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美濃 岩村城 2万石

私は、近くにある城は見つくしたつもりでしたが、女城主・岩村城をアップしていませんでしたので、あらためて2026年2月に見てきました。三河の田原城一万石と同様に小さく、2万石の山城であり、田原城と同様に私の半世紀前の城下町研究のデータ取集の対象ではありませんでした。


●はじめに 

岩村城は岐阜県恵那市岩村町にあります。標高717mに位置する日本最高所の山城で、奈良の「高取城」、岡山の「備中松山城」と並ぶ日本三大山城の一つと言われています。霧のかかる事から別名「霧ケ城」とも呼ばれ、高低差300mの地形に今も残る石垣が特徴です。

城下町は山城から岩村川沿いに開かれ、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。恵那から南に明智・大正村に繋がる明智線25kmの途中にあり、あえての「鉄道による観光」でも人を集めています。
美濃の山の中を東西によぎる日本のメイン街道、古くは東山道そして江戸期時代になると中山道ですが、共に木曽川沿いの恵那・中津川を経由していましたが、ここ岩村はその10km南にありメイン街道に面していませんでした。国争いの戦闘がない限り、産業で際立つ盆地でもありませんでした。

私は「安土城の復元」の記述を進めるうちに、岩村城が「山城」の代表と言われている事に疑問を持ちました。確かに、中世岩村城は信長の金華山の「山城」と同様に、山頂に至る尾根の上に順に造成した「逃げ城」であったのですが、今に残る石垣を見ていて、江戸時代になり封建制度下の二万石の城下町として、「山城」から安土城と同様な「平山城」に変貌したのではないか、石垣にその結果が示されているのではないか、です。
備中松山城は小さくても天守と言われる建屋が残されていますが、石垣しか残されていない岩村城で、はたして「平山城」と「城下町」の姿がハッキリつかめるか。城下町はともかく、すくなくとも従来から言われている「山城」を「平山城」として見直せようか。その鍵は「石積み」にあろうかと、20年ぶりの石垣撮影を行いました。今まで私が撮り貯めた石垣の写真もならべますので、石垣を見比べながら、私の「岩村城は山城でなく平山城」論にお付き合い下さい。

第一段 街道と川の流れ

地勢は、川の流れから始め、弥生時代の水田跡、古墳群を追い、律令制度による「道」「国」「郡」の小さくなる領域を順に押さえ、国の「国府」から「守護所」「城下町」と、歴史的都市をピックアップするのが、このブログ「城下町」シリーズの定法でしたが、山間の岩村故に今回は飛ばします。

恵那の歴史を見ると、岩村から恵那、その北の木曽谷は、三河国加茂郡、美濃国加茂郡、美濃国恵那郡(遠山氏、織田信長)、信濃木曽郡(木曽の義仲、武田信玄)と、国名が変わっています。山間にある貴重な盆地を取り合う戦闘によって、支配者がかわり、国名もかわったのでした。
天正の大洪水の後、1592年から3年をかけて秀吉は堤防を作ります。(文禄の治水)木曽川の流れが確立し、「木曽川」「木曽桧」が都に知られます。東山道の伊那盆地から、中山道の木曽谷への街道の変化も山間の都市には大きなことでした。

庄内川  名古屋に至る庄内川の源流に恵那郡があります。江戸時代になって、名古屋から中山道への宿場町の整備は犬山経由の「上街道」にて行われたのですが、庄内川沿い(現代の19号線)の「下街道」がショートカットとして使われました。
中津川から北に木曽谷を登るのが江戸時代の中山道となりました。美濃の国府は西濃の垂井、大垣と西に寄っており、木曽谷に入ると松本、信州が近くに感じます。 中津川から中央アルプスの神坂峠を越えて飯田盆地に出るのが、古代からの東山道です。古墳も多くあります。 現代の中央高速道路は恵那山トンネルで一気に山を抜けて飯田盆地に出ます。

庄内川流域は、水上の夕立山で閉じています。その東の岩村を流れる岩村川は阿木川と合流し、阿木川ダム湖を経て、恵那で木曽川に入っていますので、岩村は木曽川の支流域になりますが、名護屋には花白温泉から山越えして庄内川沿いに瑞浪、多治見と繋がります。
岩村駅前で天丼を食べたのですが、ついてきた味噌汁は八丁味噌でした。信州の白味噌ではありません。八丁味噌に尾張国名護屋よりも山向こうの三河国加茂郡を強く感じました。江戸時代は、豊田市の大給を領した大給松平家が、ここ岩村もおさめたからでしょうか。

岩村駅前の食堂 八丁味噌に驚きました。

第二段 誰が城作ったのか?を、歴史からひもとく。

御多分にもれず、江戸時代に入ってからは「一国一城の令」もあり、幕府への修理届も残されているのですが、織豊期の城の記録は残されていなく、他の城と同様に遺跡から追うしか手はありません。
関ヶ原の戦いの後1601年に、山の上の館城から麓の屋敷に殿様の住まいと行政府は移されており、山上の館城は城郭としては使われていなく、城下町から見上げる飾り(三階櫓)でしかなかったのでした。織豊期の山城の記録、記憶は残されていません。
建屋は明治の廃城令により取り壊され、石垣が残るののみなのですが、有名な「六段石垣」が示すように何度も石垣は崩れ、積みなおされており、江戸中期以降の新しい石垣に代わっていて、織豊期の城郭の縄張りはわかりません。

内藤昌復元 飛騨 高山城

私は今回岩村城の山上に立ち、「高山の館城」の像を想い浮かべました。
安土城が平山城なら、岩村城も高山城も平山城でしょう。それ故、内藤昌復元「高山城」をこのブログに繋げます。

第一章 女城主・おつやの方(~1575)


戦国時代から始めます。岩村城は、鎌倉幕府の御家人加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまで城主でした。『太平記』の1337年越前金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名があります。
・当初は平坦部に築かれた館城でしたが、美濃・織田氏と信州・武田氏間の抗争が激しくなった戦国時代末に、遠山氏が山城も築いたのでしょう。
・1570年 甲斐国の武田氏の家臣で、信濃伊那郡代であった秋山虎繁(信友)が東濃に侵攻し、上村(恵那市)での戦いに勝利しさらに西進してきましたが、織田方の武将明智光廉(三宅長閑斎)が小田子村(恵那市)でこれを撃退しました(上村合戦)。
・1572年8月(1571年12月とも)、遠山氏最後の城主は遠山景任でしたが、景任が病没すると、信長は織田信広・河尻秀隆らを派遣して岩村城を占拠し、信長5男の御坊丸(勝長)を岩村遠山氏の養子とします。信長は、1568年北伊勢の神戸に勝って3男信孝を養子に送り込み、1569年伊勢との和睦条件に2男信雄を北畠具房の養子としていますので、遠山氏の力をそぎ領土拡大をもくろんだのでした。勝長の後見に、信長の叔母にあたる女性(通称おつやの方)が城に入り、幼少の養子に代わって女城主として差配を振るったと三河物語にあります。
・1572年10月 信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に再び伊那盆地の虎繁に岩村城の攻略を命じます。信長は諸戦で助けに来ることができず、おつやの方は秋山虎繁と婚姻するという条件で降伏します。
・1573年2月末に虎繁はおつやの方を妻に迎えると、信長は1万人(ホントカナ?)の兵を連れて岩村城周辺に布陣します。信長は戦う(岩村城の戦い)も勝てず、岐阜に退却すると、信玄は岩村城内の土岐・織田派を仕置きします。
・1575年5月の長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を狙います。信長は嫡男・信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず城は陥落します。開城の際、虎繁の助命が約されていたのですが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されます。

古い町並みの中にある造り酒屋「岩村酒造」では「女城主」という名の日本酒を築城800年祭の1985年に売り出し、町の観光地化に尽力します。江戸時代に建造の主屋から奥の酒蔵までは150mのトロッコレールが残り、中庭には400年前の天正疎水が流れています。1998年(平成10年)4月、国の「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建)に選定されました。

第二章 河尻秀隆(1527~1582)の天正疎水

織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行います。城下町形成のため岩村川から水を引いて天正疎水と呼ばれる4本の用水路を設置しました。この用水は400年以上たった現在でも城下の家々の下を流れ生活用水として大きな役割を果たしており、秀隆によって岩村町の基礎が築かれたとされます。
1576年正月、信長は42歳で家督を長男信忠に譲り、安土山に移り安土城を建設します。
1579年5月天主に移徒。1581年正月安土城下に馬場を築き城下町の恰好がつきました。
1582年織田氏による甲州征伐が行われました。武田氏が天目山の戦いで滅亡するまで 信長は信濃へ足を踏み入れることをせず岩村城に滞在して戦果の報告を受けていました。武田氏が滅亡後は、河尻秀隆が甲斐国に移封となり、団忠正の居城となります。3ヶ月と経たぬ内に本能寺の変で忠正は戦死。岩村城は信濃国から戻った森長可が接収します。

第三章 各務 元正(1542~1600)

1585年小牧長久手の戦いで森長可は討たれ、後は弟・森忠政が美濃・金山城と共に引き継ぎます。この時、岩村城城代となっていたのが、森氏家老、各務元正でした。小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康の元に逃れていた明知遠山氏の遠山利景が攻め寄せるも、元正は退けます。
元正は岩村付近の支配を一任され岩村城の改修、岩村城下の整備、領内の検地奉行などを務め岩村の領国化に尽力しました。また、忠政不在時の留守居役や来客の際の饗応役などの仕事が増え、戦の際には林為忠や伴一族が出陣をし、元正は基本的に国元の抑えとして残り領国の政務を執るという場合が多く、晩年は内政官としての色合いが強くなっていきました。

秀吉は、蒲生氏郷32歳に1588年に松坂城をつくらせ、家康を関東に追いやると、1590年の城割りで、岡崎城(田中吉政)、吉田城(池田輝政)、浜松城(堀尾吉晴)、掛川城(山之内一豊)、駿府城(中村一氏)と、家康が支配していた東海道沿いに豊臣政権の与力大名を置き、松本城(石川和正)と合わせて、関東にいる家康をけん制します。石川貞清は、小田原攻めの後1590年に信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官を務め、1595年に尾張犬山城1万2千石を与えられました。

各務元正は信長の家臣の森家の家老でした。美濃金山城の森長可は、小牧長久手の戦いで、犬山城・大垣城の池田恒興・元助親子と共に秀吉方につき戦死します。よって、その後の各務元正は秀吉方として、秀吉の1590年城割方針に準じ、美濃にある森家の城固めに励むことになったのでしょう。

1599年(慶長4年)豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで大阪城番であった直昌は西軍となり、岩村城は田丸主水が城代となっていたのですが、遠山利景・遠山友政・小里光親らに攻められて田丸主水は城を明け渡します。(東濃の戦い)

第4章 親藩 大給松平家の支配

1601年 家康の城割により松平家乗が岩村城主となり、1603年岩村藩が立藩しました。家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備します。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称しました。松平乗寿が藩主を継ぎましたが、大坂の陣で戦功を挙げたことを賞され、1638年4月に遠州浜松藩へ移封されます。
1645年大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が岩村に入城します。
1702年 お家騒動を起こし丹羽氏は越後国高柳藩に転封となり、同年に信濃小諸城よりまた大給松平家の松平乗紀が入城しました。乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けます。以後、岩村城は明治維新まで大給松平氏の居城となりました。大給松平家は奏者番、寺社奉行、大坂城代など幕府の要職をしめ、ここ岩村以外に、館林藩、唐津藩、鳥羽藩、亀山藩、淀藩、佐倉藩、山形藩と転封し、最後に三河の西尾藩で明治を迎えます。

幕末に田原藩の家老・渡辺崋山が世に出、蟄居し、自刃しますが、その師匠は岩村藩家老の佐藤氏の次男、佐藤一斎(1771~1859) でした。親藩の家老は江戸で生まれ江戸で活躍します。参勤交代は1635年の武家諸法度で整備され、大名は江戸と国元で1年ごとに生活したのですが、領地には別に国家老がおかれ、江戸詰め家老には、領地に生活基盤はありませんでした。

佐藤一斎(1771~1859) 渡辺崋山が描いた肖像画 彼は幕末を代表する儒学者で、渡辺崋山も門人のひとり。本図は、50歳の一斎を描いたもの。一斎の女婿、河田迪斎家に伝来した。後年、崋山の弟子椿椿山も、一斎70歳の誕生日に招かれて夫人とともに端座する夫妻像を描いている。 

第三段 正保絵図 他の絵図

第一章 正保絵図

正保絵図から復元  緑が武家地、赤が町人地 内藤昌研究室
正保絵図 160の内70しかない残されていない貴重な正保絵図だが、測量がされていないので資料としては使えない。

岩村の正保絵図は残されています。内藤研では、当然復元をしていますが、明らかにこの山城、城下町は他の正保絵図の様に実測されておらず、田原どうように復元に苦労しています。研究対象としてはRすなわちRefereceとして、データには含めていません。近世に突如現れた城下町の研究でしたので、外した方が良いとの積極的な選択でした。

第二章 享保絵図

この絵図は、享保3年(1718)12月17日城主松平能登守乗賢が、岩村城石垣修理の許可申請を幕府に提出したとき添付したものであり、石垣の破損箇所を一々朱引きして細かく書かれています。大きさは縦2.12m、横1.82m。親藩であるが故に、申請にはより几帳面だったのかもしれません。これ以外に、江戸時代を通じての石垣修復の記録は多く残されてあり、それから、織豊期の石垣は残されていない事がわかります。
使われていない城郭でしたが、大手門の三階櫓は城下から見上げる軸線にありました。正保絵図では書かれていない、門、櫓が描かれているので、この絵を元にして、観光案内のパンフが作れられ、案内がされていますが、これを基に「山城だ。」とは大間違いです。麓に屋敷を降ろしてしまいましたが、安土城、松阪城とおなじ「平山城」の縄張りになっています。

この絵図は、享保3年(1718)12月17日城主松平能登守乗賢が、岩村城石垣修理の許可申請を幕府に提出したとき添付したものであり、石垣の破損箇所を一々朱引きして細かく書かれています。大きさは縦2.12m、横1.82m。親藩であるが故に、申請にはより几帳面だったのかもしれません。これ以外に、江戸時代を通じての石垣修復の記録は多く残されてあり、それから、織豊期の石垣は残されていない事がわかります。 使われていない城郭でしたが、大手門の三階櫓は城下から見上げる軸線にありました。正保絵図では書かれていない、門、櫓が描かれているので、この絵を元にして、観光案内のパンフが作れられ、案内がされていますが、これを基に「山城だ。」とは大間違いです。麓に屋敷を降ろしてしまいましたが、安土城、松阪城とおなじ「平山城」の縄張りになっています。
石垣の絵は「そのような郭の考え」ぐらいだと思います。

第三章 明和絵図

この平面図は明和3年(1766)岩村藩士磯貝正貞が、門人と共に城内全部を測量して作ったものです。「以三分為一間、以一尺八寸為一町」の註書があります。大きさは横364cm、縦182cm。石垣の高さを平面図に絵にして示すので珍妙なものになっています。

第4段 城郭とは、

観光駐車場の正面に龍つ  模擬建築・石垣
内側には、40台分の駐車場があります。

山麓にあった藩主屋敷跡が観光駐車場になっていました。正面には、太鼓楼と全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)の模擬建築が置かれ、その奥に小さな岩村歴史資料館があります。その史料から「山城」「平山城」を探ってみます。

第一章 山城か?

この城の攻防戦は「上村合戦」1970年から、織田信長と武田信玄・勝頼との間で始まり、信長の叔母「女城主」の逸話が生まれました。1972年~75年「岩村城の戦い」が行われます。73年2月に信長自身が1万の兵で城を囲みますが、義昭が京で兵をあげるので戻らざるをえなく、この年は引き続き北陸を進軍し、8月に一条谷の朝倉を滅ぼし、秀吉が3年かけて落とせなかった浅井の小谷城が、朝倉の援軍がなくなりついに落ちました。75年3月に勝頼が三河足助に出てきたので、長男の織田信忠が岐阜城から出陣します。5月の長篠の戦いで勝頼が敗走したあと、6月信忠は岩村城を囲み5ヶ月兵糧攻めを行い、ようやく岩村城は落ちます。1576年正月、信長は42歳で家督を長男信忠に譲り、安土山に移り安土城を建設します。

以上の戦国話の中に、「山城」から「平山城」への進化があります。山城は、開けた土地にある「館城」を攻め取られた時、山頂に逃げ込み、援軍を待つ「要害」「逃げ城」でした。岐阜城と一条谷城です。配下が3百から多くても千程度の「女城主」が采配した岩村城もこのような「館城」と「逃げ城」だと思います。一条谷山城には千畳敷(1,000㎡)があり、金華山300m頂上には信長親子が宣教師を食事でもてなした館がありましたが、岩村城はどうなのでしょうか。岐阜金華山と一条谷の図を岩村城より先に以下に入れます。

朝倉氏は、最初の戦国大名でした。織田信長は遅れて現れた戦国大名であり、最後尾は徳川家康です。
信長の岐阜図  山村亜紀 2013年 愛知県立大学  宣教師など客は回り込んで尾根伝いに七曲を登りました。百曲がりは両手両足を使って「よじ登る」必要があります。
一条谷城下町図  色の濃い所が宅地、薄い所は田。 城下町は川沿いの谷にあり、町の両端には巨石を積んだ虎口がつくられています。石垣で造成された高台に館城、寺が作られています。 ここから、山城には1時間かかります。山城への道は4本あり、正面から攻められても搦手から後ろに回れるようになっています。
土を掘り、盛って造成しており、その斜面には畝をつくって、攻め登りにくくしています。麓には石垣がありますが、六角氏の観音寺山城のような石積みはありません。

土を掘り、盛って造成しており、その斜面には畝をつくって、攻め登りにくくしています。麓には石垣がありますが、六角氏の観音寺山城のような石積みはありません。

鳥観図が観光案内にありますが、この鳥瞰図ですとまた道が長すぎます。真上からの等高線図と並べます。「山城」ならば、金華山、一条谷山城と同様に、山麓の守りである一の門、追手門はなく、山頂にある本丸と二の丸の造成地だけだったかと思います。

高低差400m  藩主鄭から出丸まで約1000m。出丸には自動車でまわりこめますが、息を切らして23分です。本丸までで800mですので1時間で往復できます。
城郭は、麓の屋敷とは、藤坂で離れてあり、3つの段に分かれています。 一の門   造成され、今は実践女子学園を創立した下田歌子(1854~1936)の碑が置かれています。 追手門   三重櫓を先端に造成され、八幡曲輪が東に一段高くあります。 本丸、二の丸  それに東曲輪、南曲輪、出丸が一団となってあります。平山城の梯郭式ならば、本丸は二の丸の内にありますが、安土城と同様に、雛段造成をしただけであり、二の丸は閉じていません。 

第二章 平山城か?

現在の岩村城跡は世に言われている「山城」ではありません。戦国大名では、今見る姿の石垣を積みあげる財力、知力を持っていません。1601年、徳川幕府の松平家になってからの城郭だと現地に立って思いました。石積みの姿(築石の形・大きさ、算木積の精度、打ち込みハギと間詰石、切り込みハギ)から、慶長以後の石垣であり、さらに記録にあるように江戸中期、後期に積みなおしが何度も行われており、間知ブロックによる昭和の積みなおしも見られます。

麓に藩主邸をつくり、藩の運営はそこでされたので、城郭は「親藩大給松平家の威厳」の為に維持されたのだと思います。

備中 松山城 の古写真 白い漆喰は水に弱く、なくなります。

備中松山城の建屋と同様に、建屋は修繕される事なく捨て置かれており、明治6年(1873年)廃城令により、城は解体され石垣のみとなり、明治14年(1881年)残されていた藩主邸も全焼しました。

下図は、「平山城」信長の安土城に先行する「浅井の小谷城」の造成姿です。絵に建屋が描かれていますが、実際はわかりません。造成の為に、近くの観音寺山城と同様に石垣も組まれています。
秀吉が落とすのに3年かかっていますので、単なる短期の「逃げ城」でなく、長期の「要塞」として作らており浅井親子も住んでいました。信長はこれを参考にし、安土山に石垣を積んで、自らの権威を示す王宮を作ろうとしたのでした。「要害」に対して「根小屋」とも言った「館(屋形)」を、小高い山の上に持ち上げ「平山城」としたのです。

尾根つたいに、造成がされているのよくわかります。金華山、安土山もそうです。段々に平地を造成しますので、おのずと連郭式の縄張りになります。

朝倉氏の小谷城は標高495mですが、比肩高さは300mです。ここ岩村城は標高770mですが、比肩高さは400mです。標高330mの金華山の比肩高さも280mですが、勾配がきつくて「平山城」にはなりません。

観音寺山城 高さ3,8m 長さ32mの石垣が残っています。
小谷城石垣 野面積み、隅石は「算木積み」になっていません。大きく角を出して上下にそろえています。
松坂城  平山城として、小山を崩し、石垣で郭(曲輪)を構成する松坂城の姿が、氏郷が建設工事をまじかに見ていた安土城と似るのは当然の帰結です。
松坂城 本丸の石垣 1588年完成の野面積みなのだが、角石はハガネで成形されいており、交互に短辺、長辺を見せる算木積ではないが、その雰囲気はある、石垣の頂部は急激に垂直に反り返している。信長の安土城から9年を経ている。安土城の石垣技術者であった穴太衆は、当然、近江国日野の国人であり、安土城建設に関わった蒲生氏により、松阪城にもよばれている。この9年前の安土城天守台の石垣上部は崩れ去って残されていないが、松阪城本丸の石垣のように、石垣の頂部は急激に垂直に反り返していたと考えても良い。

第三章 岩村城の石垣は修理を重ねてあり、新しい。

本丸6段積を上から見る。二の丸は右手前の森になっており、石垣および枡形はなく、右手に行くと本丸への埋め門があります、 左曲輪にのぼり、斜路で本丸に入るので、これは閾になるでしょう。
上の鳥瞰写真に合わせて、左を南にして大手門までを入れました。門から八幡曲輪に右手に登るのですが、枡形のないままに二の丸の下につき、二の丸の側に沿って本丸に行きます。ここには梯郭式、連郭式と呼ぶ郭は無く、尾根を段々に造成して来て。本丸だけが別扱いとなっています。「山城」の形が今の石積の前にありました。松阪城より古い、安土城、小谷城と同じ造成から生まれたそのままの城郭形式です。
内藤昌 「城の日本史」より
東曲輪から斜路で本丸に近づき、階段を上る。
天守台から東に見下ろす。   享保の絵図では多門櫓が書かれていますが、明らかな天守台が四角く本丸の北隅にあります。織豊期には、高山城と同様な天主があったのでしょう。
城下町の方角を見ます。 本丸は南北60m東西40mあります。ここに立って、飛騨の高山城を思い起こしました。「織豊期には、ここに館城があったに違いない。
本丸の南の石垣は2段積になっています。 打ち込みハギ、算木積みです。
6段積みは、崩れたので後から積み足したのであり、下段ほど切り石に進化しています。 4~5mの高さで回したのですが、この北側だけは10mになっています。6段にしたので、勾配も45度と下がりました。これでは守りの石垣にはなりません。
埋め門には、大きな野面石がありました。ここに織豊期の証拠がありました。江戸中期以降の補修は、石タネが小さく整形され、角が立っています。それでも250年前ですので、苔がむし十分歴史を感じさせます。
左手は二の丸はすっかり森です。本丸埋め門の側面を写すと、左外の隅石は、まだ算木積になっていなく、松坂城より古い秀吉の大坂城なみです。右内の隅石は算木積みであり、この間の築石は野面石と打ち込みハギが混じっています。なんとも、不思議な石組みですが、それが修繕の跡をしめしています。
明らかに慶長以後の石垣です。しかし、どこまでが織豊期の石組があったのかはわかりません
二の丸石垣 切り込みハギ  犬山城でも多いですが、江戸中期の積みなおしです。 築石が小さく、外形線が直線的に成形されています。
織豊期には配下の武家屋敷だったのでしょうが、江戸時代になり放棄されて、神社がメインになったのではないでしょうか。
石垣の高さは2mほどで、高くはありません。
造成の土留めの石垣ですので、高くなると段積みにします。

安土城の本丸です。
伝・二の丸、伝・三の丸と書かれていますが、枡形の黒鉄門の中に全て入っています。
伝・三の丸、伝・二の丸、本丸は郭として独立していません。よって梯郭式、連郭式城郭とは言えません。

「山城」を尾根伝いに造成した小谷城と造成の形は似ていますが、信長は高石垣と門・枡形で大きな曲輪を作り、高さ40mの「安土城天主」をその山のテッペンに載せました。
この姿は、秀吉・家康他の戦国大名を圧倒し、彼らに真似をさせる事になりました。
「お城の始まりは安土城から」は「お城」は「天主」からなのです。

天守台を最高レベルとして、伝二の丸、御幸御殿丸、伝三の丸が本丸の中にあり、北に低く台所丸に降りてからもう一つの枡形に出て、北の出丸に降りてます。
守り重視に閉じこもる「山城」から、城下町を従える権力者の魅せる館城「平山城」に変化したのでした。さらに「平城」へと都市化が進みます。

第五段 岩村 城下町ブラリ

さてさて、城下町を歩くのですが、「伝統的建造物群保存地区」と指定された街並みは、東海道宿場町でもあった亀山城下町より、宿場町関宿に近いのでした。お城が城下町から遠く、その城下町はメインの街道を江戸時代より引き入れていません。という事は、城下町は今の自動車による国道からも離れています。

明智鉄道とセットで岩村町を売ろうとするパンフはいく種もありますが、ランチ店を探すにも「いっぱい。一時間後に来て。」でした。2月では人出がないのでしょう、店は開いていません。

無料で見せてくれます。
町中には、このようなタテ看による説明があります。

下町枡形までが江戸時代からの城下町であり、そこから明智鉄道岩村駅までは、明治になって鉄道がひかれてから作られた町です。

江戸いらいの低い街並み
薬屋はデカイ
「女城主」で売る酒屋
さらに、川上に繋がる町はなく、消える。
新しい町です
ここが明智鉄道を作った国会議員の家
勝川家
勝川家の裏
開いていた貴重な店
岩村駅

武家地を回るも、寺があるだけで、通りは車の為に広く敷地は擁壁で段々になっており、江戸時代の残影は見えません。唯一、鉄砲鍛冶の家を見ました

鉄砲鍛冶の家
鉄砲を特別にうたうことはなく、鍛冶屋は町に必ずありました。小学唱歌にある「村の鍛冶屋」です。
この広がりが、少し城下町です。

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