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お城の石垣 2022年FB記

安土城犬山城江戸城名古屋城、と、お城を順に書いて来ましたが、その都度、石垣について必ず触れています。
重複が多くなるのは、名古屋城木造天守復元での名古屋市石垣部会のお話が「石垣の基礎知識」がないとわからないので、それを補おうとした事と、小牧市が「信長の小牧城石垣の発掘」を博物館まで作って展示をしているのですが、「子供だましの展示」であり、ここはひとつでしゃばって、博物館学芸員に代わり「石垣とは何か」を書かなくてはと思ったからでした。(2022年記)

<2026年6月noteに向けて、20260606記。
私の「石垣とは何か」を示しています。天守の現存は12棟しかないので、「お城」と言っても、城跡の石垣、堀の写真と文でしか、都市を語っていない事になっていますので、各所の石垣を横刺しで見えるように、工学視点で「石垣とは何か」を書いています。
考古学の人々が史跡発掘作業の中で石垣を語っていますが、いかんせん文学部ですので工学の視点はありません。そして、その間違いを指摘する土木の学者もいません。私は土木屋でなく建築屋ですが、知る限りでやってみました。>

今回、改めて書きました。基本的に他の文は2022年のままです。
復元された小牧城の「塁」 
石はこの地から出たものか? 上の3~4段積は水平線がとおる「布目」「重箱」であり、間詰石を用いて「目地が十字」にある。穴太ならこんな石積みはしない。「野石」を使って堅固な「野面積」とする。石積を知らないひどい「復元」だ。
下の2~3段の石積みは「野面積」なので比べてほしい。上にはコンクリート造の秀吉の聚楽第を模した模擬天守が乗っており、なんとも気持ちが悪い。落ち着かない。どうせなら、聚楽第の「割石積」を石垣らしく復元すればよかったのか?

信長の小牧城は地山のチャートを生かしつつ、2~3段積みした「土留め石」を土塁の上に3重に巻き上げただけであり、石塁は低く、土塁の勾配は緩く、隅石もありません。北垣先生の定義「高石積み」即ち石垣(石塁)とは呼べないものです。(後に詳述します。)

「塁」とは、土を重ねる砦が漢字の源意ですので、小牧城は「土塁」と「石塁」が交互にある「塁」と単に呼ぶのがふさわしいです。

信長の小牧城は防備装置の堀、土塁がないです。あるのは家康が小牧長久手の戦いで後に作ったものです。麓に館の礎石もありません。朝倉氏の城下町一条谷にはあった井戸、便所も発掘されていません。一方、尾張下4郡守護所の清洲の人々はそのまま清洲にいました。信長が安土城に移っても「弓衆」や「馬廻衆」の家族は清州にいました。
ですので、小牧城は尾張上4郡・守護所岩倉と美濃斎藤氏に対して信長の勢いを示すため「見せる砦」だったのでしょう。

図解 誰でもできる石積み入門 真田純子著 
2018年農村漁村文化協会刊

第一段 お城の石垣について、イロハから書いてみます。

日本の石積の技術は古墳の横穴式石室に示されています。奇麗に成形され、箱型に組まれていました。古墳そのものは、葺石で覆われて、段積みされていました。土盛りの自然勾配は30度であり、高く威容を見せようとし勾配を45度とあげると、盛り土が雨で流れだすので、石で表面を押さえたのでした。舟木山5号墳のように、白く輝く長石で葺けば、より遠くに首長の権力が伝わった事でしょう。

江戸初期、全国一斉に、白亜の天守を城下町に向けて聳え立たせたのも、まったく同じ理由「城下への権力の誇示」でした。

好事家が安土城天主の内藤(天守指図に従った)復元案を否定するに、宮上氏の「八角形の石垣はありえない。」を持ち出しますが、宮上氏(だけでなく多くの好事家も)は石垣の役割を間違えています。石垣は重い天主の土台にはなりえません。
石垣は「地山」を成形するために土留めの役割を果たすだけです。土を盛り上げて崩れないのは30度(安息角)です。叩いて突き固めても風雨の元では土粒子の粘りで決まります。それを70度まで土留めの角度をあげるのが石垣の役目です。石の重さで、土が崩れるのを耐えるのです。

地山の強度  

「地山」は何万年も前からそこにあるから「地」です。穴太衆は、天主の敷地「地」の形を、掘り込み、裏にぐり石を入れ、重い石垣で整えるのです。宮上復元案は石垣に天主の荷重を頼っており間違っています。安土城天守の石垣とその土盛りは、火事で崩れる天主の重みで崩れました。その結果が今の史跡の姿です。

石舞台の内側  蘇我氏の古墳石室と言われている。
5世紀前半造営の前方後円墳・ナガレ山古墳(奈良県河合町)の復元
7世紀後半 岡山県鬼丿城
戦国時代の六角氏が観音寺山城に作った石垣と比べて下さい。この程度の石積み技術は古代からありました。

第一章 ここでの「お城」とは、信長の安土城からを指しますが、その前の「館城」「要害」「山城」と言われた中世の「城」について以下に書き、「お城」との違いを明確にします。

●館城

中世になると武士の「館城」の絵が描かれます。堀と塀で囲まれ、門の上に楯を建てて高楼を組み、中には、蔀戸の母屋に、土倉、馬屋、武器が描かれています。信長に燃やされた一乗谷の朝倉の「館城」は、現地で体感できます。信長に1559年落とされた岩倉城は発掘により、外々200m角の土塁と堀が確認されました。

法然上人絵伝より
一遍聖絵より
一乗谷 朝倉氏 館城
堀と土塁で囲われた朝倉氏の館跡 信長に焼かれたあと放置されたので、礎石から館の平面形が想定でき、模型があります。
一乗谷 朝倉氏 館城  礎石と古文書から復元

●要害

「城を枕に討ち死に」と書かれている太平記、そこにある楠木正成の千早城が有名です。「平城」「平山城」に対して「山城」と建築学では言っています。「平城」は平地に建つ名古屋城であり、「平山城」は丘に建つ姫路城です。「山城」は籠城戦で使う城であり、逃げ込むので「逃げ城」とも言います。
信長の岐阜金華山山頂の「岐阜城」も斎藤道三の「稲葉城」以来の籠城して仲間の助けを待つ「逃げ城」です。山頂では水もなく長くは住めませんので、平時は、麓に家臣を集めて住み、それらは「山城」に対して「根小屋」と言われていました。

村上要害図 1597年 東北の辺境にあり後進的であった。要害(山城)と根小屋(城下町)がわけて作られている。
山村氏の岐阜城下町景観復元
300mの高さにある館を山麓の館とひっくるめて岐阜城と書くのは、山村氏は山城と根小屋は一体にあったとしているのか。
要害と言う場合は戦闘の城だけであり日常の住まいは含まない。
フロイス日本史によって、フロイスが信長に接待されている様子が分かるのだが、確かに「逃げ城」というだけでなく、山頂の館は濃尾平野を一望する接待場として信長は使っていた。
この接待の館を山頂に持つことが、信長が浅井氏の小谷城を見てのち、100mの高さにある安土城天守に自身が住み、日本初の「平山城」とする事に結びついたのだ、と私は考えています。

●近江の国・穴太衆による高石垣

三井寺(園城寺) 勧学院の石垣塀    
打ち込みハギ  高さは3mに達していない。築石も小さい。上に漆喰壁が載せてあるが、雨水を避けたのであろうか。
日吉大社周辺の僧坊は、延暦寺の坂本にある里坊と同様に周囲に石垣を巡らし「城郭」といえる様相が境内随所に見えます。
里坊の石垣  比叡山で修業を終えた坊主が里に作った寺。
塔頭が山では無理なので里に降りたのだろうか。この塀は、1571年に信長が比叡山延暦寺焼き討ちをした後の寺創立時の物。
地元の穴太地区の石工が積んだ「野面積」もしくは「穴太積」と呼ばれる石垣である。この後、安土城高石垣を築いた「穴太衆=石垣職人」は全国区となった。

三井寺(園城寺)は城と見まがう石垣を持っています。坂本、穴太に住んだ穴太衆によるものです。貞観元年(859年)に智証大師円珍が三井寺初代長吏に就任し、三井寺の発展の基礎を築き、長く天台座主を務めたのですが、円珍没後、延暦寺(山門)と三井寺(寺門)との対立「山門寺門の抗争」起き、園城寺では山門宗徒による焼き討ちが度々おきており、このような石垣が作られました。その石垣技術が戦国大名に取り入れられ(ex.六角氏の観音寺山の石垣高さ3.8m×長さ40m)、信長の安土城天守台の南面の石垣高さは13mもありました。関ヶ原の戦いの後に、徳川幕府の元に全国一斉に城が作られ、穴太衆は、先進の技術を持つ大工、絵師と共に各地に呼ばれ、石垣をつくりました。

第二章 石垣は、当初は内部空間を持たない上部建屋の為の「土留め」であり、水堀では水に削られないよう護岸石であり、空堀では登れないような垂直面を作る石積みでした。

寺内町の堀と土塁を真似て、秀吉は京をぐるりと土塁で囲み「城下町化」をします。掘り出した土を土塁として内側に積み上げるのは、まさに「城=土を叩いて成す」です。
中国語では「CITY」を「城市」と訳しています。一方日本では「城」と「城下町」を分けています。「CITY」の訳は、都を使い「都市」としました。800年間、天皇の住む都しか日本では「CITY」がなかったからでしょう。「城下町」は全国に一斉に作られた近世の「CITY」です。

「土塁」に石を足して積んだ「石塁」があります。城には土塁の助けとして「腰巻石塁」と「鉢巻石塁」があります。江戸城にもあります。
「石塁」は、壮大な「高石積み」の「石垣」だけではありません。石垣の内部を利用しない土留めですので、古墳の葺石の延長線上の構造となります。
水の中では、根石から石垣を積み上げる前に、根石の下に丸太の松を杭として打ち、その上に置いた松板の上に根石を置きました。名古屋城で石垣が崩れたので、松杭を抜いたのですが、水につかっており全く腐っていませんでした。
堀だけでなく、川湊、湖岸、海岸に石を積むことが行われましたが、重い天守をその上に載せることできません。泥の上の石垣は、泥が動けば崩れます。
(2026年NHK豊臣兄弟の長浜城天守の石垣は角を湖に突き出しており、もう笑うしかありません。秀吉の長浜城に天守があること自体が笑い話ですので、目くじらを立てるものでもないのでしょうが。20260606追記)

腰巻石塁 鉢巻石塁 松杭 根石

天守を載せる「天守台」では、石垣内部に「穴倉」を作り、天守への登り口をもうけないといけません。犬山城の天守台は登るはしごの分だけ土塁を削っています。

犬山城の天守台は、地山を支える石垣ではなく、石垣自身で4階建ての天守の重みを受けています。一般に、多門櫓、小天守の場合も石垣に載せています。軽いから良いとしたのでしょう。
日本初の5層の大天守である安土城で、大工は石垣を地山の外側で突き出し穴倉階を作りました。石垣も穴倉階も新機軸でした。
地山で天守の重さを受けるのと同時に、地震による母屋の横揺れを側の石垣で押さえる考えがあったかもしれません。
穴倉階は安土、大坂とあったのですが、一度やめて、復活しています。石垣の役目が地山の抑えだけですと穴倉は要りません。

姫路城天守は、南の城下町に高い石垣をみせて、見あげる人を威圧しています。

姫路城 南面  内藤昌著「ビジュアル版 城の日本史」より

これを断面図でみると、北側には石垣はありません。穴倉階にそのまま入れます。支持地盤の最高点がここ北側にあります。石垣を南側で高くつんでいるので、その石垣の上には、スッキリと漆喰の壁をかぶせたかったのでしょう。

姫路城天守 断面図
熊本城では、石垣と壁の境界面が石垣の凸凹ぐわいで奇麗に収まらないとして、腕木を石垣の上に出し屋根をかけニゲています。

川や海に面して、護岸の為の石を積むのは従前よりありました。堀とするために、石積みの断面の工夫がされました。水堀は渡られるので、空堀の方が防御によりとされ、特に「片薬研堀」が良いとされました。

第三章 金沢城の石垣案内から、「野づら積」→「割石積(打ち込みハギ)」→「切り石積(切り込みハギ)」との石垣の発達を示す。

北垣 聰一郎(1941~)先生の石川県金沢城調査研究所 所長の力故でしょう。金沢城には「野づら積」「割石積」「切り石積」の現物モデルがあり、ボランテイアの方が丁寧に「石垣のイロハ」から説明してくれます。

私は、前田藩の穴太、後藤家文書から、割石でなく「打ち込みハギ」、切り石でなく「切り込みハギ」と学びましたが、このブログでは金沢の現物モデルの名前に従います。
金沢城のパンフは野石を「自然石」、割石を「租加工石」としていますが、それでは名称でなく、説明です。それも不味い説明です。野石でもノミは入っていますので「租加工」となります。「野石」を使って石垣の表面が凸凹するのが「野面」であり、割石なのですが「切った」ように見えるまで加工したのが「切石」です。

コチラの 野面積 打込ハギ 切込ハギ の方が、江戸時代からの名前です。聞きなれない言葉ですので金沢城は変えたのでした。
図解 誰でもできる石積み入門 真田純子著2018年農村漁村文化協会

「石垣巡り」のパンフがあるので、それに従って回れば、誰でも石垣博士となります。
ここをクリックすると、私のfacebookに私の石垣写真があります。

岡崎城も石垣巡りパンフを作っています。
ここをクリックすると、私のfacebook に私の石垣写真が入れてあります。

「石の加工精度を上げると、石垣の勾配が急にできる。」と、石垣の秘伝書にありますが、どうなのでしょうか?「反りの戻り」ほどの見た目の効果はないと思います。
しかし、野面積、打ち込みハギ(割石積み)、切り込みハギ(切り石積み)の表面の姿が分かりやすく書かれているので、「城の日本史」内藤昌著1995年角川書店刊より抜き出しました。種石への加工度を上げて、石垣の進化があった事が分かります。
西洋では切り石積みとし、頂部にアーチを設けて内部空間を作ることを2000年前から行っていますが、日本では1634年に長崎に中国人によってつくられた眼鏡橋までありません。

荻生徂徠著 「鈐録」1727年  
野面積はまっすぐのぼり、上段だけを鉛直にしている。と、ここに書かれているが、安土城の伝・二の丸、松坂城には「反り」が入った石垣がある。石の加工が進むと積み上げ角度があげられるというのは理屈としてあっても、実証的なデータはない。

第四章 隅石を安土城から秀忠の大坂城までみる。

熊本地震での「一本足」で、角石が有名になりました。

天守が残っているのは、全国で12か所しかありません。しかし、石垣が残っている城跡は「史跡」として保護されており、北垣先生の石垣の分類から、いつ頃に建設された石垣であるかがわかります。

築石は介石によって点で接していますが、隅石は面で接しており、自重によって隅石が押されて崩れませんでした。

この14年前に復元された飯田丸5階櫓は現代技術で補強されていたのですが、石垣は古いままでしたので崩れました。
城戸久の論文によると、積みなおし、増築した痕跡があり、古図から、この石垣下に川があり、ここの土地は地山でなく盛り土だとわかっていました。杭を打とうとしなかった建築士、杭を打たせなかった文化庁の失敗です。

天正、文禄年間の初期の野面積みの石垣(高石積みの石塁)から、慶長の割石積みの石垣の間で、顕著に発達が分かるのが、隅石です。
野面であっても、隅石は早くから加工が進み、長短を互い違いに積みあげる「算木積み」になります。 

秀吉の大坂城の石垣を積みなおしています。間詰石が多い。
石垣の機能は、地山に沿って、地山が崩れないように石垣を積むものであり、天守台は地山なりの不成形になります。 段々畑と同様に石垣は土留めです。
地山を方形に切り取る土木工事はしなかったのでした。
上に載せる天守が先にあり、それに合わせた天守台を方形にするには、それだけの土木工事ができる権力が要ります。
名古屋城二の丸 南側の石垣   
石垣にまとう蔦を守山駐屯の自衛隊員がロープにぶら下がって払うのが毎年の風物となっています。

北垣聰一郎 著「石垣普請」1987年法政大学出版より

六角氏の観音寺山城は、天正以前の石垣です。
信長は1559年下尾張4郡を治めたと上京に際し、六角氏の「観音寺山城」を見上げています。麓には東山道に面して「楽市楽座」の城下町がありました。先進の城は信長の小牧城ではありません。観音寺山城であり、朝倉氏の一乗谷でした。

2~3段の小牧城の石塁は石垣とは言いません。土留めの石塁です。勾配が30度なら土で保てます。70度近くの勾配で、7段積み6尺、と背の高さを超えないと「石垣」とは言えません。百姓が段々畑の為に石積みをしていましたが、大きな石を滑車を使って背の高さを超える積み上げまではしていません。
北垣先生の「高石垣」は、高さ5mを超えるものを指します。城郭を高石垣で囲うのは安土城からでした。

小牧山の断面図があり、そこに石垣を推定したと小牧市の報告書にあります。チャートの地山で角度が30度ならば、石垣で土を止める必要はないでしょうに、どうして4段の石積みがあったと推定できたのか。報告書に理由はありません。現状からは3段でしかないです。地山の造成の為の石積みではなく、古墳の表面を石で覆ったように美濃への圧力として見せたのではないでしょうか。

それに比べて、観音寺山は佐々木六角氏の一党が、それぞれ勝手に山を削ったようです。石垣が要ります。伝・本丸は高さ3、8m×長さ32mあります。伝・館の石垣の高い所は7mあります。よって、「先進の城」は、小牧山でなく観音寺山でしょう。

小牧市の展示には、他の城の石垣を例示しておらず、「信長は、安土城の前の岐阜の前、ここ小牧山を城とし、城下町を作っていた。小牧は信長の先進性を示すものだ。」と、嘘を堂々と述べています。信長は「遅れて現れた戦国大名」であり、上洛するまで、先進性は見られません。
1995年の小牧城下町の発表以来、発掘をしているのですが、城下町の根拠は「背割り側溝」の発掘しかありません。宅地だけでなく畑でも雨水排水の側溝はあります。江戸や大坂の背割り側溝は町人地の排水溝でしたが、この小牧には上水となる川がありません。よって排水溝もありません。朝倉氏の一の谷のような井戸の跡、便所の跡も出ておらず、とても多くの人々が住める土地ではありませんでした。

古墳が葺き石で権力を見せたように、小牧山を裸にし、石で覆い櫓を組み上げ、犬山、岐阜に圧をかける為のものだったのでしょう。山の周囲の土塁、堀は家康の小牧山長久手の戦いのものであり、信長は小牧山城を守る普請をしていません。

第五章 清正流「扇の勾配」

名古屋城の天守の石垣は、「勾配は、頂部に行くと上に垂直に向かう。扇の姿であり、美しい。加藤清正が作った。」と、言われていますが、石垣の技術書では「扇勾配」とか「寺勾配」とはなく、「石垣の反りをもどす。」とあります。3種の技術書から、その「反りを戻す」姿を「城の日本史」内藤昌著1995年角川書店刊より、示します。

「城の日本史」内藤昌著1995年角川書店刊

●堀金流 「石垣築様目録」1655年岡本家蔵
穴太頭の堀金出雲は、秀吉の伏見城、姫路城、江戸城、駿府城、秀忠の大坂城の幕府直轄に関わっており、彼の資料だとされているもので、姫路城にあいます。

●後藤流 「後藤家文書」1800年頃 金沢市立図書館蔵
前田家の穴太であった後藤家の秘文書です。当然、金沢城に合致します。

●清正流 「石垣秘伝の書」1743年熊本県立図書館蔵
各勾配の延長が、頂部で等分割されるというもので、上に行くほど「反りの戻り」が急激にまします。当然、熊本城、名古屋城にあいます。

熊本城の二様の石垣。

手前、慶長期の加藤清正積み。と向こうは寛永期の細川積みと言われていましたが、拡張部分は細川家が入城する前の加藤家時代(清正の息子・忠広の時代)に、御殿の増築の為に築かれたことがわかりました。

比べると、以下のように進化しています。
①布積みと言って石垣の横の層が見える。
②算木積と言って角石の長短を交互に見せる。
③勾配がきつく、反り返しは垂直になる。

第二段 行政(考古学)が惑わしている石垣

第一章 小牧市は城跡に展示館を作ったのですが、たんなる「塁」を「信長の石垣」と呼ぶので、子供たちに「石垣」を間違えて教えています。

30度もなく、地山を削って段々を作っているので、石垣ではありません。石塁をたてて段々を奇麗にそろえたのです。

●信長の小牧城の石塁です。

高く石を積むことなく、帯状に段々となっています。勾配も30度の自然勾配で登っています。古墳の葺石の積み方です。
最上部「石垣1」を4段積みとした小牧市の推定はまちがいです。3段積みで地山の高さになります。発掘の記録にも4段積はありません。地山を崩れないように保持するための「石塁」を「石垣」と言うために高くしたのでしょう。

しかし、小牧市の教育委員会は「石垣」の技術を持っていません。信長は「石垣」の技術を持っていなかったとあえて示したかったのなら、そう説明しないといけません。
小牧山での信長の貧弱な石積み技術を解説してこそ、安土城の石垣の凄さがわかろうというものですのに、「先進の信長」と信長を宣伝するそれぞれの首長に学芸員は従い、「信長の城」を小牧、岐阜、安土と繋げて解説することをしていません。

「石垣」ではなく、砦建設の為の整地として、「土塁」を積み上げ、「石塁」を土留めの抑えとしたのであり、建っている聚楽第を模したコンクリ天守とこの「塁」とは形があっていないとの解説が要ります。
聚楽第の石垣は「割石積み(打ち込みハギ)」であり、「このようだった。」と、コンクリート天守をここに作ってしまった経緯も含めて市民に提示すべきでしょう。

頂上の物見の砦の平面形を保持するために、地山が崩れなければよいわけですので、地山のチャートを一部残して、間に石を置いて「石塁」ともしています。
硬いチャートですので、割ると、石はとがってあり、筑石の鉄則「表面に見える幅の3倍の長さを後ろに持つ」が、秀吉の大坂城のようにできていません。ですので、高くは積めません。

観音寺山城と比べて、幼い石積の技術ですが、固いチャートですので加工ができなく、仕方がありません。金華山の信長の城も同様でした。

小牧山の発掘の結果をまとめたものです。遺物としてある石塁は2~3段でしかなく、4段あったとは推測でしかありません。この巨石も含めた、地山のチャートを利用した不ぞろいな石種では、4段は積めません。現地での「復元」は、妄想の産物です。石垣の素人ですので、均等な大きさの石を使って「布目」「重箱」「十字目地」としたのでしょう。

●六角氏の観音寺山城に残る石垣です。

信長が生まれる前から、六角氏は土留めの石垣作っていました。

流紋岩です。花崗岩と成分は同じで火山から出た溶岩が花崗岩と違い、浅いところで急に固まった石です。割りやすいです。「野面」ですが、割られています。

角石の算木積の萌芽があり、交互になっていますが、麓の大きな石は信長が安土山に運んで安土城に使い、山の上の小さな石種しか残っていません。
いずれにしても、これが信長の小牧山城の前に存在していたのでが、信長はこのような石垣を作れませんでした。

●小牧市の展示館(れきしるこまき)の模型の石垣です。

小牧市の展示館(れきしるこまき)の模型の石垣です。

正面の写真は「割石積(打ち込みハギ)」の名古屋城ではないでしょうか。ここでは、当然小牧城の石積みの解説でしょうに。写真のような高い石垣は小牧山にはありません。全くあきれます。

子供が見ている模型の石は丸みを帯びており、ほぼ同じ大きさに成形された石種の4段積みです。
外を見ればとがった石の実物がころがっているのに、小牧市はこんな明きらかなウソを模型にして子供たちに教えています。
さらに、「野づら積」ではやってはいけないとされている、水平線が通る「布目」「重箱」であり、目地は「十文字」です。そして現地で復元されたような間詰石はここにありません。

この模型をもとに現地に「復元」したのでしょうか。まったく石塁を知ろうとしない、市民に知らせないお粗末な小牧市です。
石垣の50年の発達を示して、この小牧山の石積みはどのようなレベルかを示すのが教育ですが、小牧市教育委員会は「信長の先進の城」一点です。観光によって学問をまげてはいけません。「信長は遅れて現れた戦国大名」です。

●一乗谷 朝倉氏の石垣

朝倉氏の城下町の虎口にある巨石は、馬子の石舞台風であり、城下町の屋敷地の造成は段々畠の石積です。

朝倉氏の城下町 一乗谷 の虎口   ただ、積み上げただけで技術は見えません。
朝倉氏の城下町・一乗谷の屋敷地の造成

朝倉氏の城下町・一乗谷の屋敷地の造成は段々畠の石積です。「野面積」でも隅石はこのように加工されています。小牧城はせいぜい3段積みですので、このような隅石はありません。

秀吉の大坂城、犬山城天守の石種は大きいですが、技術的には同じです。まずは、石垣角度を一定にするために隅部の直線化が行われました。隅が石積みの定規となるのです。

●浅井氏 小谷城

信長は、浅井を小谷城で滅ぼしたあと、山上に千畳敷がある小谷城をみて、安土城の構想を抱いたと思います。尾根伝いに、梯郭式の縄張りを行い、住むことを前提に城としています。

浅井長政(1545~1573)は六角氏の元で生まれ、六角氏から賢政の名をもらっていましたので、観音寺山城の先進の石垣を見て育っていました。
三井寺(園城寺)の石垣には、石工集団「穴太」がすでに見えますので、近江から高石積みは始まったのでしょう。
信長の城、小牧城も岐阜城もそれぞれの市長がいう「先進の城」ではありません。

小谷城・山王丸という一番奥の郭を支える東側の石垣「大石垣」です。高さ3mあります。隅石への気配りがあります。

●遅れて現れた戦国大名、信長

信長がどこに居を置いたか、並べてみます。

勝幡城  信長 0歳~12歳 の12年間
名古屋城 信長12歳~22歳 の10年間
清州城  信長22歳~30歳 の8年間
小牧城  信長30歳~34歳 の4年間
岐阜城  信長34歳~43歳 の9年間
安土城  信長43歳~49歳 の6年間

42歳の時に長子の信忠に尾張・美濃の家督を譲り自身は近江の安土に移り、畿内の国人を新たに従えて、京を中心とする天下を取ろうとしますが、武田、上杉、毛利に伍して戦国大名として世にデビューできたのは22歳の清洲城でなく、34歳の岐阜城からだと思います。

信長は「遅れて現れた戦国大名」であり、長篠の戦いでは鉄砲の力を生かす戦いをしましたが、弓矢からの城の守りにおいては、六角氏、浅井氏、朝倉氏の石垣による虎口、郭づくりに遅れていました。それらを学んだ安土城によって、はじめて「平山城」を作り、その城の頂部に天主を聳え立たせ、そこに住み、生きた権力の象徴としました。よって、日本の城の嚆矢となりました。

そして「平城」は秀吉が大坂城で1年後にすぐ作ります。大きな堀と石垣が防御のために必要となりました。「山城」から「平山城」もしくは「平城」であり、この違いは「城郭」と「城下町」を選んだ土地にどのように置くかであり、「平山城」から「平城」に進化したわけではありません。

「城郭」を「小山」に置けば、山を三の丸、二の丸、本丸と高さを変えて造成し、その郭のラインを防御ラインにできますので、防御ラインが作りやすいですが、「城郭」を平な土地に置くと、幅の広く深い堀を回して防衛ラインを引き、高い石垣を組んで「郭」への出入り口(橋、虎口、馬出)を作ることになり、普請工事が大変になります。

秀吉の大坂城の配置図が「詰丸(本丸)」として大工の中井家に残されていますが、慶長期の城のような「郭」を複雑にして防衛ラインを作ることはしていません。
信長から秀吉と、天守をいただく「城」は「城下町」と共にあったのですが、秀吉が1593年に亡くなったあとから大坂の陣1615年までの「城」は、豊臣対徳川のにらみあいの中で、急速に防御性能を高めたのでした。

そして、豊臣を潰した家康は、戦いの城を廃棄させます。(一国一城の令)領国を支配するための町、城下町だけが残され、天守は用済みとなり、一度燃えると再建されませんでした。

太田牛一「信長公記」中川太一訳 2013年kadokawa 巻末の信長の年表   
信長18歳の末森城も46歳の安土城も「城」と書かれているが、まったく違うものだという認識をしないといけません。
さらに、城跡にはすべからく「天守」があったなどと、模擬天守を作った小牧城の間違いは小牧市が自ら正し、市民に示さないといけません。
小牧城模擬天守の範とした聚楽第がこのような石塁の上にあるわけなく、間違いの上に間違いを重ねて市民に教えている小牧市教育委員会は糾弾されないといけません。

小牧城に移った1563年30歳の信長は、まずは目の前の上4郡の守護所岩倉の織田を討ち、美濃国に向かおうとしていたのです。金も兵も技術も六角氏、朝倉氏に比べ貧しかったのでした。それが歴史です。教育委員会が歴史をゆがめてはいけません。

1602年全国一斉に150もの城と城下町が作られます。その形は急にできたわけでなく、それに至るまでに50年の進化があります。中世の町に寄って作られた町、秀吉の全国制覇の中で作られた町、江戸幕府が出来てから作られた町、と町の作られた時(中世、桃山、江戸)によって「町割り規模」が違うのでした。それが私の50年前の卒論でした。

●蒲生氏郷 1588年 松坂城の石垣

蒲生氏郷(1556~95年)は、信長に12歳から可愛がられ、妻は信長の娘でした。1582年本能寺で信長が殺されると、26歳の氏郷は、信長の女子供を引き取りに安土城に行き、近江日野にかくまいました。1585年、氏郷は秀吉によって近江日野から伊勢松ヶ島に移封されます。紀州征伐・四国征伐(1585年)・九州征伐(1587年)と秀吉に従うも、秀吉による、大坂城(1583年~)、近江八幡城(1585年~)、大和郡山城(1585~)の築城を横目で見つつ、松坂城とその城下町を、織田信長の安土城を範として、独自に3年がかりで作っていたのでした。1588年に町民共々移ります。

松坂城 本丸の石垣 
1588年完成の野面積みなのだが、角石はハガネで成形されいており、算木積ではないが、すでにその雰囲気はある。石垣の頂部は急激に垂直に反り返している。
信長の安土城から9年を経ている。
安土城の石垣技術者であった穴太衆は、近江国日野の国人であり、安土城建設に関わった蒲生氏により、当然、松阪城にもよばれている。9年前の安土城天守台の石垣上部は今は崩れ去って残されていないが、松阪城本丸の石垣のように、石垣の頂部は急激に垂直に反り返していたと考えても良いのではないか。
松坂城の城郭 石積み
平山城として、小山を崩し、石垣で郭(曲輪)を構成する松坂城の姿が、氏郷が建設工事をまじかに見ていた安土城と似るのは当然の帰結です。

●穴倉階(地下階)について

名古屋城天守 木造復元図
穴倉階(地下階)を安土城は作ったが、熊本城まで古い城では穴倉階をやめており、姫路城から復活している。

一般の天守台の石垣の頂部は、穴倉周囲に高さ・幅13尺ぐらいの石垣を積み、天守の附属屋を載せています。重い母屋は、穴倉底の地山にのせて、付属屋を吊り上げているようなイメージでもあります。その石垣の独立壁ですが、穴太の後藤家文書を管見したところ記述がありません。

石垣で郭を作れば、隅櫓に、出入り口には多門櫓と、盛り上げた石垣の上に建物を作ることもありますが、天守のような重いものは載せないのが、秘伝書に書かなくても当然なのでしょう。

石垣は横に動く土を重さでとめますので、地山より高く積めば、その分重く土留めの効果があります。
しかし、それより穴倉階を作ったのは、天守を鉄砲、火矢から守るために勾配の急な石垣で天守台を作り、木造天守を載せるのですが、天守への入口に石垣の間に穴が必要だったからでしょう。穴倉階を作らず石垣を潜って木造天守に登った犬山城と、裏側は石垣を積まず地下階に入れる姫路城をみくらべると、わかりやすいです。

松本城は、地山のない川の交錯する沼の上に作ったので、木製の杭を使って天守台を保持しています。選地が悪すぎます。岡山城、丹波笹山城のように川がぶつかる山の上に築城するが普通です。しかし、膳所城、高松城、桑名城のように水際に石垣を組んで船泊を作る城もありますので、このような技術が考案されました。もちろん、壊れやすいです。松本城は地震がなく幸運でした。

どのように積めばよいかを探して真田純子著「誰でもできる石積み入門」に行きつきました。フリーススタンディング(独立壁)ダブルファサード(表裏壁)と、外国の事例が出ていますが、いずれも建築とはなりません。ローマ時代の建物は、レンガの型枠にコンクリートを流し込んだ厚さ2m以上の壁の表面に大理石を貼ったものであり、石造ではありません。

フリーススタンディング(独立壁)

第二章 岐阜城 岐阜市の取り組み

城主館でやめておけばよいのに「織田信長公居館跡」とあります。私も、このひな壇造成の上に館を作って信長が住んだとは思っています。しかし、谷川があり庭の正面に滝として流したというのは、チャートでできた単独峰金華山にありえません。保水性がない山ですので雨がふればすぐに流れ落ちてしまいます。

「跡」はそうだと思いますが、この館の絵はだれがどうやって妄想をしたのか?「フロイスの日本記」のよると看板にありますが、この文でもって4層の建物があるとどうして思えるのか。2階建てがひな壇にあり、下の段から上ると4層目になるということでしかありえません。
一階、二階に庭があり、三階には茶室がついた廊下がある事から、一階、二階、三階のいずれも地盤の上に直に建つ部分を持つ、となり、三階、四階だけが二層であったと読み取るのが正解です。

一応、フロイスの書いたものの抜き書きをしておきます。これでは子供を騙す教育委員会です。

「第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴らしい材木でできた劇場ふうの建物があり、二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます」
「内の部屋、廊下、前廊、厠の数が多いばかりでなく、はなはだ巧妙に造られ、もはや何もなく終わりであると思われるところに、素晴らしく美しい部屋があり、その後に第二の、また多数の他の注目すべき部屋が見出されます。私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、(中略)これらの部屋の周囲には、きわめて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、(中略)この前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてははなはだ稀有なものであります。(中略)下の山麓に溜池があって、そこから水が部屋に分流しています」
「二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます」
「三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前郎からは全市を展望することができます」

フロイス「日本記」

●2016年2月20日FB記 岐阜市教育委員会への私のお手紙「史実を偽るな。」

岐阜市教育委員会に私はお手紙を出しましたが、効果がなかったようです。今朝 2月20日の日経新聞朝刊 「信長の館 2月27日発表会」についてです。またぞろ、出てきました怪しい学者。滋賀県立大学 中井均教授(日本城郭史)の「信長は濃姫の為に計画を変えて御殿」との発言を、日経新聞は岐阜市長の為にそのまま載せて観光のネタ協力です。

1576年に信長が安土城に移ってから、24年間で城主は4人替っている。造成時期が異なる石垣を信長が施工したというなら、その石垣の時代認定ができるというのか。金華山はチャートの山であり、石垣の石種には向かないが、どこ産の石なのか。

岐阜出生の私としては、岐阜市を恥ずかしめるこのインチキ記事に、憤慨しています。この下に、写真jpeg にして昨年の10月のFB「岐阜市教育委員会へ抗議」を再録しておきます。

私は以前に岩波書店あてに手紙を出し、奈良大学学長千田氏(城郭考古学)を、糾弾しましたが、この中井氏も「日本城郭史」とありますが考古学なのです。城郭史というなら「歴史地理学」でしょう。学者が偽の縄文遺跡をイッパイ作ってしまって、考古学全体で反省をしたはずですが、、、ダメですね。

信長の時代になると文献が優先し、考古学では「濃姫の為に信長が」なんて細かな時刻の設定はできません。「騎馬民族がやって来た。」のように、考古学は妄想が許される学問です。小説の世界を学者が話すのが考古学ですが、文字資料がある歴史層での妄想はいけません。

1576年に信長が安土城に移ってから、24年間で城主は4人替っている。信長以後の館であろう。

●新聞記事へ、記者の間違いの指摘をしておきます。

①発掘現場は、岐阜城の跡であるが、信長の館であるとの証拠は発掘現場から出ていない。文献からは、「1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦で、池田輝政・福島正則が織田秀信の岐阜城を燃やし、家康は廃城し加納城に拠点を移した。」ので、発掘現場は秀信の館であると判断するのが第一である。
その前にも、1576年に信長が安土城に移ってから、24年間で城主は4人替っている。信長も斉藤道三の庭と館を燃やして、その地を利用し「岐阜城」を作った。この館跡では、敷地造成が繰り返され、館も何回も建てなおされたことは、文献的にわかっていた。それが、発掘によって実証されたが、「信長が濃姫の為に」とまでは、断じてわからない。中井氏の妄想である。

②滋賀県立大学 中井均教授(日本城郭史? 私はこの学問を知りません。私は建築史を学びました。)は、一応学者のようです。しかし、学者だから正しい事を言っているとは思っていけません。節度のある学者はマスコミに出て、簡単に断言をしません。その分、記者は勉強をしないといけません。
特に、妄想する学問である考古学の人は怪しいので、城に関しては土木と建築を分けて記事をとりに行く姿勢が必要です。

③瓦は間違いであり、瓦と同じ材料で焼いたものに金箔を施して棟飾りとしたもの。金の鯱鉾と同系のものである。
瓦ぶきは棟の端に鯱を置き、御殿(殿様の住い)は屋根を杮葺き(名古屋城本丸御殿と同じ)とし、棟側面に飾りとしてこれを貼りつけた。

④ポルトガルの宣教師の文では、岐阜城では「内部に金」安土城では「内外に金」と、はっきり書きわけている。よって、棟飾りのこの「金の瓦」は、信長の時代でなく、秀吉が棟飾りとして聚楽第で初めて用いたのちに、信長の孫、秀信(幼名三法師)が、秀吉を真似て岐阜に作ったのではないか。と推論するのが正しい。

⑤濃姫は、信長公記でも、1549年?に斉藤道三から送られてきただけの記述しかなく、1567年に、岐阜城のどこに入ったのか、いや、死んでしまってもういなかったのか、女子を産んだのか、文献上全くわからないお姫様である。男子は生んでいない。生んでいたら名が歴史に残っている。
よって、好き勝手の想像が出来て楽しく、小説家には都合が良いが、学者たるもの文献証拠の無い濃姫への発言はできません。

第三段 安土城天主の石垣 

第一章 内藤先生の復元案から、北垣聡一郎「石垣普請」へ。

現在は、講談社学術文庫2006年の「復元 安土城」によって、内藤昌先生の安土城の復元的研究が読めます。(電子書籍で販売していますので、A4版にされると図版が読めます。)

しかし、その元は古く、50年前の1976年朝日新聞社の「国華:安土城の研究」です。それには、150分の1の図面がついていまして、その図面の石垣は実は私が書きました。100分の1の美濃紙に鉛筆で私が書いたのを、地図屋さんがインキングし、150分の1に縮小したものが出版されたのです。

もとより、私に城の研究をする気はなく、1975年2月に卒業設計を製図室に寝袋をもちこんでおこなっていたら、内藤先生から呼び出しです。「キミ~、間に合わないだ。石垣をこの写真を見て書いてくれないか。あと、16枚すべてに通り芯と縮尺を入れてほしい。」
忙しいからと言って、私に断る選択はありません。4日間でやっつけました。それが、今の「安土城の復元」に結びつくのですから、人生先々どうなるのか分かりません。

私は写真を見て石垣を書いていくのですが、その上部3分の1~2分の1は、崩れてありません。先生は「キミが想像して書けばよい。それで、石垣の中央は空白にしておいてくれ。論文は石垣の復元ではないのだから、そうしよう。(先生は後年気が変わって、私の4年後輩小山氏に埋めさせています。)木造天守が石垣と接するところは石が扁平になるから、名古屋城天守をみて書いてくれ。」でした。 

現地に、内藤昌の論文を解釈して絵にしてあります。
伝・二の丸西面  人は身長155センチです。
登城の正面にあたるので、巨石が使わています。頂部が崩れたままであり、ここには粟田氏の手は入ってないでしょう。現状の安土山の石垣の中で、最大の見せ場です。天守台の高さはこの高さの1.5倍。9mありました。南面は特に高く13mです。名古屋城天守台石垣高さは本丸御殿地盤から12、5mですので、名古屋城なみでした。
しのぎ積み(しのぎづみ)石垣の隅角が直角ではなく、直角より大きい鈍角のものを使っています。天守台の八角形は安定を図るためでした。
名古屋城天守 城戸久先生の実測図

名古屋城天守は土屋純一名古屋高等工業学校教授の下で、城戸助教授が戦前に実測し、空襲で焼失したので改めて作図しています。城戸先生は同時に昭和17年に安土城跡の実測もしています。
建築史の世界では、石垣は普請(土木)であって作事(建築)でなく、その形に至った設計の法則が分らないので、このように省略されるものだったのでしょう。
まったく、ノーテンキな内藤研究室の私ですが、 この石垣の天端を高さ13、5尺に考定するところは、先生の論文で、最も苦労したところということは知っていました。なぜなら、1975年3月に再々度の石垣の実測に私も同行したからです。出版の前年の測量でした。

1975年昭和50年3月、念押しの測量でした。ふざけいているのが私です。

人間国宝・粟田万喜三さんがご子息の純司さんとたった二人で台所丸上の石垣を滑車を建てて組みなおしていました。どこをどう組みなおしたのかわからないすばらしいでき映えに滋賀県埋蔵文化財センターは困っていますが、栗田さんの言われた野面積み(穴太積み、坂本積み)のコツは「石の声を聞け。」でした。
黒金門の石組は美しく、格好の写真スポットですが、これは粟田さん親子が積みなおしたものです。

2025年2月21日の日経新聞によると、お孫さんの粟田純徳さんが粟田建設社長として跡をつかれており、高校生の長男が跡を継ぐとあります。

この私の論が正しいかどうかご意見を伺いたいものです。

内藤先生は立面図におとす石の姿にはこだわりを持ちませんでしたが、石垣の積み上げ角度を何カ所も、何度も測量しました。「東西面は石垣の頂部に行くと上に垂直に向かう。扇の姿。」としないと、大工の指図の平面が石垣に乗らないとあえてしたのでした。ここが、後に論文で「安土城でそこまでの技術があったか?」と刺されたところでした。
先生は、私の同級生の楠田氏に穴太衆に伝わる秘伝書「後藤家古文書」を読ませていたのですが、そこには、具体的な石積みのヒントはありませんでした。

●そこで、1987年法政大学出版局刊の「石垣普請」北垣聡一郎著の登場です。

内藤先生は独自に石垣を1979年「城の日本史」にまとめていましたが、北垣先生の論文は、日本各地の城の石垣を網羅しており、特に隅石による石垣技術の進化の詳述はとても説得力ありました。

1979年「城の日本史」
1987年法政大学出版局刊の「石垣普請」北垣聡一郎著

これを前もって知っておれば、、、ですが、2021年の北垣先生は、内藤昌の石垣勾配の考定については「部分的にソリもあったのだろう、との内藤案は了解している。形式化していない時代(参照:松阪城石垣)だと。発行後30年以上たったので、新たな所見もあり、書き直さなないといけないと思っている。」でした。
石垣のソリに触れた、名古屋工業大学名誉教授、故・河田克博氏の論文「天守指図の信頼性」を以下に入れます。

●石垣に乗る天主の断面図と各階を重ねた図を柱の位置で結び、あれから50年を経た今の私の石垣の「反り」論です。

杭、基礎の無い古建築の大工は地盤を選んでいます。

断面図だけでみると、東西面の母屋の柱は、南端・北端の1本づつだけ(次章に礎石図で示します。)が石垣の外にあるだけで、基本的に地山の上に乗っています。

石垣の積み方をみると、南面は64度、北面は69度の勾配で登っているのですが、東西面の石垣はわずかな「反り」をもって、上端を垂直にあげています。
そうしないと、「天守指図」の一階平面が石垣の上に乗らないので、内藤先生は石垣の「反り」を推定したのでした。

さらに、私的に言い足しますと、
「地震対策として、母屋は地山の上に載せたい。石垣を地山に沿わせて積んできたが、南北断面図にあるように、うまくいかなかった。」が、驚愕の天主の造形にしました。

大きな建物でも、広く平らな敷地ならば、柱は屏風のように順に建てられます。屏風建てと言います。しかし、山頂で石垣に囲まれた敷地では、屏風建てはできません。4間×6間を心柱として一気に建て、そこに8間×10間の母屋を寄せて、石垣内部に建てこむ「架構の工夫」をしたのでした。

地山形状から、根石は、南北面の敷地幅を先に余裕を持って決め、東西を割り、八角にして地山にそれなりに合わせるとしたのですが、東西面の勾配が緩くなり、穴倉全体を北に持っていくことができず、南面に皺寄せが行き、石垣の北側は余裕が生まれ、大きな附属屋を建てる事になる一方、母屋の建て込みに必要とした敷地8間×10間は確保できず、南側石垣の上の母屋を載せざるを得なくなりました。

この私の論理の証明には、「高石垣と穴倉内側の高さ13、5尺の石垣が挟む盛り土の最低幅が、築石の裏に埋めるぐり石で決まり、その幅は7.5mだ。」と穴太衆に言ってもらうしかありません。変形八角形の中に長方形の母屋を入れるとは、内側の変形7角形のほぼ垂直に立つ石垣が崩れずにあることにかかっており、私は、石垣全体を見て、7、5mの幅が必要だと穴太衆が判断したのだと推定しました。現状の石垣の崩れを見ると、3分の1から2分の1の高さが崩れたと言うより、13、5尺に積まれた石垣が崩れたと言えます。盛り土ですので、地山と違い崩れやすいのでした。

東面61度、西面63度の東西面は、「反り」をもって、石垣内部を広げ東西8間の柱を地山の上になんとか置いたのですが、北面石垣の69度と違い、64度で積み上がった南面石垣は、穴倉底面を5尺、計画より短いものにしてしまいました。
よって、東西8間×南北10間の母屋を地山(石蔵底面)の上に置けなくなってしまったのです。
それで、5・6階のパビリオンが建物の中心に来ないのですが、母屋11間として、南北共に盛り土の上に、1間幅で母屋の柱を置いたのでした。
そして、その柱(下図の青色)は、2.3.4重の通し柱として、母屋の剛性を高めています。松江城、名古屋城へと発展する相互貫入式通し柱の先駆です。

1階(二重目)柱図   青色が通し柱です。
赤丸の石垣内側近くの柱は、名古屋城天守と同様にナナメにして建てられました。
〇断面図も平面図も、南北10間であったのに、北に一列足して11間にし、南に一間、南北11間の母屋をずらせたように見えます。
〇当初の基準階の設計は4間×6間の吹き抜けを中心にして、幅2間の居室を、間の柱を飛ばしてぐるりとまわしており母屋の南北は10間でした。それら母屋の部材は加工用意していたので、北のそろった通し柱の一列追加が目立ちます。
〇石垣の上に南北均等に母屋の端を乗せて、石垣への加重バランスを取ることにより石垣が崩れにくいと大工は思ったのでした。 しかし、火事による天主の倒壊は、燃え残った材木、壁土、瓦と重く、積み上げた石垣の多くを壊してしまいました。
〇2間幅でぐるりと回る居室1階ー3階に対し、柱を抜くことなく間に柱があるのは、東側の階段の為に梁を抜くための柱と、2間幅で西側、南側の石垣の上に建つ事になった母屋柱を助ける穴倉から立ち上がる柱です。
以上、石垣南面が64度と緩く積み上がり、母屋8間×10間が石垣内務におけず、設計変更が行われました。それが的確に読み取れる柱位置です。
安土日記にある、3階床高さは穴倉床高さから8間=52尺が、20本の通し柱による芯柱架構の長さと見事に一致する。そうなるように、各階階高を割り振ったのだが、各階階高は残された天守から導き出していると、復元論を進めているので、そう見える。
南北断面の南側 中心 東西断面の西側 
二重は穴倉階を地下階として、一階を指す。外観では石垣の上一層目となる。天守では、重、階、層を使い分けているので注意。地下階というが、石垣を積んでの石垣上端の下にあり、暗く窓なく地下のようだという事から地下階と言うが、天守台の石垣がある周囲の地盤からは上にあるので、現代の建築基準法上は避難階とならず、1階となる。
安土城天主は、「天守指図」によって、その構法がわかりました。天守という日本唯一の木造高層建築の構造は、わずか50年の間で急速に進歩します。「天守は一城の飾り」となって消えますが、安土城天主はデザインだけでなく、構造においても「天守の嚆矢」でした。

2重目(1階)の盛り土の上の附属屋(下屋)は、吹き抜けの4間×6間の芯柱架構を一気に組み合あげたあと、直ちに芯柱架構つなげられたことでしょう。
13、5尺の段差を持つ、石蔵の礎石と盛り土の上の礎石との間の水平、垂直を取らないと、上に積むことはできません。盛り土の上の水平は「土台」を回してとりました。「土台」は天守から生まれたのでした。

東西の母屋は、何とかナナメにしても石蔵の地山に置いたのでしょうが、〇印の4本、さらに2本はつらいです。平面図、立面図で見ると、西の柱列Y15が3重目(2階)で無用に飛び出て見えるのですが、構造上盛り土の上にバランスを取るために、飛び出させたのでしょう。

慶長の名古屋城でも、石垣内側の柱(赤色)は、曲げて押し込んでいます。

第二章 安土城の石垣、加藤里文(日本城郭協会理事)氏の記事から。

城びと 2020/4/10理文先生のお城がっこう 城歩き編 第24回 安土城の石垣1 の中に「三間(5,4m)以上の高石垣(北垣先生の定義)は、全体の約3%しかなく、しかも主要部周辺に集中している。ほとんどの石垣は高さ1間以下(1,8m)以下。勾配(こうばい)(角度)は、全体の約70%が70度以上の急勾配である。」と加藤氏は書いています。

20年にわたって滋賀県の埋蔵センター(安土城考古博物館)が発掘をして記録をとっているのですが、石垣の立面図、断面図の記録を私はみたことがありません。石垣の高さ、長さと写真だけであり、伝・大手道のように、石垣を積みなおさない限り、フィジカルな姿を捉えておく必要性を感じていないのだと思いました。記録があれば、加藤理文氏がそれを利用しているでしょう。

昭和49年、人間国宝・粟田万喜三さんがご子息の純司さんとたった二人で台所丸下の石垣を滑車を建てて組みなおしていました。
三脚を組み、滑車で石を5mの高さまであげていました。野面積でも、定期的な三脚の脚の組みなおしの為に石垣には水平ラインが出てきます。
滋賀県は、穴太衆の栗田氏が昭和50年までに石垣を積みなおしたその石積みの記録を持っておらず、崩れた石垣と積みなおした石垣のビフォー/アフターの対比写真もないようです。

伝・三の丸南西隅角 算木積み 加藤氏撮影。
これは奇麗すぎです。隅石の最下段の割られた大石は根石でないといけないのに、その下に小石がおかれています。焼けた石ですので、粟田氏が積みなおしていることが分かります。安土城には、まだこのような算木積はありませんでした。

加藤氏は粟田氏によって積みなおされた算木積(伝・三の丸)とは書いていません。「天主が焼け落ちた際の火力によって焼けただれ割れてはいますが、旧状を良く留めています。巨石による算木積を指向した石垣です。築石も丁寧に積まれています。本丸南虎口の正面で、この奥に信長専用の馬屋があったと考えられます。」は間違っています。

私が栗田氏の作業を見ていた主郭の北側の写真を載せます。昭和49年当時は、地面は樹木が茂り見えていませんでした。今は立ち入り禁止地区です。崩れた石垣だけを積みなおしているので、崩れていないかったところは450年前のままです。石垣の頂部が奇麗に水平にそろっている所が粟田氏が触っている所です。私は火事での崩れが大きかった、天守の南から東側にかけて、高さ1間以下の石垣は粟田氏が全て積みなおしていると思っています。しかし、テッペンの石しか触っていないのかもしれません。間違いなく450年前のままのところは、伝・二の丸と天守台の巨石を使って、頂部が凸凹しているところです。

主郭から北に降りる北出入口 先に虎口がある
北出入り口の虎口を主郭から見下ろす
台所丸 天主郭の一段下にある。正面に虎口がみえる
現地にあるパネル  郭の配置図はあるのですが、立面図、断面の測量図がないので、石垣の高さとおさまりはわかりません。

伝・二の丸、伝・三の丸と書かれていますが、枡形の黒鉄門の中に全て入っています。伝・三の丸、伝・二の丸、本丸は郭として独立していません。よって梯郭式、連郭式城郭とは言えません。

「山城」を尾根伝いに造成した小谷城と造成の形は似ていますが、信長は高石垣と門・枡形で大きな曲輪を作り、高さ40mの「安土城天主」をその山のテッペンに載せました。この姿は、秀吉・家康他の戦国大名を圧倒し、彼らに真似をさせる事になりました。「お城の始まりは安土城から」とは「お城」は「天主」からでした。
天守台を最高レベルとして、伝二の丸、御幸御殿丸、伝三の丸が本丸の中にあり、北に低く台所丸に降りてからもう一つの枡形に出て、北の出丸に降りてます。
守り重視に閉じこもる「山城」から、城下町を従える権力者の魅せる館城「平山城」に変化したのでした。さらに「平城」へと都市化が進みます。

石垣高さ14mとあっても、それが4~5m毎の3段積みの石垣であれば、一つの段は、3間(5,4m)以下となります。

主郭の南、馬場平(ばばだいら)の北側に二段にあるのが、約33間(約60m)と安土山の高石垣で一番長い石垣であり、約半分が三~四間(5.4~7.2m)の高さがあります。当初は樹木がなく山の下からよく見えたでしょう。

安土城 伝・大手から  近江八幡市作図      
この絵は、石垣の高さを誇張しています。実際はこの絵の半分の高さもないです。 主郭の南、馬場平(ばばだいら)の北側に二段にある、高さ三~四間(5.4~7.2m)長さ約33間(約60m)の石垣が主郭を誇っています。
内湖を埋めたて、資材をソリに載せて運び上げる施工の為に、直線的に設けた登山道の前に、新たに堀をほり、道に石を貼り、道の両脇に屋敷を作り、脇街道として作った「新道」に向かっての表となるように飾りました。

近くの六角氏の観音寺山城、浅井氏の小谷城の高石垣は高くても4~5mのものであり、安土城天守台(南側13m、他面9m)の高さはそれまでの倍の高さがあり、大工の願う70度では組み上げられなかったのでしょう。

私の昭和49年の登山は、幅2mほどの道でしたが、発掘では幅6mの石張りの階段が側溝をもって出現し、「大手道の発見」と大騒ぎになり、空想図が描かれました。直線部は180mあります。2001年には、国立民族博物館によって「大手道、行幸御殿」の発掘成果を中心に動画が作られました。大工の岡部又右エ門が城の案内役です。しかし、動画の石段横の伝・秀吉邸の高石垣は実情よりもっています。こんなに高くはないです。荷揚げの斜路に石を貼り、見栄えをよくしただけで、この通路に大軍を迎え撃つという城郭の守りの意味はありません。

180mはまっすぐに上りますが、
上で、90度曲がります。踊り場もなく40度の角度をねじれてあり、歩くことを拒絶する階段となっています。ソリに材木、大石を載せて、ひきづり揚げる為の斜路に、そのまま石を貼ったのでした。
伝・秀吉邸 ひな壇には大きな石を使って造成地を固めています。
伝・前田利家邸 の敷地の背の石垣  小さな築石を2段について、造成の土留めにしています。
伝・大手道の登り口ですが、門の跡はありません。石積みも低いです。ここは安土山の搦手でした。「大手道」ではありません。
一条谷 朝倉の城下町復元です。 残っていた石積に、洛中洛外図を見て、塀を作っています。塀の上に瓦はありません。 安土山の伝・大手道の正面も、このような低い石積の上に、土壁が乗り、屋根は板張りだったでしょう。漆喰の白い壁で城郭を閉じるのは、戦争の為の城として作られる慶長期の城からだと思います。

信長は、小牧山でも施工用に直線の登山路を作っています。山城を守るために道を曲げるという発想はありません。ソリに載せて材を引っ張り上げるのですから、勾配がきつくても直線路が良いのです。金毘羅さんの階段と同じです。

50年前は、伝大手道でしたが、「伝」を取ってしまいました。
小牧山にも 大手道 間違いです。
大手道の名称は江戸時代になってから、城の正門である大手門から町人地を通るメイン街道に至るまでを指しており、両側には武家屋敷が並んでいました。
二の丸、三の丸も平城からの呼称であり、安土城にはまだ、城郭の縄張りの発想はありません。ましてや小牧山は信長が美濃攻めをにらんでの砦でしかなく、清州から城下町は移っていません。

第三章 築城図屏風  名古屋市博物館蔵 縦55.8cm 横210.2cm 6曲一双

名古屋城と思い、市は富山にあった腰屏風を買ったのですが、これは家康の駿府城の天下普請に参加した加賀藩(右下の宴の幕、左上の幟)の武将が自慢話(白馬に騎乗)として作らせたものであり、大工の中井家に残された配置図とこの屏風から内藤昌は1990年(平成2年)3月に、復元図を作成しています。(駿府城学術調査研究報告書 静岡市教育委員会)

家康の駿府城Ⅱ期  内藤昌復元

絵柄として、楽しく見せる物であり、築城の姿そのものが時系列にあるわけではないですが、大石をソリで引いたり、牛にひかせたり、二人がモッコで担いだり、一人背中の籠にゴロタ石を入れたりが見えます。材木は、大勢で肩に担いでいますが、平城だからであり、平山城だとまっすぐな傾斜路を作りソリに載せて引いたのでしょう。安土城の伝・大手道は、まさにソリの為に作られたものです。

幟の家紋が加賀藩の藩士のもの
大石の上に踊る異人
宴会の幕に加賀藩の家紋「剣梅鉢」をもじった家紋がある
1トンぐらいに石場(伊豆半島)でプレカットしているので、牛車が良いのだろうに、ころを引いて引っ張っているのもある。

第四章 兵学のおさらい

後藤家文書は、子孫に伝える現実的な石垣技術書であることより、口伝で行われていた事を文字であらわし、もっともらしく陰陽を持ち出し「秘伝書」としてまとめたものであり、また、「ご先祖様は偉かったんだ。」というアピールの書でもありました。「兵学は甲州流」と後藤家文書の中にありますので、ここで「兵学」を復習しておきます。

「兵学」の流派で著名なのは、武田信玄を祖とする「甲州流」です。長篠・小牧長久手の物語化は、いずれも「甲州流」の軍学者によって行われ、合戦図屏風のシナリオとなりました。
武田の兵がそのまま徳川、井伊の下に入ったことが大きく、春日聡次郎が完成させた「甲陽軍鑑」は、徳川方として大坂夏の陣で活躍した小幡勘兵景憲(1572年生まれ)が、「甲陽軍鑑末書前集・同後集」と発展させ、広島、尾張で普及しました。
この小幡に1621年13歳で入門した北条氏長が、「兵法雄鑑」「士軍鑑」表し、「北条流」を起こし幕府に採用されます。甲州流の中世部分を取り去り、神道的思想の基にオランダの測量術、砲術を取り入れました。それに、儒教的哲学と日本的史学を加えて「兵学」としてまとめたのが山鹿素行(1622~1685)であり「山鹿流」として、赤穂、平戸、水戸、津、松江、熊本にも伝えられました。
山鹿流に中国の兵法を合わせ体系化したのが長沼澹斉(1635年生まれ)」の「長沼流」です。武田信玄と言えばそれに対抗したのが上杉謙信であり、「越後流」を起こしています。

内藤昌 著「城の日本史」

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