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安土城考(その11)「天守指図」創作説の問題点(上)

様々な安土城天主復元案

 安土城天主については、かなり古くから様々な復元案がつくられている。滋賀県主催の「『幻の安土城』復元プロジェクト・歴史セミナー」(2023年3月25日開催)の資料「安土城復元研究の過去・現在・未来」によれば、江戸末期に郷土史家の奥村徳義が復元案をつくっている。昭和以降に限定して、この資料を元にして復元案を列挙すると以下のようになる。

(注)ここで言う「復元」は厳密な意味での復元ではないことに注意されたい。天守を本当に復元するのであれば建築可能なものでなければならない。しかし、本稿で取り上げている復元案には間取りや外観だけのものが含まれている。本来の復元案には、平面図、立面図、断面図が揃っており、建築に耐えうるものでなければならない。

a. 土屋純一(建築史家) 1930年(昭和5年)
b. 古川重春(建築家)1936年(昭和11年)
c. 渋谷五郎(小河建築設計事務所)1958年(昭和33年)
・城戸 久教授(名古屋工業大学)が顧問として参画
・実際に建築することを前提に設計されている
・鉄筋コンクリート(柱)、モルタル(壁)、ガラスサッシ(窓)
・中央にエレベーターと螺旋階段を設置
d. 内藤昌(名古屋工業大学 建築学科 教授)1974年(昭和49年)
・「天守指図」に基づく復元案
・平面図、立面図、断面図
e. 宮上茂隆(東京大学工学部建築学科 助手)1977年(昭和52年)
・「天守指図」と内藤復元案を否定
・三重県伊勢市の「ともいきの国 伊勢忍者キングダム」にある安土城模擬天守は、この宮上復元案がベースになっている
f. 兵頭与一郎(城郭研究者)1991年(平成2年)
・外観パースのみ
g. 石原守(一級建築士)2000年(平成12年)
・外観パースのみ
h. 佐藤大規(広島大学大学院文学研究科 博士課程後期)2005年(平成17年)三浦正幸研究室
i. 中村泰朗(広島大学大学院文学研究科 博士課程後期)2021年(令和3年)三浦正幸研究室

出典:滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来」(2023,3)を元に作成

 この復元案のうち、a.とb.については、天主台の調査が行われる以前のため天守台の礎石配置と合致していない。
 c. は、西武グループの堤康次郎による安土山開発計画の一部であり、天主を復元すると同時に本丸御殿跡にホテル、麓から山頂までロープウェイ、麓までの鉄道を整備する計画であった。しかし、安土城が1952年に特別史跡に指定されており、文化庁から許可が出なかったため計画は頓挫している(この計画のロープウェイは近江八幡山城に設置されることになった)。

 また、この滋賀県主催のセミナー資料には記載されていないが『戦国の城』(1995)など夥しい数の著書がある西ヶ谷恭弘氏(城郭研究者)、『城郭史研究』21号(2001)に独自案を発表した森 俊弘氏(日本史研究家)、テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクターであった横手聡氏(ネット上で復元案を発表)、高校二年生の時に「安土城天主の平面復元の試案に基づく『天守指図』の史料価値の検討」というレポートで「全国高校生歴史フォーラム」佳作を受賞した中村優希氏(早稲田大学城郭研究会の主催者でネット上で復元案を発表)など、多くの研究者が安土城天主の間取りや外観を発表している。

「アリバイ」と「動機」を考える

 さて、今回のテーマは、江戸時代に池上右平(あるいは他の誰か)が「天守指図」を創作できたかどうかである。
 「天守指図」を基にした内藤案が発表されて以降も、多くの研究者が独自の復元案を発表している背景の一つに、「天守指図」は偽書であるという考え方がある。この「天守指図」は偽書だとする研究者の多くが、宮上氏が「國華」に発表した論文(宮上1977a, 1977b)をその根拠としている。しかし、この論文については「安土城考」の(その7)(その8)(その9)で検証したように、誤りが多く信頼できない。宮上氏が「天守指図」を偽書とする論拠が、宮上氏の誤解や知識不足が招いたものであることが分かった。

 話は変わるが、フーダニット(Who done it)型のミステリーで、名探偵や警察が着目するのは「アリバイ」と「動機」である。「アリバイ」は犯行をする「機会」があったかどうかであり、「動機」は犯行を行う意思を持つ直接的な「きっかけ」や「原因」である。

 「天守指図」についても同じように「アリバイ」と「動機」について考えてみたい。つまり池上右平、あるいは誰かが「天守指図」を創作する機会があったかどうかと、「天守指図」を創作する「動機」があったかどうかである。

(注)「天守指図」は偽書だとす宮上茂隆氏は、その論文「彼自身で遺跡を實測したか、それ以前からある資料を利用したか、いずれにしてもその可能性は否定すべくもないと思う。」(宮上1977b:21)と述べている。これに対する反論はすでに「安土城考(その9)」の「6. 右平が天主台形状を知り得たかどうか」で述べたので、ぜひ参照されたい。

「天守指図」を作る機会はあったか

 まず「アリバイ」について考えてみよう。つまり「天守指図」を、安土城天主炎上後に、誰かが創作する「機会」があったかどうかである。
 前提となるのは、前回に考察したように「天守指図」と安土城の天主台遺跡とは多くの点で合致しており矛盾はほとんどないという点と、昭和の発掘まで天主台は、焼け落ちた天主の残骸に埋もれていたという事実である。

 「天守指図」と天主台遺跡とが多くの点で一致していることを考えると、作成者が天主台を実測するか、誰かが実測した図面を参照しないと「天守指図」は作れないだろう。特に、一階(二重目)の平面図が不等辺八角形であることを考えると、何の根拠もなく誰かが想像で書いたものが偶然に安土城天主台と一致するとは考えられない。
 しかし、安土城天主は天正10年(1582年)に、誰かの放火によって焼け落ちており、かつ、昭和の発掘結果によれば、昭和天主台は以下のような状況であった。

 天主台石垣の外側は、その上約三分の一許りがすべて崩壊し、その崩壊石垣石、栗石、土砂等は、天主台の下方に堆積せる為、天主台は宛(さなが)らこれら土砂の巨大な盛土のごとき状態となりて、石垣の形状等殆ど不明に近く、天主内部石蔵(地階)周囲の石垣も同じくその上方は裏込栗石や土砂諸共、石蔵内に崩壊蓄積し、且、天正焼失の際の焼土、瓦礫又は永年に亘る腐葉土が石蔵内一面に覆いかぶさつて、旧礎石は全面尺余の厚さに埋もれてゐた。また天主登口も、同じくその両側石垣の上半がすべて崩れ落ちて一層の惨状を呈し、石塊土砂等にて数尺の厚さに埋没し、登口の形式が如何なるものであるか、又登口としての遺跡が残つてゐるか何うかも疑れるばかりであり、且これら表面埋没土砂の上に小樹木叢生して、まったく手のつけ様もなき有様であつた。

出典:内藤2006:138、原典は滋賀県編『滋賀県史蹟調査報告第十一冊』昭和17年同上刊

 安土城の天主は言うまでもなく木造である。しかし天主のすべてが木で造られているわけではない。屋根には瓦があり、土壁には土や礫が使われている。こうした部材は天主が焼失した時に灰や燃え残った木材の残骸と一緒に石蔵内外に降り積もったと考えられる。

昭和の発掘時の石蔵内部(石垣基底部を確認するため筋堀りされている)
出典:滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来」2023.3

 これは昭和の発掘時に撮影された石蔵内部の写真である。石蔵内壁の石垣基底部を確認するために筋堀りされているが、「天主台は宛(さなが)らこれら土砂の巨大な盛土のごとき状態となりて、石垣の形状等殆ど不明に近く」という状況がよくわかる。

 特に、昭和の発掘報告書の中で注目していただきたいのは、天主登口に関する記述である。
「また天主登口も、同じくその両側石垣の上半がすべて崩れ落ちて一層の惨状を呈し、石塊土砂等にて数尺の厚さに埋没し、登口の形式が如何なるものであるか、又登口としての遺跡が残つてゐるか何うかも疑れるばかりであり、且これら表面埋没土砂の上に小樹木叢生して、まったく手のつけ様もなき有様であつた。」
 つまり、前回取り上げた「天守指図」と天主台遺跡の重要な一致点である登閣御門の構造は、数尺の厚さの石塊土砂等に埋もれており、その形がまったく分からない状況であったことが分かる。

 もちろん、江戸時代の天主台は、この状況よりは多少ましだった(少なくとも樹木は小さく、腐葉土の層も薄かった)と思われるが、焼失した天主の残骸や崩れた石垣はそのまま残っていたと考えられる。

 このような状況ではとても天主台を実測できるとは思えない。もし天主台や石蔵の大きさや形をある程度正確に知ろうと思えば、崩れた石垣の石を移動させ、天主の残骸を天主台から取り除く必要がある。
 つまり、江戸時代に安土城天主跡を実測した者がいたとすれば(昭和の発掘時の天主台の状況も考慮すると)、崩れた石垣の石を整理するとともに、石蔵内部を含む天主台に積もっている残骸、瓦礫等を一度取り除き、測量が終わった後で残骸や瓦礫等を元に戻すという大作業を行ったことになる

 ちなみに、天正10年(1582年)6月に天主は焼失したものの、安土城が無くなったわけではない。二の丸などの周辺部は焼け残っており、しばらくは城郭として機能していた。実際、本能寺の変、山崎の戦い、清洲会議を経て、信長の孫(信忠の子)である秀信(幼名は三法師)が安土城に入城したと伝えられている。
 また、安土城天主が焼失した翌年(1583年)、事実上信長の後継者となった秀吉は、安土城二の丸跡に信長廟を建て、摠見寺に信長の菩提を弔うように命じたと言われている。この摠見寺は安土城築城当時から存在しており、その歴代住職は織田家の一族から選ばれている。ちなみに、安土城址の公式サイト「信長の安土城址と摠見寺」によれば、信長を菩提を弔う「信長忌」は現在まで続いている。

 つまり、安土城は天主が焼失してからもしばらくは城郭として利用されており、さらに城郭としての役割を終えた後は、摠見寺が安土山を管理しているのである。信長廟が天主台の隣に位置することを考えれば、江戸時代に誰かが天主台の瓦礫を取り除くという大作業を行って、天主台の外形や石蔵の形状を測量したとは考えられない。 

宮上氏の不思議な反論

 前に述べたように宮上茂隆氏は、『国華』998号と999号に「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」という論文を発表し、「天守指図」は偽書であるので「天守指図」に基づく内藤復元案は誤っているという主張をした。
 この論文の中に、池上右平が「天守指図」を創作した可能性を否定している内藤氏の主張を批判する箇所があるのだが、この文章が理解不能な不思議な文章になっている。
 まず内藤氏の論文から該当部分を紹介する。

 しからば、この『天主指圖』は池上右平正次によって創作された可能性がないだろうか。しかし全くの荒唐無稽な天主を空想したにせよ、この様な不等邉八角形で對稱性のない造形を、單にスケッチとしてでなく極めて現實性のある理路整然とした指圖の形で描き得るものではなかろう。しかもそれが幻の安土城天主に偶然に一致する等という、いわば歴史上の奇跡を信ずるわけにはいかない。
 それにしてもなお且つ技術者として右平正次が案出する場合を考えるならば、何等かのデータに基づいているであろう。例えば、牛一・道喜の兩『信長記』が流布した寛文期以降において、その資料を参照とする事はあり得よう。加えて想像をたくましくするならば、安土城天主臺跡を實測調査し、その結果をふまえて復元圖を作製する可能性がないであろうか。
 しかし安土城跡は天正10年の燒亡後永らく放置され、慶長八年から元和八年に及ぶ彦根築城においてはその石垣が轉用、以来自然の崩壊にまかせてきている。特に頂上の天主臺跡は當初から土砂に埋歿していたようだ。それは昭和十五年發掘調査時迄、もし風雨に晒されれば日ならずして焼失している筈の當初のまゝの石藏床面叩き漆喰が傳存していたをみても明白である。(中略)要するに天主䑓跡は、昭和十五年迄土砂に埋歿し、樹木の叢生する一山と化していたのである。江戸時代において、加賀藩御大工が他國におもむき、特に許可されて發掘調査をなし、不等邉八角形の天主臺を知る可能性は、まず絶無としてよかろう。

出典:内藤1976a:72-73

 これに対して宮上氏は以下のように指摘する。

 私は『指圖』を、安土城天主臺跡に關する資料と『信長記』に基づいて右平が作成した推定復元圖と考えるが、内藤氏は、右平創作の可能性を次のように否定しておられる。
 まず、天主臺遺跡は、天主焼失後土砂に埋没していたと推定されるから、創作に必要な資料は得られなかつたはずである、といわれる。しかしその證據は薄弱である。天主臺石蔵内床面の漆喰層がもし風雨に晒されていたならば日ならずして消失していたはずである、といわれるのであるが、今日残つていないほどである、発掘調査の行われた昭和十五年當時既に當初のままで遺つていたわけではあるまい。

出典:宮上1977b:20-21

 日本語読解能力がないせいかもしれないが、最後の文章の「今日残つていないほどである」はどこにつながるのだろう。おそらく「今日残つていない」のは漆喰層(正確には叩き漆喰層)だと思われるのだが、文章としては意味不明である。
 最後の「発掘調査の行われた昭和十五年當時既に當初のままで遺つていたわけではあるまい」も、その対象は叩き漆喰のことだと思われるのだが、昭和十五年の発掘調査の報告書に、叩き漆喰が残っていたと記述されているので、「残つていたわけではあるまい」と推論するのは無理がある。

 「当初のまま」ではないにしろ、昭和15年の天主台発掘時には叩き漆喰が残っていたのは間違いのない事実であろうし、それが「今日残つていない」のは、昭和15年から今日までの間、風雨にさらされて消えてしまったからである(実際、平成の調査では石蔵内の地表からは叩き漆喰の成分は見つかっていないそうである)。
 つまり、この事実は昭和15年まで天主台石蔵内部は、風雨に晒されていなかったこと(天主の残骸に埋もれていたこと)を意味している。

 宮上氏はいったい何を言いたいのだろう。(私が論文の査読者なら、この部分を書き直すことを発表の条件にするだろう)
 

 少し長くなってしまったので、「動機」の問題については次回に考えてみたい。

(「安土城考(その12)」に続く)

安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862

参考文献 (著者あいうえお順)

  • Asitaka-Jyunnya「天守指図考察 ーいしくら」https://www1.asitaka.com/sasi/sasi1.htm

  • 滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来(「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナー資料)」2023.3、https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5391312.pdf

  • 高橋和生「安土城の復元」https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle

  • 内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12

  • 内藤昌「安土城の研究(上)(下)」『国華』987号、1976.2(1976a)、同988号、1976.3(1976b)

  • 満田高久「幻の安土城天主の復元研究の思い出」鯱光、2017.11

  • 満田高久「池上家『天守指図』の 安土城天主史料としての重要性とその天主の構成について」、2025.2

  • 宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)

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