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[vol.28] 会津藩主・保科正之の家訓 藩邸の歴史が宿る和田倉噴水公園

“東京は中心を持っている、だがその中心は空虚である”とは、フランスの哲学者ロラン・バルトの言葉です。この中心、空虚とは皇居を指します。実際、皇居は東京23区で最大級の敷地面積を持ち、航空写真で都心部を見れば、皇居の豊かな自然が巨大な空洞のようにも見えます。なお、この言葉は否定的な意味ではなく、西洋とは異なる都市構造に日本独自の美を称えたものでした。

この皇居の外苑では、二重橋、桜田門、楠木正成像等が有名なスポットですが、北端に和田倉噴水公園があり、この土地に会津の歴史が宿っています。
和田倉噴水公園は、東京駅丸の内から皇居前まで延びる行幸通り沿いにあります。大きな噴水が中心にあり、せせらぎが聞こえ、摩天楼群の中でオアシスを感じられます。昭和36年(1961)に上皇陛下の御結婚を記念して大噴水が創建、平成5年(1993)の今上天皇の御結婚を機に再度整備されました。
この和田倉噴水公園(正確には公園の南側)は、江戸時代には会津藩上屋敷でした(※1)。3代藩主・松平正容(まつだいら まさかた)の際、この上屋敷を賜りました。立地が江戸城内かつ9,150坪もの敷地と、徳川幕府の会津藩に対する信頼の厚さが窺えます。

会津藩は、幕府に忠誠を尽くし、武士の誇りを貫いたことで知られています。藩の最期が、藩主・松平容保(かたもり)の京都守護職の奉命、戊辰戦争での決死の抵抗であったように、幕府への忠義が一切揺るがない藩でした。この結末は、(会津松平家としての)初代藩主・保科正之(ほしな まさゆき)によって運命づけられていたのかもしれません。
正之は、慶長16年(1611)に生まれ、長野の高遠藩主・保科家の養子として育てられ、高遠藩主、山形藩主を経て、寛永20年(1643)に会津藩に入封して藩主を務めます。後年には、将軍の補佐役を担い、幕政を取り仕切ります。
養子の理由は、正之が2代将軍・徳川秀忠の隠し子であったためで、3代将軍・家光の腹違いの弟でした。正之の出自は側近の数名が知るのみで、当初は家光も知りませんでした。家光がその事実を知った後でも、正之は弟ではなく家臣として仕え、謙虚で有能であったことから多大な信頼を得ました。

家光は死床にあった際、見舞いに来た正之に萌黄色の直垂と烏帽子を与え、「保科家の萌黄色の着用を許す」と伝えます。萌黄色は家光が好んだ色であり、他の大名はこれを慮って着用しなかったことから、この台命は自身と正之が同格であることを認めたものでした。また、次期将軍となる自身の子供を正之に任せる旨も遺し、正之は大変感銘を受けました。
これには、最晩年の容保が皇太后から贅沢品の牛乳を贈られた逸話と重ね合わせてしまいます(※2)。

寛文8年(1668)、正之は「会津家訓十五カ条」を定めます。第1条の「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく~」は、“幕府に絶対の忠義を尽くすこと”という正之の強い信念が込められた内容でした。奇しくも、この第1条が容保を京都に向かわせ、会津藩のその後の運命に大きな影響を与えることになります。

初代と末代の藩主の逸話が交錯しましたが、会津藩の根底に脈々と流れていた精神が具現化されたようにも思えます。冒頭の“東京の中心は~”という言葉を借りれば、“会津藩は中心を持っていた、その中心は忠義であった”といえるかもしれません。あまりにも一途に映るかもしれませんが、これもまた会津武士独自の美として称えたくなりませんか。

和田倉噴水公園
和田倉門と和田倉橋

<最後に>
会津藩は、他に中屋敷が汐留駅周辺、下屋敷が三田の慶応義塾女子高等学校にありました。藩邸の跡をたどれば、歴史を学ぶだけでなく、知らず知らずのうちに、藩主や藩士の足跡に自分の足を重ねているかもしれません。

※1…上屋敷は藩主とその家族の居住、中屋敷は隠居した藩主や後継ぎの居住、下屋敷は庭園等の別邸、蔵として利用されました。
※2…別記事「悲喜交交の会津藩主 四谷荒木町に生誕した松平容保」に詳細があります。

【関連URL】
・土津神社HP

・一般財団法人国民公園協会「皇居外苑」

https://fng.or.jp/koukyo/

【参考】
・ロラン・バルト 『表徴の帝国』
・会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会「八重と会津博」

・一般社団法人 伊那市観光協会「名君 保科正之公の大河ドラマをつくる会」

【掲載元】
・福島県東京事務所HP(2025年10月掲載)