世にあまり評価されていないのは、後の世において徳川四天王に数えられた酒井と比較した場合、長近は無名のため、忠次の戦功として作られたものとも考えられます。しかし、この戦後、信長から「長」の字を賜り「長近」と名乗ったことからも、長近の功績は大きかった事でしょう。

天正3年(1575年)8月、当時越前一向一揆が起きていた越前国に対し、織田信長は多方面からの軍事力投入によりこれを鎮圧せんとします。その一翼として奥美濃根尾谷から温見峠越えをして越前大野入りした長近は、同地の本願寺坊官の杉浦玄任の軍を散らし、わずかな期間で同地を平定します。この越前一向一揆鎮圧戦で戦功があったことにより、越前国大野郡の内3分の2(越前大野・大野城と石徹白)を与えられます。

その後は越前を領し、織田家のいわゆる北方方面軍を任されていた柴田勝家(1522~83)の寄騎として、能登七尾城の前田利家と同様に織田家中での北陸方面軍に属していました。天正10年(1582年)の甲州征伐では、飛騨口の大将を58歳で務めるなど、信長直参としても高い地位にあったのでした。
この頃、長江氏支流とされる板取田口城主の長屋景重の子で、長近が面倒を見ていた長屋喜三(後の可重(1558~1615)を養子に取り、可重に郡上八幡城主・遠藤慶隆の娘の室町殿を嫁に迎えます。
天正10年(1582年)2月、従四位下兵部大輔となり、その後さらに正四位下兵部卿に叙任されます。同年、本能寺の変が起こり、信長48歳が明智光秀54歳に討たれ、嫡男の長則(1564~82)も、織田信忠(1557~82)と共に二条城で討死しました。長近は剃髪して兵部卿法印素玄と号しました。さらに、信長と長則を弔うため、臨済宗大徳寺の山内に金龍院という塔頭を建立します。

清洲会議を経て、勝家(1522~83)と羽柴秀吉が対立した時期、長近は寄騎で同じ越前を領する柴田側に組していました。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて、当初は勝家側として秀吉に対峙していたのですが、秀吉陣営に転じた前田利家(1538~99)45歳と長近59歳は行動を共にし、戦わずして撤退したのでした。柴田勝家61歳は滅び、長近と利家は秀吉の傘下に入ります。

その後は秀吉の配下として、小牧・長久手の戦いなどに参加しました。

天正13年(1585年)、越中の佐々成政の討伐を決めた秀吉(富山の役)でした。秀吉は佐々討伐と同時に佐々と結ぶ姉小路氏飛騨討伐も行うこととし、その命を長近に与えます。長近61歳は羽柴勢の越中討伐軍に従軍し、8月に各所で小戦闘行為に参加し、そのまま同月中に越中から飛騨に侵入しました。
当時の飛騨国は、姉小路氏が信長の死後の混乱に乗じて勢力を拡大し、ほぼ一国を手中に収めていました。この姉小路氏の拡大により領土を奪われた勢力、牛丸氏や広瀬宗直、江馬氏の江馬時政が長近の下に逃れて来ていたので、彼らを先導に金森勢は越中からの長近の本隊と飛騨方面からの可重32歳の別働隊とが南北から飛騨に侵入挟撃しました。姉小路氏は同盟者の白川郷の内ヶ島氏理と共に金森軍に抵抗するも、大軍に攻められていた佐々成政からの援軍も期待できません。金森勢の前に姉小路氏の有力者が各所で討死あるいは自害する中、金森勢は最終的に姉小路氏の本拠の高堂城を攻め、姉小路氏は降伏しました。
当主の姉小路頼綱は助命され、京に護送されます。姉小路頼綱は公家でもあり、京での付き合いの範囲は長近以上でした。飛騨は山の国ですが、関東のような遠くの国だと都の人は思っておらず、木曽の義仲のように軍勢を引き連れて、直ちに都に入ってこられると思っていました。

天正14年(1586年)、長近は飛騨一国3万8700石を与えられました(『寛政重修諸家譜』)。白川郷の内ヶ島氏も助命され、金森の寄騎とされます。江戸時代の初めから庄川の白川郷と宮川の高山は一体化していました。

長近は禅宗と茶道に造詣が深く文禄3年(1594年)71歳の頃には秀吉の御伽衆を務めます。592~98年の朝鮮出兵の際は、可重と共に兵800を率いて名護屋に在陣しています。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与しました。養子の可重42歳とともに徳川家康の上杉征伐に参加し東征し、のち諸将と共に反転し西上しています。長近76歳は自らも1千1百人余を率いて、関ヶ原では石田三成との本戦に参加しています。戦功により、飛騨の本領安堵とともに、美濃国武儀郡2万石(上有知・関)と河内国金田3000石を加増され、計6万1700石の領主となります。

長近は高山を拠点と定め、同地に入った当初はしばらく鍋山城に居ましたが、天正18年(1590年)長近66歳より、天神山古城跡に新しい城を作る工事に着手し、1603年江戸幕藩体制の元、ここを飛騨藩の藩庁として初代高山藩主となります。慶長10年(1605年)長近81歳の頃に、城は城下町と共に完成したと伝わります。
可重47歳を高山に置き、自らは加増された上有知(美濃市)の鉈尾山城に入り、さらに小倉山城を築いて移ります。この時上有知に整備された城下町は「うだつの上がる町並み」として現存し、重要伝統的建造物群保存地区となっています。この年80歳を超えて、次男(三男)の五郎八(長光)が産まれています。

長近は蹴鞠や茶の湯の才にも秀でており、秀吉が伏見在城の時は伏見城下の自宅に書院と茶亭を造り、しばしば秀吉を招いています。茶の湯の宗匠千利休(1522~91)とは同世代ですが、その弟子として茶会に招かれたり、宗匠古田織部(1544~1615)とも親交がありました。秀吉が千利休の切腹を命じた時、嫡男である千道安(1546~1607)を飛騨高山に隠棲させ、匿ったとされています。その時に、照蓮寺明了や金森重近(後の金森宗和、宗和流茶道の祖:可重の廃嫡長男)が、千道安から茶の手ほどきを受けたともあります。

家康・秀忠父子からは「気相の人」と言われ信任されており、慶長10年(1605年)には家康父子が長近の伏見邸を訪れ風流を楽しんでいます。関ヶ原の戦いの後に家康に教如(後の東本願寺)を引き合わせています。慶長13年(1608年)8月12日、京都伏見の別邸で死去。84歳。法名は、金竜院殿要仲素元。墓所は、大徳寺塔頭龍源院(京都紫野)。

以上、金森長近の一生(1524~1608)を養子の可重と共に長々と書いてきました。年齢をその都度入れたのは、長生きで、かつ現役であった事を示す為でした。信長(1534~82)、秀吉(1537~98)、家康(1543~1616)と長近は、信長の10歳年上ですが、この三英傑に槍で仕え、桃山文化を体現した安土城、大坂城、伏見城を実際に見、三英傑と茶の湯を楽しんだのでした。「ならばこその飛騨4万石の高山城だっただろう。」と思い浮かべる為に経歴を紹介しました。

安土城天主東面  内藤昌復元
秀吉の大坂城 大林組が中井家に残された一階平面図から復元

6代目金森頼旹の時、綱吉の意に合わず、元禄5年(1692年)に出羽上山に改易され、以後明治まで代官が治める幕府の直轄地となります。
城は金沢藩に預けられ、全て破却されてしまいますが、長近が可重と共に作った城下町は100年続いたのでした。300年も前に壊されたので、現代の高山観光に「城下町」の姿は見えませんが、ここをクリックすると動画での本丸復元、内藤案が見られます。

第三章 高山 城下町絵図

高山市図書館/高山城下町・飛騨国絵図・高山市史街道編 に、絵図がまとまってあります。以下に、いくつか抜き出します。

街路は平板測量をしたように見えますが、昭和9年の地図と比べると、違います。正保の絵図の写しとは違います。

金森氏の城郭各曲輪名称が他の絵図と異なり、本丸が本城、二之丸屋形が本丸、庭樹院殿屋敷が二之丸と記されている。二の丸に殿様が住んでおり、政治もそこで行われたので新たな「本丸」なのでしょう。

また城内の井戸が青丸で記され、家臣大塚権右衛門宅裏手の井戸から二之丸(この図では本丸)へ青線が引かれるが、これは湧水量の多い大洞地区から水を送った水路である。 金森左京の屋敷は江名子川の右岸に所在するほか、空町の島川原にも見え、さらに錦山方面江戸道沿いにも旧屋敷があった。また御下屋敷は2カ所あり、中橋西側の御下屋敷(現高山陣屋)附近に米蔵・材木蔵・桶小屋・御作事所・馬屋等の名が見える。この図は二木家旧蔵で、森・平田家にも同種の図が伝わる。

高山市

金森時代の城下町を中心に岡本町や三福寺町を含めた高山盆地全体が描かれている。高山城は「御城」と記され、輪郭のみである。武家屋敷には名を書き、町家では赤色、道は黄土色、寺は茶で彩色されている。 右上には各町の長さが記されている。壱ノ町長六丁弐拾九間壱尺・弐ノ町長六丁拾六間・三ノ町長六丁拾壱間四尺・欠ノ上町長五拾六間・上ノ向町ヨリ下向町マテ長四丁程など、南北の通りの長さが記される。欠ノ上町は長五拾六間とあるが、現在の馬場、吹屋南北通りと安川の一部東西通りの合計であろう。 一之新町・二之新町・下新町の名は、町並が北へ発展していったことを示している。 この図は高山の町年寄を勤めた屋貝家(註6)に伝わったものである。町年寄は領主と町人の間に立って、宗門人別帳の作成も行なった。町年寄は金森時代初期に矢嶋茂右衛門が町代となったのが始まりで、のちに一之町に矢嶋、二之町に川上、三之町に屋貝の三家が世襲で勤めるようになり、金森時代末期には各5人扶持(註7)を受けていたという。(註6) 高山城下町の町年寄は、一之町が矢嶋氏、二之町が川上氏、三之町が屋貝氏で、代々世襲した。(註7) 加越能文庫『金森在番雑記 単』金沢市立近世資料館蔵の中に「金森出雲守殿御家来附け帳」の項があり、その中に「一、五人扶持宛町代屋(矢)嶋茂エ門、川上善吉、屋貝権四郎」とある。

高山市

盆地全体、城郭に狩野派の雰囲気が写されており、武家地記名の細やかさから、正保の絵図の控えが町年寄りに伝わったものだと思います。
天神山のテッペンにあった古城跡に本丸を作り、その後に殿様が住むニの丸を城下町側に繋げた事が、城下町に面しない出丸側を「大手」と呼び、武家地から町人地に繋がる道を「搦手」と言っています。城の棄却に際し、石垣をも壊したので現地に立っても「高山城」の姿を想像できません。

元禄5年(1692年)に改易され、高山城は加賀藩に預けられ、城も石垣も武家屋敷も壊されます。

下屋敷が代官の陣屋となりました。城下町の多くが、明治になって武家地が裸地になるのですが、高山はさらに150年前に裸地になりました。「上三之町」「上一之町」「上二之町」を中心とした「高山市三町」による在郷町として高山は残ります。

第四章 高山城 内藤昌復元

発行:財団法人金森公顕彰会
発行日:1988年9月
ページ数:28P+折り込み付図9枚
編集:文化環境計画研究所
[目次]
1.経緯
2.日本城郭史上の高山城
3.高山城の内郭の構成特性 -火性梯郭式
4.高山城天守の構成特性 -梯立式
5.天守の建築的特性 -初期望楼型
6.本丸御殿の建築的特性 -初期書院造と囲(数奇屋)
7.高山城本丸建築仕様
8.結
付.立面図・平面図

「財団法人金森公顕彰会は、昭和58年設立以来、金森長近公銅像の建立をはじめ、高山城に関する資料収集、調査報告書の発刊、『飛騨金森史』の刊行など多岐にわたる事業を推進してまいりました。このたび、名古屋工業大学・内藤昌博士のご努力により、今まで明らかにされていなかった高山城本丸部分の様相が解明され、復元模型も立派に完成されました。それによると、高山城は自然の地形に合わせた不整形な本丸を築き、御殿と天守を接合した梯立式の珍しい城であることが判明しました。」

財団法人金森公顕彰会

私は1995年に名古屋に戻り、内藤先生に御挨拶をしに大学に行った時に、高山城の復元図を見た記憶があります。石垣の「天守台」がなく御殿建築(御座の間)の上に直接望楼が乗っており、とても城には見えず、それらが石垣の上にはみ出ていたのに驚いたのを覚えています。 天守の発展過程における初期の形態「初期望楼型」に、安土城天主と同様に分類されます。外から見ると2重ですが、内部は3階建ての構造になっていました。
書院造のように「表」と「奥」があり、大手道は二の丸側でなく、南出丸とし、東の玄関門に至り、上段を持つ式台に至り、使者の間を付属させています。北西に二間の大床をもつ広間と「表」を繋げています。城下町と繋がる二の丸側は搦手としています。
石垣によって形作られた小山の頂きにある「平山城」ですが、軍事拠点としての機能以上に、風呂など居住性が高められ、大広間に、長近・可重らしく茶室(囲)を備え、絵図に題された「本丸屋形(御殿)」としての性格が強く、内藤先生はここに安土城天主の姿を重ねていました。豪雪・寒冷地であるため、瓦ではなく木材の板を用いた「柿葺」が採用されおり、それも天守でなく御殿である事を表現しています。

天守に付櫓(つけやぐら)が添えられ、「梯立式」と呼ばれる配置形式を採っているのも、天守の初源を示しています。安土城天主、岡山城天守の天守台は多角形です。なぜなら、天守台の敷地を地山を削って石垣を積んで作るのですが、計画の「知」を示す、グリッド状に石垣普請はできなかったのでした。高山城本丸もできませんでした。
岡山城天守を見てください。穴太衆の作った敷地の凸部には、母屋に附属屋をつける形にして、大工は全体の調子でグリッドに乗るようにしたのでした。地山が細長くあれば、その方向にそって付櫓を加えたのです。

「ビジュアル版 城の日本史」内藤昌著

編集の文化環境計画研究所とは、内藤研究室第一期卒の卒業生の浅井さんが開く事務所であり、模型費、パース費、調査費など国立大学の研究費ではもてない物に対し、内藤研究室に代わりにそれらへの報酬金を受け取る事務所です。名古屋城、駿府城にも内藤先生は文化環境計画研究所を使いましたが、復元安土城では朝日新聞などの出版社がその費用を持ちました。

下図の平面図と同じ位置から見ています。石垣が凸凹しているのは、地山に合わせたからであり、その石垣に合わせて建築はつくられています。南面の様に石垣を積む方が、普請工事は楽ですが、北面はグリッドに整えて城下町に威容を見せたかったのでしょう。

高山市としては、内藤復元案内容にはあえて触れておらず、その評価もしていないのですが、飛騨高山まちの博物館 の中に、100分の1の模型はガラスケースに入れてあります。高山城の模型1988年を使っての動画制作は、高山市が2019年に行っています。岩村城本丸跡地に立って、この模型を思い出した私です。
北面石垣が凸凹しているのは、地山に合わせたからであり、その石垣に合わせて建築はつくられています。南面の様に石垣をナナメに積む方が、普請工事は楽ですが、北面はグリッドに整えて城下町にこの威容を見せたかったのでしょう。

この図は本丸全体の図である。図上、下半分が本丸屋形の平面図で、図上、下部には「上段」と記された部屋あたりに望楼形の天守にあたる部分があった。空地が2カ所あり、図上、上部の「空地」下部には蒸し風呂の「風呂屋」が記される。図上、左部には茶室である「カコイ」があり、炉が切ってある。ここからの眺望はすばらしく、高山の城下町が一望できる。図上、上部には「使者の間」が、右には台所がある。この床下は大手の通路となる。本丸敷地の北側は、図上、右部が13間櫓、上が10間櫓、左が太鼓櫓、番所、横櫓と、三方を櫓で囲んだ曲輪となっている。建物の方位は磁針によって決められていることが、昭和60年の発掘調査によって確認された。
加賀藩による破壊前の測量図

復元史料は、加賀藩は元禄期に破城する前に、城郭の測量をしていたのでした。幕府は正保に続き元禄にも国絵図、城下絵図、城郭絵図の提出を各藩に求めており、加賀藩はオランダ渡りの平板測量を高山城にも行ったのでしょう。絵図の元図は残されていませんが、大正時代に押上氏が写し取ったのが残されており、昭和60年に高山市は発掘調査を行って加賀藩の測量図が正しいと判断し、高山市が全体を印刷物にしています。

幼筆な絵ですが、江戸期城絵図を高山市の復元図と並べました。他の城と同様に、殿様は二の丸の広い御殿に移っており、本丸天守は使っていません。

城下町図のアングルに合わせて、高山市が復元した高山城城郭図を入れておきます。

堀と石垣によって二の丸が作られ、そこに屋敷があるのは、慶長期のお城のようですが、山をさらに登って、石垣の上の天守は犬山城、彦根城のように見えます。天守丸を1590年頃に作ったのですが、それでは狭いと可重は、徳川義直の名古屋城二の丸御殿と同様に、20年後に二の丸御殿を作ったのでしょう。

高山城本丸 復元図   内藤昌責任編集 復元日本大観 城と館 昭和63年(1988)世界文化社刊
二の丸御殿  本丸御殿の倍の大きさです。ここが高山藩の政庁となりました。
宮川から高山城の城山を見上げる角度
こんな高山城が描かれていますが、こんな高い石垣ではありません。イラストレーターの復元はいつもこのようにもっています。高く、立派に見える石垣は、大雨と地震で簡単に崩落します。
丸亀城  

NHKの大河ドラマの復元された建物は、役者の衣装と同様です。あったように見せれれば、それで歴史考証はOKです。
娯楽ですので豪華な方に引っ張られます。戦記、歌舞伎、浪曲、映画、テレビ、ゲームと昔から面々と続く娯楽が城マニアを作り続けています。私も楽しんでいますが、史実ではありません。

テレビのお城番組では「守り堅固」が繰り返されていますが、大坂夏の陣、天草のキリスタン征伐では大砲を打ちこまれ、終わっています。
そのまま、幕末の鳥羽伏見の戦いになり、明治になっての西南戦争の熊本城も、燃える木造建築ですので、木造の「守り堅固」は、ありえません。この復元された高山城を見れば、領主は何を狙って城を作ったのかがわかります。お城は権力のシンボルであり、都市のシンボルとなるように作られたのでした。
関ヶ原の戦いの後、豊臣氏壊滅の為に臨戦態勢で作られた彦根城も復元されていますが、大砲の前には「守り堅固」とは言えません。

彦根城 模型  豊臣をけん制する戦闘モードの城であり、連郭式に曲輪が配置され、門、多門櫓が守っている。  内藤昌責任編集 復元日本大観 城と館 昭和63年(1988)世界文化社刊

●まとめ

前田藩の測量図が残されていたこともあり、期待通り、その後発掘による古図面の検証もされ、高山市(人口8万人)の学芸員はよく資料をまとめて公開しています。内藤昌復元の話もきちんと残されていました。滋賀県(人口139万人)、静岡市(66万人)とは大違いでした。

この作業を始める以前に、高山市に期待をもっていたのは、以下のネット動画を見ていたからでした。

オンラインツアー 山村亜希先生とめぐる飛騨の城下町【令和3年12月26日開催】
https://www.youtube.com/watch?v=l3wKjExWq6k

私の敬愛する、京大歴史地理学の山村先生が高山まで行かれているのですから、それだけでレベルがわかります。

しかしながら、内藤昌復元の高山城を中心に示しての「城下町:武士による都市計画」が示されていないのでした。代官の陣屋を都市の中心とする高山を「城下町」と呼べんでしょう。武家地は城下町と違い大幅に減っています。城下町のような消費都市とはなりません。

山村先生のこの動画の「飛騨の町の構造」には、突然消えた城・武家屋敷250戸余によって、100年続いた城下町が大混乱に陥り、その後、町人の工夫で在郷町として復活した高山の町の構造が語られていません。
語るには、「城下町:武士による都市計画」が必要となりますが、前田藩の古地図は金森の城の100年後のものであり、「正保絵図」1640年頃が欲しい所ですが、ありません。

限られた資料ですが、是非とも、都市史の流れにそった、「城下町高山」から、「陣屋町高山」への町の構造変化の解明を期待します。

※追加
浜松城での研究成果の事例を以下に入れておきます。山村先生の歴史地理学の世界になります。


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