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安土城考(その7)「天守指図」宮上論文の考察(上)

「安土城考(その6)」で紹介したように、『国華』987号(1976.2)と988号(1976.3)に掲載された内藤昌氏の論文「安土城の研究」に対して、宮上茂隆氏は批判論文を同じ『国華』の998号(1977.3)と同999号(1977.4)に発表した。宮上氏は内藤氏が前提としている「天守指図」が偽書であり、内藤氏の復元案は間違いであると断定している。宮上氏が「天守指図」を偽書だとする根拠は次の3つである。

  1. 「天守指図」には安土城天守遺跡と矛盾するところがあること(+宝塔と吹抜け空間)

  2. 「天守指図」には「信長公記」善本と矛盾する点があること

  3. 「天守指図」の粗本が実在した証拠がないこと

 この稿では、まず上記の1について、考察してみたい。

天守遺跡との矛盾点

1. 指図西側の柱

 宮上氏によれば「天守指図」の地階の図面を安土城天守遺跡に重ね合わせると、西側の8本の柱が石蔵内に建てられない。確かに宮上論文の図面を見ると、西側に並ぶ10本の柱のうち7本と南側の柱のうち南西角の東隣の柱1本、計8本は石蔵に収まらない。

出典:石田富男・尾崎信一郎「安土城の図面『天守指図』の信ぴょう性検証)(その1)」
日本建築学会九州大会発表資料、2025.9.11

 これについてAsitaka氏は「天守指図考察 ーいしくら」の中で「石垣がいしくらの天井まで築かれていた場合、これでは現実に柱の建たない位置に柱が書かれている事になる」が、「いしくらが半地下になっている例もあるので、安土城も半地下で作られ、八本の柱は、石垣の上に建っていた」という解決策を提示している。

 内藤復元案では、石蔵は半地下ではないが、宮上氏が建てられないとする8本の柱のうち7本は、石蔵内壁と天主台の石垣の間に建てられており、1本は石倉内壁ぎりぎりに設置されている。
 つまり、宮上氏が指摘する8本の柱は石蔵内に立てることはできないが、石垣が天主一階の床の高さより多少でも低ければ、これらの柱を石垣の上に立てることによって「天守指図」と矛盾しない設計にすることは可能である。

出典:内藤2006:193の「付図-4 安土城天主復元地階(一重)平面図の一部を加工

 したがって、これをもって「天守指図」が安土城天守遺跡と矛盾しているとは言えない。

2. 北東隅の柱と階段

 宮上氏は、同じく「天守指図」は北東隅で「礎石のない位置に二本の柱を描き、造れないところに階段を描いている」と指摘している。
 ちなみに、この北東隅の階段は「天守指図」では「きたはし」と記されている。
 しかし、内藤氏はその著書で「東側辺北隅において『きたはし(北階)』と称する一階への階段が石垣にくい込む状態は、遺跡と見事に一致している。そして階段の簓桁受けと思われる礎石までが二点(X12Y5・X12Y6)の中間に認められる点は、特記すべきであろう」(内藤2006:142)と述べ、宮上氏の指摘と逆に「天守指図」と遺跡とが一致している証拠だとしている。ちなみに、簓桁受け(ささらげたうけ)とは、階段の段板を受けささえるために設けられた側板のことである。図面を見ると、たしかに階段の左下に階段のための礎石が認められる。

出典:宮上論文の第一図の一部(柱、階段、礎石に引き出し線と注釈を加筆)

 また、Asitaka氏も同様に「半地下になった石垣の上に2本の柱が建ち、発掘調査によって天主台の東北隅から発見されている、小さめの2つ並んだ礎石で階段の簓桁を受けるかたちで、階段の上り口は石垣のすぐ脇にあって、階段の上半分は石垣の上に、石垣と交差する形で設置されていたと考えれば、天守指図の通りに、何の問題もなく階段を納める事が出来る」と指摘している。
 つまり、これもまた「天守指図」が安土城天守遺跡と一致しない証拠にはなり得ない。それだけでなく、むしろ「天守指図」が安土城天主の設計図である証拠である。

3. 南東の石階部分

 宮上氏は「東南の石階部分にいたつては、「指図」の平面図を遺跡に重ね合わせることすら難しい」と述べている。
 この違いについてもAsitaka氏は「東南の石階部分を見ると、全く遺跡と礎石の位置が違うわけではなく、南北方向の石の距離は遺跡と合っていて、東西方向が実際より縮まって描かれて」いるだけであるとし、「基準の線がある南北方向の距離は正しく写し取ったものの、基準のない東西方向は実際より短めになってしまった」のだろうと推測している。
 宮上氏は「天守指図」の地階(一重目)は「遺跡に重ね合わせることすら難しい」と大袈裟に言うが、多少のズレはあるもののかなり一致している。特にクランク状の特異な形状はほとんど一致している。
 この部分について内藤氏は、その著書『復元安土城』の中で「天主台跡よりすると、その東南隅より西行し、御門を潜って突きあたり、ここで北折して石段を上りつめ、再度西行するというクランク状の特異な道筋は、本指図に照応している」(内藤2006:142)と遺跡と「天守指図」の一致を指摘している。
 この部分もまた「天守指図」が安土城天守遺跡と一致しない証拠にはなり得ない。

4. 礎石と叩き漆喰

 安土城天主跡には、安土城考(その4)で書いたように、7尺(2.1m)間隔のグリッドの交点に(中央の一箇所を除いて)礎石がある。

2015年12月筆者撮影

 宮上氏はこのすべての礎石の上に太い柱が立っていたはずであるのに、「天守指図」には一部にしか柱が描かれていない。内藤復元案では柱の立っていない礎石は床を支持する束石であると解釈しているが、昭和15年の発掘調査によって天正創建当初のものと思われる叩き漆喰(土に消石灰とにがりを混ぜて練り、叩き固めたもの「三和土(たたき)」とも言う)が発見されているので、床は土間床であったはずである。つまり地階(石蔵)は、すべての礎石に太い柱が林立する空間であったはずなのに「天守指図」はそうなっていない。これも「天守指図」が偽書である証拠だと宮上氏は主張する。

 これも実に不思議な指摘である。礎石の上にはすべて柱があったはずだという根拠はどこにあるのだろうか。礎石の上に束柱(木床/ウッドデッキを支えるための短い柱、「束材」ともいう)が立っていたと考える内藤復元案を否定できる証拠はどこにもない。礎石の一部は束柱を立てるための束石であったと考えて何も問題はない。
 
 ちなみに、平成の発掘調査(2000年)では天主跡の地面からは漆喰の成分が検出されていないが、これは昭和の発掘(1940年)からの60年間の間ずっと雨曝しになっていたため、石灰の成分が雨水で徐々に流出するだけでなく、水に解けない炭酸カルシウム(CaCO₃)成分も凍結融解や踏圧によって摩耗して失われてしまったと考えられる。ちなみに、表層の石灰成分が失われると、見た目は「締まった土」になってしまう。この叩き漆喰問題については別稿で考察したい。

5. 小括 その1

 宮上氏は当該論文の中で「以上に挙げた諸点は『指図』が実在した天主の指図ではない、有力な証拠と言ってよいだろう」と述べているが、「以上に挙げた諸点」はすべて否定し得るものである。したがって、これらをもって「天守指図」が偽書だということはできない。

宝塔と吹抜け空間

1. 宝塔

 次に宮上氏が指摘するのは「天主指図」の地階の中央に描かれた宝塔のようなものである。位置的にはちょうど石蔵中央の礎石がない部分に該当する。内藤復元案では宝塔が設置されており、その宝塔の下に「舎利容器の存在を想定してもよいのかもしれない」としている(内藤2006:144)。
 実際、昭和の発掘時に、この礎石のないところに穴があるのが発見されている。これは「中央ピット」と呼ばれることが多い。

 これに対して宮上氏は、これは宝塔ではなく『信長記』の「此下ニ金灯爐をかせられ候」という記述に基づいて「天守指図」の作者が置灯籠のようなものを描いたのだと解釈している(宮上1977b:16)。

 その上で、仮に宝塔が天主内に置かれていたとするならば、仏教的主題の絵が書かれていた五階をおいてはありえない、「また寶塔と舎利を結びつけるのはよいが、それを壺に入れて地中に納めたというのは問題で、舎利を奉安したとすればそれは寶塔内というのが當時としては常識であろう」と述べている(宮上1977a:12

 宮上氏は、この中央ピットは掘立柱の跡であり、ここには地階から四階まで貫く太い柱があったのだと主張している。

 まず、「天主指図」の地階を見ていただきたい。この中央にあるものが、宝塔(宮上氏の説では置灯籠)である。

「天守指図」地階の平面図

 この中央の絵を見て、置灯籠だと思う人はどれだけいるだろうか。こんな足の太い灯籠はみたことがない。
 Asitaka氏は「下半分を見れば、この図に描かれる物体は灯篭にしては足の部分が太すぎるようなので、やはり、図全体の形状を見れば、宝塔と考えるほうが自然」という意見である。

 宮上氏は、仮に宝塔であったとしても、地面に置かれているのはおかしい、宝塔を天主内に設置するなら仏教的絵画が描かれている五階の仏間以外に考えられないと述べている(宮上1977a:11-12)。これについては、石田・尾崎(2005)が「家康の日光東照宮や秀忠廟も地上に置かれた宝塔があり、その下の大甕に遺体が埋葬されている。『天守指図』は実在性のないものを描いているから信頼できないという結論にはならない」と反論している。

 また、宮上氏は、中央ピットは太い掘立柱の跡だと断定しているが、これが掘立柱の跡でないことは素人でも明らかである。その理由については、安土城考(その4)に書いたが、要点は次のとおりである。

 まず、中央ピットは、発掘によって1.3m×1.5m、深さ1.1mであることが分かっている。これは、仏教寺院の五重塔・三重塔における地下式心礎の穴、あるいは高松城の四本の掘立柱の柱穴に比べて小さすぎるし、深さも浅すぎる。おまけに中央ピットの底面は不整形で礎石もなく、柱を支える構造として極めて不自然である。

 さらに、掘立柱は長くても数十年で根元が腐食するため、奈良時代以降に仏教寺院等の建築で掘立柱が用いられた事例はほとんどない。つまり、建築技術の合理性から考えても天主の柱を掘立式にするとは考えられない。恒久的な天主を目指した信長はもちろん、宮大工であった岡部又右衛門が掘立柱を採用したとは考えられないのである。

2. 吹抜け空間

 次は、この宝塔がある四間×六間(高さ八間)の空間である。この空間は、ちょうど現代の吹抜けのように四階までつながっている。二階の北西の上には二間×二間の舞台があり、3階には吹抜けを南北に縦断する渡り廊下があるという不思議な空間である。

 宮上氏は、舎利のある宝塔の上に、人が踊る舞台があり、さらに真上を行き来できる渡り廊下がある「そんな空間構成になつているのである。そのような計畫のものが實在したとは、とても考えられないであろう」(宮上1977a:12)と述べ、これが「天守指図」が安土城天守を描いたものではないという何よりの証拠だとしている。

 しかし、この吹抜け空間については、安土城考(その5)で紹介したように、建築工学上、天主に対する要求に対する当然の帰結であると建築実務の経験が豊かな高橋氏は指摘している。つまり、狭い山頂にピラミッド状に必要な部屋を積み上げると下層中心部に光が届かない。そこで居室を外壁周囲のみに配置し、中央を空洞にしたと高橋氏は推察している。天主の建築を任された岡部又右衛門は地下一階に相当する石蔵に22本の柱を巨大な木枠のように組み上げ、全体で天主の「心柱」として機能させたのである。

 また宮上氏は、この吹抜け空間について「このような空間は日本建築史上他に例のないものである。したがって安土城天守内に事實存在したとしたら、これを見物した村井貞勝が拝見記に記さないはずはないのに、それに關する記載が全くない。」(宮上1977b:16)と述べ、吹抜け空間を記載している「天守指図」は想像の産物であるとしている。(ちなみに村井貞勝の拝見記は、太田牛一の『信長公記/信長記』中の「安土御天主之次第」の原典とされるものである)
 現在も「信長公記」などの史料に吹抜け空間に関する記載がないことを理由に、吹抜け空間の存在を否定する意見は少なくない。

 これについて、内藤氏は(村井貞勝の拝見記を原典とする)「『安土日記』は(中略)安土城天主の内部すべてを必要十分条件において記録したものではない。『天守指図』にある中央吹き抜け空間をめぐっての主要座敷部分に限られたものであるとの理解がない」と反論している。
 安土城考(その1)でも書いたが、単に村井貞勝は、吹抜けにつながる入り口がある地階や二階の舞台、三階の回縁と橋を見学していないだけであると思われる。村井貞勝の拝見記や太田牛一が残した史料には、地階(石蔵)の構造や間取りに関する記述はないし、屋根裏部屋的な四階の記述は「御絵ハなし南北に四畳半之御座敷両方在之」と極めてシンプルである。

3. 小括 その2

 以上のように「天守指図」には宮上氏が指摘するような天守遺跡との矛盾点はなく、むしろ一致しているところが圧倒的に多い(「天守指図」がどのくらい天主遺跡と一致しているかについては稿を改めて述べたい)。

 また石蔵中央に礎石がないのは、ここに宝塔(のようなもの)があったからであり、発掘で見つかった穴は舎利壺ではないかもしれないが、何か宗教的なものが埋まっていたのだと考えた方が正しいだろう。

 宮上氏が「天守指図」を偽書だとする3つの根拠のうち残る2つ(「信長公記」善本と矛盾する点があること、「天守指図」の粗本が実在した証拠がないこと)については、安土城考(その8)で考えたい。

 安土城考(その8)へ続く

安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862

参考文献(著者アイウエオ順)

  • Asitaka-Jyunnya「天守指図考察 ーいしくら」https://www1.asitaka.com/sasi/sasi1.htm

  • 石田 富男 / 尾崎 信一郎「安土城の図面『天守指図』の信ぴょう性検証(その1) -宮上茂隆氏の国華998号、999号の内藤氏論文批判に対する妥当性検証-」日本建築学会学術講演梗概集、2025、pp.115-116

  • 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』新人物文庫、株式会社KADOKAWA、2013.10

  • 小川守「安土城『天守指図』を巡って」2023.3

  • 正見 泰「池上右平に関する史料の発見と考察」日本建築学会技術報告集 第16巻 第33号、2010.6、pp.735-738

  • 高橋和生「安土城の復元」https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle

  • 内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12

  • 内藤昌「安土城の研究(上)(下)」『国華』987号、1976.2、同988号、1976.3

  • 宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)


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