国宝 彦根城 15万石
ちっこい天守なんですが、小生意気で、威張り散らしているように私には見えました。天守の高さは石垣5.5mを含めても21mしかありません。
昭和5年に国宝に指定された名古屋城は空襲で燃え、戦後、法隆寺金堂の火災の反省から、新たに文化財保護法が作られ、他の姫路城、松本城、犬山城と共に、私の生まれた1952年(昭和27年)に国宝指定されました。
私は名古屋育ちで、城戸久先生によるコンクリート造天守も身近に見ていました。名古屋城天守(昭和34年復興)はもちろん、三層の天守も、国宝の犬山城天守1595年だけでなく、岐阜城天守(昭和31年模擬)、岡崎城天守(昭和34年復興)、小牧城天守(昭和42年模擬)とありますが、この彦根城天守は、とりわけ派手です。
附属屋を従え、千鳥破風と花頭窓を交互に置き、最上階には勾欄がまわり、その唐破風の懸魚には金が巻かれています。
見出し画に、天守の近接写真を載せましたが、玄宮園から見あげる天守は「尾張61万石の天守などなにするものぞ。」に見えました。
私がはじめて彦根城を見たのは、1974年夏内藤研究室9名がうちそろって、安土城に測量に登ったあと、玄宮園に宿泊したときでした。
昔おねい様の給仕でお膳での食事のあと、酒を飲めない内藤先生は蚊帳の中で按摩にかかっておられていたのですが、私たちは団扇とビールを手に「天守の美」を論じていたのでした。庭の池の上を渡ってくる風に殿様気分を味わった、楽しい思い出です。

第一章 築城のながれ
第一項 選地
彦根城は、関ヶ原の戦いの後慶長6年1601年に、家康が徳川四天王の一人井伊直政を上野高崎城から敗軍の将石田三成の居城、佐和山城に転封するのですが、直政は入城するもすぐ西にある磯山に城を移すと決意し、家康が認めた事に始まります。

1571年坂本城に明智光秀、佐和山城に丹羽長秀、1573年長浜城に羽柴秀吉、1578年大溝城に織田信澄を置いて、琵琶湖の水運を押さえ、東山道の短縮を図り、北陸・日本海とのルートを確保し、信長の天下一統をなした。
信長は1567年33歳で、岐阜を奪って「天下布武」の朱印を使いますが、その「天下」とは足利義輝将軍が暗殺され、乱れた畿内周辺を指しました。
古代より、三関(愛発関、不破関、鈴鹿関)が東国との境界としてありましたが、戦国時代には不破関を挟んで美濃の大垣城と近江の佐和山城が対峙していました。信長は浅井攻めの前哨戦で小谷城の枝城となっていた佐和山城を8ヶ月かけて落とし、丹羽長秀を入れます。岐阜から都へ駆けるには、この関ヶ原を超えたところと、大津・坂本あたりでの二泊が必要となります。

家康は「関ヶ原の戦いは徳川の対豊臣との戦争ではない。豊臣への謀反を行った上杉、石田一派を豊臣軍として成敗した。」とし、西軍の毛利も島津もとり潰さず、徳川の東軍に参画した秀吉恩顧の大名にも石高を大幅に増やします。
家康は自らの石高250万石を倍増し400万石とし、豊臣家の蔵入地(いわゆる太閤直轄地)220万石の内ほぼ4分の3を東軍への恩賞という形で削減しました。

国主となった武将には前田利長(加賀・越中・能登)、福島正則(安芸・備後)、小早川秀秋(備前・美作)、堀尾忠氏(出雲・隠岐)、加藤清正(肥後)、黒田長政(筑前)、細川忠興(豊前)、浅野幸長(紀伊)、田中吉政(筑後)、山内一豊(土佐)、中村忠一(伯耆)、京極高次(若狭)、京極高知(丹後)がいます。
「外様大名」と呼び、いずれも西国の遠方に配置し、畿内、東海の要所には外様大名を監視するように、家康の親族を置きました。家康次男の結城秀康は北陸道を押さえる越前一国、家康四男・松平忠吉(九男・徳川義直)は東海道を押さえる尾張一国、(家康十男・徳川頼宣は紀伊と伊勢の二国、)家康の次女・督姫を娶った池田輝政は西国と畿内を結ぶ播磨一国、伊達氏・上杉氏の監視目的として家康五男・武田信吉を常陸水戸15万石、家康の三女を娶った蒲生秀行を陸奥会津60万石にです。
美濃・信濃・伊勢・三河・遠江・駿河といった東海道・中山道筋や畿内には、石高は少ないですが、譜代大名を多数増加させて入封させ、江戸の防衛と豊臣氏および西国外様大名の監視を行わせます。その最前線として、近江に井伊直政18万石、伊賀・伊勢に藤堂高虎27万石が置かれました。
これが慶長のお城ラッシュです。私の唱える「お城は都市である。」とは、ここに見えます。全国一斉に150もの都市が誕生しました。

現代の日本の都市は、秀吉の一統1590年から10年の間に一斉に生まれた事がわかります。都市設計の理念は同じでした。
家康は1603年に幕府を開き、二年後には秀忠にさっさと将軍を譲ってしまいます。江戸幕府によって徳川の天下を続けるぞ、との表明を急いだのでした。関白にはすでに1601年に九条兼孝を据え、豊臣秀頼を関白にし豊臣家を繋げるという秀吉の願いは絶たれています。
家康は、後陽成天皇から後水尾天皇への譲位(慶長16年3月27日)1611年に伴う、一連の儀式への参列が表向きの理由として、秀頼を二条城に呼びつけ「 天下人としての権威が家康に移っていることを天下に示す。」もくろみには成功しましたが、秀頼を実質的に臣従させるには至りませんでした。
秀頼(19歳)が二条城に到着すると、家康(69歳)は自ら玄関先まで出迎えるという丁重な姿勢を見せ、家康は対等の礼をとろうとしましたが、秀頼はこれを遠慮し、結果的に家康が上座に着く形となりました。
このとき立派に成長し、堂々と振る舞う秀頼の姿を目の当たりにした家康は、「秀頼は賢き人なり」と一目置き、この直後1611年に家康が全国の大名に起請文(忠誠を誓う誓約書)の提出を求めたことで、事実上の「大坂の陣」へと繋がる導火線になったと歴史家は言います。
秀吉が、明智光秀の坂本城(1571年)を廃城にし、浅野長政に作らせた大津城(1586年)は、関ヶ原の戦いで京極高次が籠城して奮戦するのですが、今度は家康が廃城にして、藤堂高虎に膳所城を設計させ、天下普請(1601年)させます。
湊としての価値は、坂本城⇒大津城⇒膳所城と繫がれたのですが、豊臣包囲網の前線基地として水城では弱いと家康は佐和山の山城に井伊直政を置いたのでした。
大津城の5層7階の天守の材は、彦根城天守に使われたとの伝承は、昭和32年(1957年)に行われた彦根城天守解体修理の際に符号、墨書きが見つかったことで確認されました。
第二項 築城のテクノラートに家康の意図を見る。
井伊直政(1561~1602)は、比高150mの佐和山城は、岐阜城の金華山比高300m、小谷城の比高400mと同様の山城=逃げ城、まさに中世の城「要害」であり、火砲による戦闘の時代に合わないと考えました。要害の麓に設けた根小屋=館城も兼ね、その権力を示す天守を頂く、安土城を代表とする平山城にしなければならないと考え、すぐ西にある比高50mの磯山改め彦根山に平山城を作ると意を決めたのですが、あくる慶長7年に没します。

手前に中国の瀟湘八景を模した玄宮園、その右手に下屋敷の楽々園があります。現状と違い彦根山全体が堀で囲まれています。頂上に広さが得られる山でしたが、屋敷は山下に降ろしています。
病弱の嫡男・直継13歳がその跡を継ぐことになります。家康はこれを許し、慶長9年1604年に着工します。
後に江戸城・駿府城の普請奉行を務める山代忠久、伏見城・名古屋城の普請奉行を務めた佐久間政実など3人を差し向け、役夫は伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7カ国12大名に負荷させる天下普請としました。
中でも縄張りには、甲州流軍学中興の祖、小幡勘兵景憲(1572~1663)の師である早川幸豊を関与させました。勘助流(甲州流)の築城術を山県昌景から伝授された信玄・勝頼の御家人ですので、軍学は口伝であり示されませんが、ここに家康の本気度は伝わります。
彦根藩でも藩士の中から、縄張り4名、普請奉行3名、作事奉行2名、大工棟梁1名を選び、慶長12年1607年頃には、3年をかけて天守と本丸が完成します。
一方、家康の信任厚い藤堂高虎は、膳所城(1601年)の後、二条城(1603年)慶長の江戸城(1603年)伏見城4期(1606年)駿府城(1607年)の縄張りをし、1608年に伊賀・伊勢に移され伊賀上野城、津城を自ら作りつつ、名古屋城の縄張りもし、名古屋城天守は慶長17年1612年に完成します。
その間に、1609年に丹波笹山城、1610年に丹波亀山城を修築し、1611年には熊本城に清正亡き後の加藤忠広の後見人として出向きます。
1611年に二条城で、家康69歳は秀頼19歳を見て、自らの歳を改めて自覚し、己でしか豊臣家滅亡はかなわないと決意し、全国の大名に起請文(忠誠を誓う誓約書)の提出を求めたと歴史家は語りますが、家康は彦根城の完成を見、高虎を伊賀・伊勢に移す1608年には、豊臣滅亡の大坂の陣(1614年、1615年)をもくろんでいたと私は思います。江戸を守る城でなく、これらは大坂を2昼夜で攻められる城でした。
この年に、秀頼16歳は長男・国松を側室・伊茶に産ませていますが、家康66歳の孫の秀頼の正室・千姫12歳にはまだ子がありません。
千姫の7歳下、国松の11歳下に家光(1604~51)がいました。家康は大御所として、駿府で政治を実質行っていました。秀忠(1579~1632)にしてはたまりませんが、関ヶ原の戦いに間に合わなかったので致し方ありません。
家康近くに仕え、慶長の江戸城、駿府城、名古屋城を作った大工・中井正清は、豊臣氏の資金による大仏殿の再建も請負い、慶長15年1610年に立柱し、慶長17年中に大仏殿はほぼ完成させますが、そこで、「棟札に中井正清の名がない。鐘銘文の「国家安康」「君臣豊楽」は問題である。」を家康に伝え、これを言いがかりとして、慶長19年1614年の大坂の陣に家康はなだれ込みます。テクノラートには、政治の才も必要でした。
戦いに備え、正清は父の設計した大坂城を隠密し、絵図と作成して家康にたいそう喜ばれたとありましたが、実際、昭和34年に中井家からその絵図が発見されています。
戦いが始まると、籠城する大坂の堀を干すために大和川を塞き止め、冬の陣の後には「外堀を、畳・木材で埋める。」事を家康に進言したと伝わっています。まさに、工兵隊のボスです。
●大工・中井正清の作品
慶長7年 伏見城
慶長8年 二条城、法隆寺諸堂修理
慶長9年 知恩院
慶長10年 増上寺山門
慶長11年 相国寺山門、法隆寺伝法堂等修理
慶長12年 長谷寺観音堂修理、仙洞御所、江戸城
慶長13年 駿府城
慶長14年 駿府浅間社
慶長15年 駿府金地院、駿府八幡社
慶長16年 女院御所、増上寺
慶長17年 箱根権現社、方広寺大仏殿、名古屋城
慶長18年 内裏、春日社
慶長19年 東大寺大仏の修理
慶長20年 茶臼山陣屋
元和2年 久能山東照宮
元和3年 日光東照宮
元和4年 江戸紅葉山東照宮、浅草寺東照宮
元和元年(1615)に家康の命令で、直継は病身故に上野安中3万石をあたえられ隠居させられ、直継の弟の直隆が残りの15万石を領して彦根藩主となると、翌2年、直孝は藩士の中から総奉行2名、普請奉行3名、作事奉行3名を新たに任命して築城工事を再開、元和8年(1622)に外郭まで完成させます。
井伊家代々明治まで続きますが、5代藩主の井伊直興が延宝5年(1677)に城の北麓湖岸に下屋敷として、楽々園・玄宮園を作ります。明和8年(1771)に二の丸佐和口多門櫓が建てられます。天保12年(1841)に天秤櫓の補強を行い、向かって左の石垣が積みなおされました。
第二章 縄張り
第一項 城下町の構成
彦根山の本丸を3重の堀によって囲み、城下町を形成している典型的な環郭式平山城です。

近江八幡から来る朝鮮街道を南西から三の丸に入れ、伝馬町、白壁町、上本町、京橋通りを超えて、下本町、桶屋町と続け、湖の湊に至る街道沿いの表通りに、その一本西に、魚屋町、職人町を連ねる裏通りと、まさに大垣城と同じです。このまま城下町の定理通りに行くと、京橋通りを東に京橋口から二の丸に入り、二の丸の武家地を北進し大手門に至り、鐘ノ丸に登り、橋を渡って太鼓丸に本丸に至るのですが、御殿が山の頂上にあるのは不便だと、早々に搦手の佐和口奥の山麓に表御殿を作ってしまいました。
名古屋城でも、本丸御殿は山の上でないのですが、初代藩主義直は「本丸御殿は狭い。」と元和6年(1620)に、二の丸御殿に移っています。元和8年(1622)に外郭が完成したときにはすでに現在の縄張りになっていました。

第二項 城郭
二の丸には、佐和口から入ります。


中堀の内側に堀から石垣を立ち上げている左側が重要文化財の佐和口多門櫓です。正面の矩折一層が枡形を形成しています。
右端は二層二階櫓になっていて、湖に向かい威容を示しています。窓、鉄砲挟間が規則正しく配置され、内部は7つに区画されています。


佐和口櫓の裏に、珍しい重要文化財の「馬屋」が檜皮葺きで残っています。平面を折って20頭が入りました。二の丸のここまでは馬上でも良かったのでしょう。東に仲間部屋一室があり、南には長屋門を挟んで足軽長屋が続いています。

表御殿の大入母屋が正面に見え、橋を渡った左が表門です。その上に一段高く天秤櫓が見え、さらに一段高く本丸の白塀が見え、右手の端に、今はない月見櫓があります。
表御殿はコンクリート造で外観復元され博物館としています。

復元日本大観1「城と館」責任編集 内藤昌1988年世界文化社刊
敵に攻められたら、落とす掛橋です。右手の天秤櫓から延びています。一層櫓門形式の長い櫓の左右に二層二階の隅櫓を構え、あたかも天秤のようだからと名がついています。聚楽第の大手門が天秤櫓であったと言われています。この櫓部分は内藤氏の長浜城の楼門を移築したと言い伝えられています。


門の内側は石垣が後退して広く武者だまりとなっています。櫓の背面には手すり付きの縁があり、続き櫓に通じています。続き櫓は太鼓門東に直行して繋がっており、模型写真によると、この部分は本丸に対しての馬出しとなっています。

東北および東南からの続櫓が接続する西の端にある三層三階櫓も重要文化財です。
三層であり天守のようであることから、浅井氏の小谷城天守の移築の伝聞がありますが、秀吉によって殿主は1573年に破壊されていますし、殿主はあっても天守はまだありえません。とにかく、彦根城の全ての建物に移築であるとの伝聞があります。

手前一段下がって山崎郭、その上が観音台、出郭があり、建屋が建つ西の丸に至ります。そこからさらに一段上がって本丸です。復元日本大観1「城と館」責任編集 内藤昌1988年世界文化社刊

山麓の下、西に米蔵がならんでいます。湖からの補給と籠城を考えたのですが、大坂の陣では彦根城の出番はありませんでした。




第三章 天守
妻から見ると、「ちっちゃくても、うちの仏さんは偉いんだわい。」のCMを思い出させます。人の気持ちを傾けると、受け止めてくれる重さがあるのは、千鳥の△が4つ、くっついてあり、その中央にある梅鉢懸魚が愛らしく、最上階の花頭窓二つが天守を人の顔に見せ、軒唐破風の金の飾りに目が行きます。勾欄付きの縁がまわっているのですが、色が黒く目立ちません。石垣の上に出ぱった石落としがなく、黒い下見板張りを回して、突き上げ板戸を吊り込んだ格子窓にしている事も、目線を上に上げる効果があります。


通し柱を使っておらず、1階は3間四方の部屋を二つ並べ周囲を武者走り、2階は5間3間に武者走り、3階は4間2間に武者走りと、屋根の段を作り、これは隅櫓でなく、単立式の天守であるぞ!の構えは、隅柱がいずれも内ころびを持っていることにもあります。









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