江戸城天守は、高く、輝いていた。
はじめに の1
2020年1月20日、NHKへ抗議「江戸城は黒かった。」の手紙を送る。
慶長の江戸城天守の新資料は見つかっていませんので推定となりますが、友人の満田高久氏が、その後1年かけて2021年3月にまとめた論考A4版60枚、資料編29枚の結論は「覇者の天守は黒かった。」です。まとめの一枚を載せます。

城の実物は残っていないですが、古文書と絵画から探って比較しています。「覇者の城、江戸城は黒かった。」です。
覇者とは、信長、秀吉、家康です。「安土城を真似した」岡山城、松本城も黒い(漆塗りの下見板貼り)ですが、関ヶ原以降、江戸城、駿府城は引き続き黒くも、家康を守る城は漆喰の白であったと、対比してまとめています。
江戸城天守は3回作られていますが、いずれも黒です。
一期:慶長12(1607)年竣工~1624年 17年間 本丸を拡大し天守は北へ。
二期:元和 9(1623)年竣工~1638年 15年間 二の丸を拡張。
三期:寛永15(1638)年竣工~1657年明暦の大火以後ナシ 都市大改造へ。
はじめに の2
私の江戸城徘徊は、またもや千田氏、三浦氏から始まりました。
正月そうそう、内藤昌研究室の先輩、水野さんから、私と河田に「千田というのはとんでもない奴だ。イラストレーターに江戸城天守の絵を書かせ、<復元した>という。ナントカせい。」でした。
日本建築史学の中で、歴史学、書誌学だけでない建築工学からの「復元的研究」が100年前から行われているのですが、建築様式、建築構造など一切知ることはなく、いやあえて知らない事を武器に、イラストレーターによる<外観復元した>の昨今の量産に腹を立ててのことでした。
千田氏は肩書を城郭考古学と自らされており、著書「信長の城」の中での安土城天主内藤昌復元案へのトンチンカンなspan批判からして、建築を全く知りません。イラストレーターが、どこからか持ってきた天守の外観図を<復元した。>と言っているだけでしょう。
建築構造がなく、使われ方を示す平面がなくて、外観だけを白か黒かと悩むという、素人が行う行為を<復元した。>などと軽々しく言ってはならないというのが水野先輩のお話ですが、2005年に、佐藤大規氏(広島大学大学院文学研究科 博士課程後期 三浦正幸研究室)が安土城天主を「復元した。」と言い、三浦氏が、雑誌、テレビにその安土城復元案を披露してから、歴史家、城郭研究家、イラストレーターなどが、「建築」と呼べない外観だけの安土城天主復元案を多く作成し、さらに、2021年に、中村泰朗氏(広島大学大学院文学研究科 博士課程後期 三浦正幸研究室)が「最新の発掘成果に基づき復元した。」と言い、三浦氏がまた雑誌、テレビに「監修した。」と、2005年案と違う天主復元案を示すに及んで、もうマスコミは「建築」としての内容に触れることは無くなってしまいました。
新発見の発掘がどのようなものか、その成果故に、復元案のどの部分がどう変わったのか、ただ雑誌を売りたい学研はそれらの解説を三浦氏、中村氏に求めません。
私は、まず二次元の平面図、断面図、立面図を作成しないことには3次元の復元案に至らないのですが、工学のないイラストの世界ですので柱が書かれてなくても「復元した。」がまかり通るのでした。
文学部の人(考古学も文学部)が工学に基づいて復元するなど元々できっこないのですが、「掘立柱」などと、耳新しい(1977年に宮上先生が言っていますが)安土城天主復元2021年案が示され、「幻の天主」とはやし立てるのが、楽しく、それでまた儲ける人もいるのでしょう。
内藤復元案は1977年に宮上先生から「復元史料の指図は江戸時代の大工が現地を見てのデッチアゲ」と批判されましたが、1994年に内藤先生、藤岡先生に、デッチアゲ論は消され、学問「復元的研究」結果の内藤復元案は不滅です。
内藤先生の弟子3人はズーム会議を行いました。
2020年はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」があり、建築考証が平井先生から三浦氏に代わり、三浦氏は「手の込んだ安土城CGを作っている。」と大河ドラマの番宣をするので、まずは「千田氏の江戸城天守は白かった、という事からしてNHKの番組制作は怪しい。」と、先手の抗議「NHKは学問をちゃんと勉強して放送下さい。」を言おう!でした。
「学者は軽々しい抗議はしないものだ。」ですので、内藤昌「復元的研究」による城復元への批判に対しての日本建築学会での反論は河田が行い、満田氏は60枚の論文「覇者の天守は黒かった。」を1年かけてまとめあげ、NHK「知恵泉」と小学館「雑誌サライ」に送る抗議文は私が2週間で作成し、送付しました。それが以下の「江戸城天守は高く、輝いていた。」「江戸城を見る。」の元ネタです。


大河ドラマの中の安土城天主は外観しかなく、しかも実質内藤案でしたので、NHKへの抗議はしていません。
城を一から勉強しなおした私は、安土城の吹き抜け架構に大工のアイデアを見出し、3人のズーム会議で「天主は大工が作った。信長でない。」と架構論を述べ、二人に揉まれ、ブログ「安土城の復元」にその架構論は結実しました。
2017年8月6日徳川美術館での「江戸始図でわかった「江戸城」の真実」(2017年5月宝島社新書刊)を記念して、千田 嘉博氏とイラストレーター富永商太氏とのトークショー「江戸城は白か黒か悩んだが白とした。」を私は聞いており、2018年6月雑誌サライ「江戸城と大奥:白い天守」も購入していました。
「いつも先達の論文のつまみ食いでテレビタレントをする、困ったものだ。」とは思っていたのですが、NHKが大河ドラマ「明智光秀」宣伝の為にやたら城ネタを流し始め、<2019年12月14日放送のNHK「ブラタモリ」姫路城と江戸城は同じ白。>2020年1月14日放送のNHKの<「知恵泉」家康・秀忠・家光 3代の白い江戸城天守>と、千田氏が2年前作成した白い江戸城天守の絵を見せまくるのには、「これは、イカン!」と思いました。
NHKも、少し調べれば元和と寛永の城は大工の図面も屏風絵もあり、「黒」とは、すぐにわかりますが、それすらしないNHKなのです。慶長の家康の天守は、一次資料はないですが、漆喰壁の白ではありません。
私ポンタックは、江戸城天守の復元運動とは一切関係していません。「復元的研究」は、再建するのが目的ではありません。
現存天守13を見ているだけではお城の歴史的評価を見誤ります。天守の嚆矢、安土城から最後の寛永の江戸城までを復元することによって、お城の全般を見ることができます。その間の技術の進化はもちろんですが、お城すなわち近世都市(城下町)それぞれの誕生を見ようというものです。
近世都市はそのまま現代都市となり、その都心には天守はなくなっていても城跡を抱えています。現代の都市構造は400年の歴史の結果ですが、とりわけ最初の都市プランニングがお城の「復元的研究」で見えてきます。これからの都市の未来を描く事に役立ちます。
私は、名古屋城天守木造化事業に、反対しています。 史実に忠実な木造天守は、大変危険な違法建築となり、建てられません。安全をはかっての再建ならば、現在のコンクリート天守を修繕する方が価値があります。空襲で燃えたのを惜しみ、戦後、市民から資金を集めて作られたものです。8000人が亡くなった空襲の記憶と共に「名古屋市復興のシンボル」として大切に残したいものです。
資料
●内藤昌の「江戸図屏風」1972年毎日新聞社刊 8万円 を確かめに鶴舞中央図書館に行った。内藤昌の復元的研究における色の選定手段を確かめるためにである。手元に、以下の内藤昌の江戸城に関する著作を持つが、諏訪春雄・内藤昌共著の「江戸図屏風」は当時学生の私は触れてもいなかった。
●1966年鹿島出版刊「江戸と江戸城」780円→2013年講談社学術文庫 再販1000円
●1976年朝日新聞社刊 国華「特集 安土城の研究」9000円
●1979年日本放送出版協会刊 NHKブックス「城の日本史」900円
●1988年世界文化社刊「城と館 復元日本大観1」18000円
●1994年講談社選書メチエ刊 国華の再販「復元 安土城」1700円→2006年講談社学術文庫 再販1200円
●1995年角川書店刊 NHKブックスの再販「ビジュアル版 城の日本史」2800円→2011年講談社学術文庫 再販1200円

第一段 三つの天守
第一章 慶長の天守。家康は縄張りは藤堂高虎、デザインは大工中井正清に依頼した。
千田氏の間違いは、1990年宮上茂高氏の「徳川家康創建江戸城天守の復原」をそのまま信じた事にあります。中井家から出た天守の絵は元和の天守でしたが「中井家は慶長時代しか関与していない。」と思い込んだ事、鉛という建築材料を調べていない事の宮上茂高氏の間違いをそのまま引き継いでいます。
家康は慶長12年に江戸城天守と同時に自分の隠居城・駿府城を中井正清に完成(1期)させ、燃やすも慶長13年には正清が直ちに完成(Ⅱ期)させています。注文主と設計者が同じですので、江戸城を知るために駿府城を見ないといけません。宮上先生も亡くなる前には、「絵は元和であった。」と気づいていますが、論文を出しなおすことはしていません。

「江戸町瓦ふきの事「慶長見聞集巻一」
「家康公興せらるゝ江城の殿守は五重鉛瓦にてふき給ふ。
富士にならひ雪の嶺にそびへ、夏も雪かと見えて面白し。
今は江戸町さかへ皆瓦ぶきとなる。萬廣大に有て美麗なること、前代未聞。あけくれ皆人見ることなればしるすに及ばず。」
と述べています。
この文章は、「江戸時代初期の町屋の屋根が草で葺かれていて、慶長6年の火事で町屋が1件残らず焼けてしまい、板葺にするようにとのお触れがあった。云々」と町屋の屋根材料のことが書かれ、最後に江戸城殿守の屋根材について述べています。
同じ慶長12年に竣工した駿府城の天守(Ⅰ期)は全て銅板瓦葺きであり、慶長13年(1608年)駿府城天守(Ⅱ期)の最上階の屋根は銅板瓦で葺かれているのですが、その下階は白蠟(鉛と錫の合金)板瓦で葺かれています。
屋根材が駿府城と同じなのは、建設時期、大工の中井が同じであり、江戸城意匠が家康の隠居城、駿府城に持ちこまれたと考えます。すると、駿府城腰壁も江戸城から当然持ち込まれていたので、慶長期江戸城天守の腰壁も築城図屏風にある駿府城腰壁の黒となります。



慶長見聞集の鉛とは、今でいう白鑞のことと考えられます。すずの融点は231℃、鉛の融点は327℃ですが、スズの多い「はんだ」ですと融点は183℃と低くくなります。しかし、鉛、すずに、アンチモン、銅を加えて合金にすると融点は830~890℃に高まります。白鑞を屋根に使うメリットとしては、融点を高くする(=燃えにくくする)ということもさながら、まともに雨風をうける屋根の耐候性を高めるためだと思います。銅板葺の屋根は100年もちません。
しかし、銅の融点は1083℃で耐火性は白鑞より高いです。腰壁の防火にはこちらの方が良いでしょう。
防火のために白い漆喰壁が天守、土蔵に使われましたが、漆喰は雨に弱いので天守の最上階などは塗りなおしを絶えずしないといけません。姫路城は今も40年毎です。
松本城天守の黒い腰壁は板張りの上に黒い漆を塗っていますが、漆は水に強くても紫外線に弱いです。毎年塗っています。熊本城天守の腰板は柿渋を煤を混ぜて塗っています。
江戸城天守は、防火と雨水対策で、銅版が張られるようになったのかもしれません。1622年と遅く作られた福山城天守は小さな鉄板を黒門のようにビス止めしていますので、銅の赤い色を嫌って漆を塗って黒くしたのかもしれません。

「江戸始図を発見した。」の千田氏の本は大ウソです。内藤先生の1979年「城の日本史」NHKブックスにすでに収蔵され、資料評価をされています。

松江のこの74枚は広島、大分のそれらと同様に軍学の教科書としてあったもので、「江戸今図」とセットにあるものです。この資料の信ぴょう性は薄いのです。
千田氏は前にもここの74枚から「真田丸を発見した。」と大河ドラマに合わせてひと騒ぎをしています。彼の発見はNHK次第なのでした。
騒がれれば、松江は潤うので良いのでしょうが、「発見」などと歴史学に対して素人が頭を傾けるようなことをしては、学者とは言えません。彼は肩書を城郭考古学として、歴史学でないからと好き放題にタレント活動をしています。私も楽しいです。しかし、信じてはいけません。

上の左半分に並べた江戸始図を慶長13年江戸図とを重ねて比べてみました。愚子見記の16間×18間でなく20間四方なので、どちらもオランダ渡りの平板測量をまだ行っていないのでしょう。
復原に仕えるデータでないのを証明するために、姫路城の連郭式の屋根伏図を色塗りをしてみました。この塗り絵から、姫路城の形は浮かびません。

でも、内藤昌も配置図から立体としてどうなるかを試みたようです。

イラストレーター中西立太が内藤昌の案を基に1988年学研『江戸城と大奥』に復元したというものですが、学研であることが怪しく、内藤先生の説がどこまでこの絵に反映されているのかわかりません。
内藤昌は、1972年に毎日新聞社刊「江戸図屏風」の中で、慶長の江戸城の外見は『慶長見聞集』より5重、内部は『毛利家四代実録考証』より地階1階を含めて7階としている。これは城戸久の論文にある駿府城天守と同様の階層としている。また『日本西教史』の9重は西洋の宣教師が望楼型の複雑な形状を把握できるか、と疑問としている。
『慶長江戸絵図』より西側二重曲輪・小天守による姫路城と良く似た連郭式の天守曲輪を構成していたとし、『当代記』の記述より天守曲輪の石垣高さ8間、天守台は20間四方で高さ10間(1間=6尺5寸)であったとしている。までで、このイラストの破風も最上階の屋根が銅板と書いていないので、内藤昌の監修の絵ではないでしょう。
私は「わからない。のはわからない。」というの正しい。と、先生に教えられました。しかし、このイラスト「白」ではなく「黒」です。「江戸図屏風」の影響が強いのでしょうか。
上「慶長の江戸城天守」の右半分は、伏見城、二条城、駿府城、名古屋城の天守の絵です。同時代の天守からスーパー大工・中井の千鳥破風で低減するボリュームを飾る手法が見えます。



第二章 元和の天守。
藤堂高虎が設計した慶長の本丸は守り優先し、狭く作られていた。秀忠は元和に大きくした。名古屋も初代・徳川義直(1601~1650)からして、本丸を捨てて二の丸に出た。
この江戸図屏風には家光があちこちにいるようです。発見由来からして、洛中洛外図を真似しての「江戸は凄いんだぞ。」を現した寛永11年(1634年)の家光上洛時の京への贈答品だったのでしょう。二の丸の拡張工事がないので、元和、秀忠の天守となります。


内藤昌先生は、中井家の図面と屏風絵から復元しています。元和なのか寛永なのかは、4層目の破風で見るしか私には違いはわかりません。寛永の天守の図面は甲良家にあります。大きさが違っていますがそれは見てもわかりません。

緑青がすでにふいている屋根です。江戸図屏風でも周りの瓦と違って緑色になっています。すぐにきれいに錆びることないので、前もって錆びさせたのかもしれません。
破風の配置は、名古屋城(4層目破風は唐と千鳥)を真似したのだと見えます。大工は中井正清の子の中井正侶です。破風の内側の黒と、金のあしらいもそうなのでしょう。違いは、壁の腰下が黒であることです。名古屋城も姫路城も壁は漆喰の白です。
庶民は見上げで見るのですから、天守は「黒」となります。板なのか、金属なのかはわかりませんが、覇者は黒がお好きのようです。
第三章 寛永の天守。
まだ痛んでないのに、家光は建て替えた。日光東照宮も盛大に建て替えている。生まれながらの王は、持てる財力をばらまいた。

妻が南を向いた。元和と90度振ったのだ。大手に妻を見せた。

大工は、中井家から甲良家に代わっていますが、元和と寛永の天守の造形の差は、4層目の破風がすべて唐破風になった以外は見つかりません。妻も平もどちらも、唐破風により四方正面として城下を睥睨するとしたのでしょう。
ブロックを積み上げるだけになった天守は、会津若松城天守に到達します。

もはや、千鳥破風も唐破風もない。6層を積んだぞ、という高さにしか権力は現れていません。
第二段
江戸城を見る。2018年4月記
私が名古屋城をちゃんと見なければと自覚したのは、2012年10月の恩師内藤昌の葬式の時でした。 私が研究室にいた一年は、安土城の復元の佳境の時であり、ピリピリした雰囲気の中で学問の世界を垣間見ました。その後は、市井の設計が楽しく、先生が新たに書かれた御本は、その都度購入をし読んではいましたが、城にそれほどの興味を持つことなく定年(2012年)を迎えたのです。
葬式では、先輩たちから「それは、お前がやれ。」なのでした。
当時、名古屋城天守の企画展示で先生の名古屋城への功績を無視した展示が行われていたので、先輩に名古屋市に抗議の手紙を書くべきだと発言したのですが、先生の跡を継いだ教授(同級生・後輩)では、名古屋市に対して抗議が重くなりすぎるので、定年を迎えた私が、ちょうど良いというのです。 先生には仲人をしていただき、さらに、私が名古屋に戻ってきてからの17年間は、新たな交流もありましたので、到底断れるものではありません。 抗議をする以上、先生の名古屋城に関しての研究を読んで理解しておかないと、改めて読みなおしたのでした。
先日は、「名古屋城天守を壊して木造で復元とする。」という名古屋城跡保存活用計画平成30年(2018年)度版220ページを読む羽目になったのですが、まったく史実に関することは、先生の今までの研究をまとめた日本名城集成・名古屋城1985年小学館刊からの抜き書きでした。
しかし「攻め来る敵への石落としなど、400年前の城を五感で感じられるので、現天守の耐震改修より、天守木造復元に優位性がある。」とは、名古屋城天守の石落としについて、先生は書いてはいません。石落としは立面デザインで位置が決まったのでした。
「黒沢映画では、姫路城と熊本城が火炎に包まれているが、全くあり得ないシーンだ。戦闘で簡単に燃える天守は、戦闘の為の施設ではない。天守の間違ったイメージを娯楽優先で作り上げてしまった。 権力のシンボルとして、近世都市の誕生と共に評価すべきものである。江戸城の天守は明暦大火(1657)のあと、無用のものとして再建されなかった事実をもっと知らせないといけない。」と、先生が言われたのを今も覚えています。
先生が城マニアと呼ぶ勢力は、ゲームソフトを新たなマーケットとして、勢いを増しています。それが河村市長の「天守は木造だ。」の人気につながるのでしょう。研究者と自称して城マニアに受ける本を出し続ける方々は、先生の亡き後、増えるばかりですが、日本建築学会日本建築史小委員会では、評価をしていません。 もはや、新たな資料が出てこない以上、城の研究は出尽くした感を私は持っています。
私の反論と言っても、所詮私には、先生の御本しか根拠はないのですが、そのおかげで私の城への学習は進み、、、、 あれ!? 私は、江戸城をじっくり見た事がないのに気づきました。 今は皇居東御苑として、本丸・二の丸は、いつでも見られるですが、そのいつでもという事で、見ていなかったのでした。
以下が「江戸城を見る。」フェイスブックのアルバムです。フェイスブックをやられている方は飛びます。「見れない」と声が出たので、この後ろに40枚の写真を入れました。https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1282368308565952&type=3
北の丸は、国立近代美術館、工芸館、科学技術館から、武道館を経て田安門をくぐり、九段下に抜けることはなんどもあったのですが、本丸・二の丸の記憶がありません。 西の丸が皇居となり、一般参賀でもないと西の丸の中には入れませんが、本丸・二の丸をこの際、名古屋城と比較して見てみました。当然、名古屋城は江戸城の3部の1もありません。

秀忠の大坂城も入れてみると、層塔式がよくわかります。

なお、名古屋市への私の抗議に対して、名古屋市からは、私に返事がきました。
I am surprised at the answer from a government official of nagoya.
https://www.facebook.com/kazuo.takahashi.545/media_set?set=a.198624823606978.50221.100003783851253&type=3
フェイスブックのアルバム40枚の写真を以下に展開します。

名古屋城と江戸城をセイムスケールで並べました。それぞれの内郭面積は、0.34㎢ と 2.24㎢です。本丸、二の丸、三の丸、西の丸、深井丸まですので、吹上御庭まで含めた江戸城は、名古屋城の7倍ですが、本丸の大きさだけでも5倍もあります。首都と地方都市との関係は、このような面積比較でも、400年前から厳然とある事がわかります。
右下の真ん中の地図が、家康の江戸の計画であり、この都市面積は実は名古屋と変わりません。
大名を参勤交代させ、江戸屋敷を上、中、下と設けるとなれば、家康の慶長の計画ではとても足りませんので、拡大させます。
現在の「外堀通り」は、新橋(御成り橋)、(赤坂見附(溜池)から市ヶ谷、飯田橋(牛込)までの昔の平川を開削した堀から神田川にそってありますが、これは「外堀」ではなく、「総構え」といって、環濠城塞都市を目指したものでした。

江戸城大手は名古屋城大手と似ています。いずれも、縄張り・藤堂高虎と大工・中井正清のコンビでした。
明暦の大火(1657)のあと、都市の大改造を行い寛文10年には、上図のようになりました。環濠城塞都市は一瞬で、渦巻き型に五街道沿いに町人地が展開しますが、日本橋・京橋・銀座が江戸の華であるのは変わりません。
江戸幕府の参勤交代(1635)が、都市面積の7割を占める武家地の拡大を生み、巨大な消費都市を出現させたのでした。

新常盤橋から、復元改修工事中の常盤橋をみています。江戸城の探訪は、この大手筋、本町通りからスタートです。
なんとも、川を大事にしない都市景観であり、江戸のお堀は道路の下になりました。
現在の常盤橋は、この江戸~明治の橋の向こうにつけられて、日本橋川と並行してありますが、現代の皆さんの大手とは、大手門から大手町、JRの高架下をくぐり、呉服橋、日本橋とつなぎ、中央通りにぶつかる6間(12m)と幅の広い道です。
この道の大手町の部分には、道三堀があり、この日本橋川と和田倉門を繋いでいました。家康が、江戸に城を移せと秀吉に言われ、最初に行ったのがこの道三堀の開削です。なによりも城づくりの物資を海から運び入れる為に必要なのでした。
名古屋城でも、まずは堀川を福島正則がつくりました。
江戸城は多くの堀・川で囲まれ、橋で街区を繋ぎますので、現代の地名から橋の名前を追うと、江戸城が浮かびます。

工事現場の囲い塀に貼ってある、常盤橋の歴史と工事内容の看板です。
名古屋城西の丸では、市長の指示で襖絵の展示・収容倉庫を2018年4月現在作っていますが、名古屋市の教育委員会は内容について何も展示していません。都に比べ文化への視点が貧しい名古屋市です。
左下に、江戸時代の枡形と共にある木橋の写真があります。浅草から奥州道に至る、江戸城の外郭の正門でしたので、守りも頑丈でしたが、明治になると枡形は邪魔となり、他の枡形同様にこわされました。
右上に、明治29年(1896)に、辰野金吾が設計した日本銀行の雄姿と共に、明治10年に石橋とした常盤橋が写っています。
道三堀が埋め立てられ、大手町が丸の内の基点となり、関東大震災後の大正15年に現在の常盤橋ができたので、早々に残った石垣と石橋の保存運動が起き、昭和3年には、名古屋城より早く国の史跡の認定を受けています。

三越の裏から、右に三井タワー、左に日本銀行をみあげています。
家康は、日本橋川に直交して軸線を定め、京都の街区を真似して、60間=120m 角の街区を作り、碁盤の目の町人地としました。道路幅も5間=10mと広いです。家康は、名古屋では100m角の碁盤の目、道路幅3間=6mとして、一回り小さくしています。駿府も碁盤の目としていますが、名古屋だけが今も碁盤の目がしっかり残り、タモリのおかげで有名になりました。家康の言葉として「町のにぎわいには狭い方が良い。」が残っていますが、江戸と地方都市との差を考慮したのでしょうか。

50年前の私の卒業研究の結果をここに入れます。クリックください。400年前忽然と日本全国にあらわれた城下町が、現代日本の都市となりました。

碁盤の目は、城下町を一気に作る時、ローマの植民地都市と同様に、自然な計画形状です。信長の安土では碁盤の目となっていませんが、秀吉の長浜城下町は長方形でした。
碁盤の目は、関西は小さく、関東は大きく、東北はバカでかくなっています。

昭和8年(1933)、財団法人渋沢青淵翁記念会が整備して、常盤橋公園ができ、日本の資本主義の父・渋沢栄一(1840~1931)の銅像が日本銀行の前に立っています。
公園は、ほとんどが工事塀の中で見えませんでした。

さすが千代田区は、皇居を内包しているので、地域振興部文化振興課が、キチンと対応しています。
名古屋の観光文化交流局ナゴヤ魅力向上室には、文化がないです。観光は文化資源があってのことだと内閣府は「文化経済戦略」の中でも書いていますが、名古屋市のこの組織は、ただ市長の言う「名古屋城天守を木造にしよまい。面白いぞ。ぎょうさん人が来る。」がままに動くだけであり、文化は微塵もありません。
本町通は常盤橋にぶつかった後、橋から大手門までは、わざとでしょう、武家地の屋敷の間をガタガタと進みます。
鉄道は、大正3年(1914)寄屋橋から呉服橋にかけて、練兵場・監獄・兵舎を撤去して丸の内側に線路を通し、東京駅を作ったのですが、この明治の地図と現代の地図を比べると良くわかります。
堀は埋め立てられ、地下を首都高八重洲線が南北に走る広い通りとなりました。

千代田区は、歩道に現代の地図の上で江戸を案内しています。お金もかかりましょうが、建物が残らない都心故に、名古屋市もマネをしたいものです。

サンケイビル。
外郭の中は、三菱地所によって、新たに街区形成され、旧状をとどめていません。

将門の首塚。
神田明神のノボリがみえます。今も神田祭の時には神田から参拝があります。神田明神が今も神田・秋葉原・大手町・丸の内・神田市場の縁から築地の103町の江戸町人地半分の氏神です。日本橋川を境としてあと半分の南西側の氏神は山王権現(日枝神社)と、秀忠の時代に決めました。
神田明神は、家康が来るより前に将門をまつる神社としてこの地にあったですが、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年(1616年)に現在地へ遷座しました。
じゃ、ホントにここだったの?問われると、三菱地所の区画整理により、良くわかりません。
名古屋城でも同じような境遇の神社があります。今の金鯱横丁のところに、牛頭天皇をまつる亀尾天王社が、家康によって城内から遷座させられ、三之丸天王社とも呼ばれ、城の総鎮守、城下町の氏神とされました。
1876年(明治9年)名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、東照宮とともに旧藩校明倫堂跡地である現在地に遷座、1899年(明治32年)に、外来の天王でなくスサノオをまつる那古野神社と改称しました。
金シャチ横丁のビアガーデンで騒ぐと、きっと牛頭天皇の祟りがありましょう。こういう案内を金シャチ横丁に掲げるのも、名古屋市の仕事なのですがしません。私は金シャチ横丁では祟りが怖くて飲みません。

外国人は必ず訪れる江戸城の大手門です。三の丸の入り口であり、二の丸、本丸とたどるのですが、現在は二の丸と三の丸の区別がつきません。
高麗門と多門櫓で枡形を作り、右折するのが原則です。名古屋城の高麗門に比べ、開口部の高さがあるのは、大名によっては騎乗もOKだったのでしょう。
以下、林家辰三郎「日本の歴史:天下一統」など、歴史書より抜粋します。
古来、地名が氏名であった。江戸とは、入り江の入り口という意か。11世紀の吾妻鏡に江戸氏を初見する。
江戸城は、扇谷上杉家の家掌・太田道灌が1457年に現在の本丸に築城し、30年の間に、中世の館城と城下を形成したが、北条が関東を押さえると、家康の武蔵入国まで一支城とされた。
秀吉は北条攻めを、天正18年(1590)2月に聚楽第で家康に同意させたとき、すでに家康の三河・遠江・駿河・甲斐・信濃150万国は織田信雄に、代わりに家康には関東八州240万国を与える国替えを秀吉は決めていたようで、3月9日に秀吉は駿府城で家康の饗応をうけるが、二人の間で国替えはここで決していたのだと思う。
家臣団を全て動かす国替えは大事。北条が7月5日に落ちる前、6月28日に論功行賞されると、直ちに江戸を城地と決め、7月12日には大久保忠行に、吉祥寺村の池から飲料水を引くように命じている。神田上水である。後楽園の中に開渠で復元されている。まずは、飲み水である。
江戸は関東を押さえる新たな城下町を作るのに、開けたところで良いという認識は秀吉も家康も持っていたが、秀吉の大阪に城下町を作ったのとは大違いで、江戸には大大土木工事がいるのだった。

[江戸建設 一期(1590~1600)家康の城普請]
道灌の城跡を本丸とし平山城とするべく、土木工事をおこなった。道三堀を堀り、平川の付け替え(現在の日本橋川)を行い、墨田川から江戸湾につなぎ建設資材の運ぶのだ。町人地は、江戸湾の前島(現在の銀座)を堀り、疎水を図りつつ、それらの残土で埋め立てをした。
荒川の千住大橋は文禄3年(1594)多摩川の六郷橋は継承5年(1600)に架けられた。これによって東海道が台地の上から芝に降りた。
家康は朝鮮には行かなかったが、秀吉より伏見城の天下普請・文禄3年(1594年)を命じられ、家康の江戸づくりは止まる。家康は伏見城から九州の名護屋城(1592年完成)まで、秀吉の命により駆けずり回り、財力を費やし、江戸に戻っての町づくりはできなかった。家康の軸足は、秀吉の死(慶長3年1598)以降も、権力を確実なものとするために上方にあった。
[江戸建設 二期(1600~1607)慶長の天下普請]
関ケ原の戦い慶長5年(1600年)の後に、関八州の江戸から日本の首府としての江戸づくりが、徳川秀忠の名の元に再開する。慶長8年(1603)に天下普請を命令。神田川を開削し、日比谷湾を埋め、伏見城完成の後石材を江戸に運ばせ石垣を作らせる。藤堂高虎の縄張り。慶長12年(1607)中井正清によって駿府城・名古屋城と同じ環立式天守完成。
家康は慶長7年(1602年)に関ケ原の戦いで燃やされた伏見城4期を徳川の上方の城として作らなくてはいけなかった。慶長11年(1606)完成。二条城天守も、慶長11年(1606年)完成し、秀忠は二条城で天皇より将軍に。
駿府に新たな隠居城を慶長12年(1607年)完成直後の12月22日失火により焼失。慶長16年(1611年)本丸御殿ともども再建する。
名古屋城天守は慶長15年(1610)に石垣工事を始めて天守は2年で完成させ、慶長19年(1614)大阪冬の陣の前に名古屋城完成はギリギリ間に合う。家康はこれらの築城をおもに西国大名への天下普請とし、西国大名の財力を削った。
江戸城は、慶長16年(1611年)西ノ丸石垣工事を東国大名に課役。慶長19年(1614年)石壁の修築。
[江戸建設 三期(1616家康没~1632秀忠没)元和の天下普請]
元和2年、また神田川の開削開始、これによって平川の流路が変えられ、隅田川とつながり、城下北東部の構えができた。元和4年(1618年)に紅葉山東照宮を造営。元和6年(1620年)東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築。
元和8年(1622年)には本丸北側の内堀を埋め、北出丸と本丸とを一体とする本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成。
寛永元年(1624年)秀忠隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
寛永5年(1628年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事。寛永12年(1635年)二ノ丸拡張工事。
[江戸建設 四期(1632秀忠没~1651家光没~1657明暦の大火)寛永の天下普請]
寛永13年(1636年)石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。
寛永14年(1637年)天守台・御殿を修築し、翌年(1638年)に寛永度天守が完成する。
万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事
城の土木工事は、ここで完成しており、以後明治まで変わっていません。
明暦の大火(1657)のあと、都市の大改造、寺と大名をを外にだすことを行い、寛文10年には、図のようになりました。

環濠城塞都市は一瞬で、渦巻き型に五街道沿いに町人地が展開します。江戸城を囲む堀が寛永の天下普請で渦巻き型に作られたことが都市の構造を決めました。
日本橋・京橋・銀座が江戸の華であるのは変わりません。
江戸幕府の参勤交代(1635)が、都市面積の7割を占める武家地の拡大を生み、巨大な消費都市を出現させたのでした。

中に入って、多門櫓の下から高麗門をみると、「あれ?塀の支えが三角なんて見たことないぞ。」で、調べたら、「空襲により焼失した。1967年(昭和42年)に復元された。」のでした。
ここの石垣は、切り石積みで、天守台のようです。

大手、二の丸三の門にある 同心番屋です。
門の枡形に中に今はありますが、門の外は堀があり下馬橋があり、その橋のたもと、三の丸にありました。

同心レベルの見張り小屋に、本瓦葺きかよ!しつらえは簡素ですが、重さを感じさせるのは、徳川の威厳なのでしょう。

二の丸を背に、南に向かいます。この切り石の大きさが権力の証です。左手に百人番屋が見えます。

番屋と、大手町の超高層群です。皇居の周りの高さ「100m制限」の時は、ビルは見えなかったのですが、三菱地所が200mにせよと運動をしたのは35年前です。早かったです。あっという間に200mでそろいました。
名古屋城の二の丸を往時の姿に復元と「名古屋城跡保存活用計画」にありましたが、二の丸の「向こう屋敷」とは、こんな感じでしょう。
二の丸にある愛知県体育館を壊して、江戸時代の馬場に弓場を復元するのでしょうか。一体、お城の何を市民に知らせるのが目的なのか、名古屋市のやる事は見えません。天守のインテリアを復元しても面白くないように、こんな景観を復元する金があれば、別に使った方が良いです。
天皇御物は、文化財のあっても文化財の指定をしないのでされていません。この百人番屋は文化財相当のものですので、大切に残すべきものです。

このように、水平線がそろう布積みは、もう欧州の城とかわりません。一個の石も大きいです。
右が中ノ門。また、枡形です。

大番所は中の門の枡形の中にあります。現地には江戸期の中の門の多門櫓を写した写真がありました。
同心より身分が高いのでしょう。見張りの番屋としてさらに建築の格が上がりました。

中雀門の火事で焼けた石垣を手前に、傾斜を登る中雀門の枡形を見返します。
石垣の石は、黒い安山岩であり、伊豆半島から持ってきていました。

本丸に入ります。ドーンと開けて、500m向こうに天守台の石垣が見えます。

大番所の建物群とその前に中の門の長い空間。
左折れつつ坂を上って中雀門です。
ここで、枡形は終わり、もう、本丸御殿です。
手前に二の丸に降りるスロープがみえます。今に残る汐見坂です。画面右の橋は、北桔橋(きたはねはし)で、その枡形は北桔橋門です。
本丸と二の丸は、一体化しています。武家の格式を重んじた表向きでは、将軍も生活できず、二の丸に生活の場を移したのでした。
寛永17年の甲良家伝・大熊家資料の平面図からの復元です。本丸内部の居住空間を広げたいので、元和8年に、もう天守はじゃまだと、本丸の北端に押しています。

慶長の江戸城は絵が残っていなく、愚子見記(天和三年(一六八三)平政隆・法隆寺所属の工匠、中井役所に所属)、慶長13年の江戸絵図と、駿府城、名古屋城から推定するしかなく、天守の復元図は作れないのですが、なぜだか考古学のかたは平気でイラストレータに書かせてしまうのです。
奈良大学の千田教授は「松江にあった慶長の江戸城」と感激した顔を先日もNHKでみせ、「発見だ!」と本まで出しました。
内藤昌は昭和45年に「江戸始図」をみて、雑誌室内に書き、1995年のビジュアル版「城の日本史」角川書店では、1ページを割いて写真を載せていますが、この資料への評価は一切していません。
内藤昌は、江戸図屏風が出てきたので、昭和47年に毎日新聞社から「江戸図屏風」を出し、江戸城を4期に分けて解説をしていますが、慶長期の城は慶長13年の絵図だけで推定しています。
元和8年に、内堀を埋めて北の出丸をつなぎ、本丸を大きくし、天守を動かしたことが、慶長の縄張をわからなくしています。発掘でもしないと分からないのです。
元和の天下普請の図面は大工の中井家に残っていたので、江戸図屏風は其れと比較して元和の姿だと先生は推定してます。
寛永9年江戸図(武州豊嶋郷江戸庄図)、出光美術館蔵江戸名所絵図屏風、旧林家蔵江戸図屏風にも元和の天守が書かれていると先生は書いていますが、元和と寛永の天守は配置も大きさもほとんど変わらず、分かりにくいです。
色でしか差はわかりません。元和は総塗り込めの腰が黒漆。寛永は屋根が銅瓦葺きで、総塗り込めの腰、破風にも銅版を貼りまわす。名古屋城天守は宝暦の改修でこれを真似をしたのでしょう。
元和の天守の4層屋根の唐破風出窓が平だけであったのが、寛永では、遠望されたときに八方正面とするために、四方ともなっているともあります。
軍学が江戸の後期ともなると流行り、山形大弐の「主図合結記」のような近世城郭の縄張り図を集大成したものが作られます。
松江では、74枚ですが、広島、大分にも都市図、城郭図がまとまってあることが知られていますが、城が作られれてから150年を経ていて、正保の絵図のような信ぴょう性がないので、これがそのままだったとは断定できないし、「江戸始図」というタイトルからして、「江戸の始めはこうだった。」という事なのです。もとより、火のないところに煙は立たないので、なんらかの伝承があっての写しだとも考えられます。
内藤先生の慎重なのは、大工の絵(設計図)ではないということが大きいのだと思います。安土城の復元は、金沢の大工の池上家に伝わった「天守指図」から行ったものですが、その指図は江戸中期の写しの写しであるのは間違いがなく、現地に残る石垣の実測と、今にのこる「信長公記」を書誌学的に分類し、復元がなったものでした。
「江戸始図」は、全体イメージとしては慶長13年江戸図と同じですが、掘の形状は元和8年の後の姿をなぞって、二の丸、三の丸の石垣を書き入れたように見えます。
大手の枡形が妙に細かくキッチリ書かれているのも気持ちが悪いです。正保の絵図以降のデータを使ったのではないでしょうか。
二の丸と3の丸の間の堀は、寛永以後のように慶長でも消えていたのでしょうか。江戸図屏風でもそれはわかりません。
関ケ原のすぐあとですので、天下普請といえども慶長の江戸城は、城下町と同じく名古屋城程度の規模だと私は思っています。
74枚をまとめて、書誌学的に明示してからでないと書けないと先生は思ったのでしょうか。史実をつかむ手段がなく、手がだせなかったのでしょう。「伝承」とでしか、表現できないものです。

3層の富士見櫓。地方の城では、天守の規模です。

富士山は良く見えたのでしょう。
江戸の町には富士見坂が多くあります。
今の遺構の中に本丸御殿が、表向・中奥・大奥が描かれているので、現地に立って想像しやすいですが、バーチャルなら、ゴーグルをかけて目前に表すこともできましょう。建物を原寸模型で作るより、史跡を大事に、金もかからず、良い事だと思います。

手入れが良いですねぇ。グローバルスタンダードの大芝生です。
ロンドンでは、芝生がない公園がなかったですし、その芝生には必ず人が入って座り込んでいましたので、日本の芝生は、ゴルフ場以外は「入ってはダメ。」なのに腹を立てていましたが、さすが皇居です。公園と言えどもさすが宮内庁管理です。
江戸時代に、ここにギッシリと屋敷があったとは思えません。江戸城が木造復元なぞしなく、史跡公園として整備している姿を、ハッキリ見ました。名古屋市は二の丸御殿も復元を検討するのだと言いますが、1000億円もかかる大事業をして、市民の為になるのでしょうか。江戸城を見習うべきです。

本丸の西の土塁を登って、富士見多門です。富士見櫓と違い、中に入れます。

解体修理とは、手間は新築と同じです。いや、記録が要るので、もっと手間がかかります。

木床の上にまた床。(笑) 建具が入っていたようです。

大奥の西の土塁にですので、火事が多かったところから、大切なものの倉庫ですかね。

ありゃ、低いなぁ~。手前の壇は小天守でしょうか。

ここだけは、御影石です。どうも、切り込みハギの布積みは、石垣らしくないです。
明暦の大火の後で積みなおしたとありました。寛永の絵を見ると、もう都市のシンボルで高さだけが重要だとわかります。
天守一階 の平面は、東西17間5尺(35.0m)南北19間6尺(39.2m)最上階は6間3尺(12.7m)と8間4尺(17.0m)高さは148尺(44.7m)
名古屋城天守に比べ、つんぼり高く、安定感にかけた塔のようで美しくないと私は思っています。会津城や広島城と同じく、「層塔型」と言っています。犬山城のように大屋根の上に楼閣を載せたのを「望楼型」というのですが、名古屋城は「前期層塔型」と江戸城のチョイ前だよと区別しています。

穴倉とか石倉というのが石垣の内側にありますが、それはこのようにかさ上げされています。

北桔橋門の高麗門が見えます。
外から見る石は白い花崗岩ですが、内側は伊豆の安山岩で黒いです。加賀の4代目が積みました。
こちらは、内堀と外堀が近く防御に弱いので、侍屋敷で補っていました。

本丸から二の丸に降りる汐見坂です。
本丸は、標高29mあります。

10mは一気に降ります。
確かに、ここからは隅田川も江戸湾も見えた事でしょう。

白鳥壕。
こちらは、打ち込みハギで石垣らしく慶長からあったような感じです。

切り込みハギです。寛永図ですと、この上に神社があったようで、こちらの石垣は元和でしょうか。

大手からだと、ダラダラ登るので、本丸と二の丸がこれだけの高低差あるとは気づきませんでした。

江戸図屏風の城の部分です。
吹上御庭は、武家屋敷でいっぱいです。明暦の大火後にこれらを立ち退かして、火除け地としたのでした。現在の武蔵野の森は、かっては空き地だったのです。
紅葉山には東照宮があります。
三の丸と二の丸の間の堀は、ハッキリとありました。今はそれらの境はわかりません。

東照宮をこちらに持ってきたのは、寛永なのでしょう。

明暦の焼けた瓦が埋め立てに使われたと書いてありました。

石垣のまだら模様は、あえて残すのだそうです。焼けた石はもたないので平成17年に取り換えています。名古屋城も空襲で燃えているので、このようにするのが良いでしょう。

二の丸の庭園に、雑木林。昭和天皇のご意思ですと。
名城公園にもあったのですが、クヌギ・コナラの落ち葉の始末にこまり、随分と切られました。里山の維持は、燃料に人が入らないし、落ち葉を燃やすことも都心ではできないので、維持が難しいです。

二の丸庭園です。
もちろん、完璧なニセモノ復元ですので、どこまで庭園として維持管理をするのかで印象は違いましょう。手すりが無粋ですね。

浜のデザインをしていますが、池が小さいので、回遊式とは感じません。

滝は日本庭園の定番です。ムリクリですが。

嬉しいではないですか。千代田区は路上喫煙が完璧に禁止なのです。私は東京駅前ではとバスを待っていて吸ったら、2000円の罰金でした。

花は、今が盛りでした。これしか花はないようです。

諏訪の茶屋。
数寄屋ですが、明治以降の建物でしょう。

先ほどのパッチワークの石垣です。
梅林坂 との名前ですが、梅はどこ?





現在、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存しています。
また、関東大震災で倒壊後、最初は内部はコンクリート造り、後に木造で外観復元された富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、倒壊しなかった同心番所、百人番所、大番所なども、宮内庁管理のため重要文化財などには指定されていないですが現存しています。
徳川園の黒門も明治35年ですが、誰も明治のものとは思いません。ここが市長の言う「本物の木造とする。」なのでしょうが、名古屋城天守は、45mの高さ、6階建て、人を入れて稼ごうというのですから、木造は危険であり、現法規下では作れません。


鉄の錆びは早いので、塗った方が良いのですが。

こういうのをみると、名古屋城の正門はあまりにもコンクリコンクリしていて、石垣もなおざりで嫌になります。

帯曲輪の入り口は、こちらにあったのでした。内堀と外堀が近いので、こんな防衛線を張ったのでしょう。

ホント、門の背が高いです。
名古屋城の正門は、明治に天皇の離宮となってから、江戸城の本丸⇔西の丸の蓮池門を移したのですが、その理由「門の背を高くしたかった。」もわかります。






アルバム40枚はこれで終わりです。





ここ神田下のボートハウスは、100年前からですが、こちらのボートは誰が? いいのです。この浮いた、イタリアンレストランが新たな東京名所ですから。左の土手の上を赤い中央線が走るのがまた良いです。


享保14年(1729)の名古屋城図です。1枚目の元和元年(1615)の江戸城本丸図と、本丸を比べてください。
当初は、書院を雁行させ、桂や二条城のように南側に大名庭園があったのですが、寛永11年(1634年)の三代将軍家光の上洛に合わせ、新たに上洛殿を増築したのでした。初代藩主義直(1601~1650)は、本丸御殿が手狭で元和6年(1620)には、二の丸に移っており、庭園をつぶして増築したのでした。

この6月に300億円をかけて完成する本丸御殿は、この絵のとおりです。
家光の上洛以降、本丸は全く使われず、明治天皇を迎えます。東海道線が出来ても(明治22年1889年に新橋駅 - 神戸駅間の全線が開業)、1日では東京→京都が行けず、名古屋城は天皇の離宮となった(明治 26年 1893年)のでした。襖絵が綺麗に残っていたのはいつも雨戸が閉め切られていたからです。

国宝・二条城の本丸書院は、公家が幕末に作ったのを移設したものであり、今回の上洛殿の復元は、江戸城の御殿を模し、狩野探幽を中心にしたインテリアは大変豪華であり、 江戸初期の書院造の豪華さを体感できます。
よくも150億円もの金を名古屋市民は出したものです。
一部の城マニアだけのものしてはいけないので、できるだけ座敷として市民が利用できるようにしたいものですが、名古屋市は市民の利用をさせず、見世物、観光ネタとしかとらえていないようです。
この河村市長のスタンスで「天守を木造にするぞ。面白い。オリンピックで来る外国人を名古屋に呼ぶんだ。」では、天守木造化事業は進みません。
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