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京都(左京区)ガイド~Part1銀閣寺編~権力闘争の歴史

私、桐島は関東出身ですが、大学4年間を京都でボランティアガイドクラブの“Good Samaritan Club”(宗教系サークルではありません)に所属していました。

立命館大学、同志社大学、京都大学から構成するインカレで、3大学の部員比率は1/3ずつでした。

そんな京都との繋がりもあり、社会人になっても1年に3~4回ほどは京都に行く機会があります。

それゆえに、2025年1月に1か月京都の南禅寺や平安神宮近くの岡崎に住んでいたこともあります。

詳しくは以下です。




左京区案内

さて、この度、とある事情で、
銀閣寺⇒哲学の道⇒南禅寺⇒昼食のツアーガイドをすることになりました。

そこで、今回は、銀閣寺を解説します。

銀閣寺を知るだけでも、京都における政治•権力闘争や宗教闘争がわかります。

以下は2026年2月23日に登った大文字山からの景色ですが、こちらから見えるのが、左京区になります。

右側が北側、左側が南側になります。




京都の左京区ってどこ???

まずは、左京区ってどこでしょうか?

「天子は南面す」という言葉があるようですが、
天皇陛下は平安時代に平安京(以下の大内裏)から、南を見ながら生活をしていました。

南を見ながら生活していたので、その左手側が左京になります。
というわけで、京都では東側が左京区なのです。


この平安京の地図をいまの地図に当てはめると以下になります。
794年頃の平安京の中心はいまの「千本松通り」でした。

西側が湿地帯であったため、徐々に東側に中心が移動したようです。

そのため、「京都御苑(京都御所)」は、だいぶ東側の烏丸通(からすまどおり)にあります。

京都御所は南北朝時代(1392年)~江戸末期までの皇居です。




京都は御所が中心!!!

もう1つ京都御所について、あたりまえですが、
京都は御所が中心です。

東京も皇居が中心ですね。

京都は御所(御苑)が中心であることがわかりやすいのが、通りの名前です。
御所を突っ切る通りの名前が「一条通」です。

一条(いちじょう)から九条(くじょう)まで北から順に通りがあります。

御所中心主義が、通りの名前に表れています。




まるたけえびす(丸竹夷)

京都は通りが碁盤目状でわかりやすく、通り名を覚える歌が存在します。

まるたけえびすにおしおいけ(・竹・夷・二・押・御池
あねさんろっかくたこにしき(姉・三・六角・蛸・
しあやぶったかまつまんごじょう(・綾・仏・高・松・万・五条
せきだちゃらちゃらうおのたな(雪駄・魚棚)
ろくじょうさんてつとおりすぎ(六条・三哲)
ひっちょうこえればはちくじょう(七条・八・九条
じゅうじょうとうじでとどめさす(十条

聞いてみたい方は、どうぞ!!!




左京区の紹介

さて、左京区は京都の東側ですが、具体的にどのあたりになるでしょうか?

私は、学生時代に、銀閣寺や北白川通りくらいが左京区だと思い込んでいました。

ところが、、、


なんと!!!

広すぎると左京区!!! (*´Д`)


ビックリした際の記事は以下です。


左京区の行政区分は以下です。


1番南の南部地域を拡大したのが、以下です。

左京区南部地域の中で一番南の青部分が、私の想定していた左京区でした。




銀閣寺

観光ルートは、銀閣寺⇒哲学の道⇒南禅寺⇒昼食⇒東寺ですので、

そろそろ、左京区南部地域を代表する銀閣寺の紹介です。

銀閣寺を「慈照寺銀閣」や「8代将軍足利義政」とキーワードだけ理解しても、面白くありません。

銀閣寺は、「京都五山」のなかで理解すると、権力闘争の歴史がわかり面白いです。




京都五山

京都五山という禅宗大寺院のランクがあります。
これは、鎌倉幕府の北条氏が導入しました。

高校の日本史の教科書では、以下の表を覚えることになっています。


キングダムの六大将軍を彷彿させる制度です。




五山の制度とは?

鎌倉幕府の北条氏が導入して、その後、南北朝時代になり足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立しました。

それに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇南朝・大覚寺統)が吉野を拠点に建武の親政(1334~36年)をしました。

この南北朝時代は、1336年から、足利義満のときに南北朝が合一するまでの1392年までの60年近く続きます。

この間、後醍醐天皇が、建武の新政の一貫として「五山」を選び直して南禅寺を五山の筆頭と定めました。

南禅寺が、自分の派閥である大覚寺統であり、大覚寺統が持明院統よりも優位であると世間に知らしめるためです。

足利尊氏は、後醍醐天皇(1339年没)の菩提を弔うために、「天竜寺」を建立しました。

そのため、天竜寺を2位に入れました。




足利義満の時代

1392年の南北朝統一で権力を得た足利義満は、相国寺を建立します。

そして、相国寺を五山に入れることを目論見ました。
しかし、既に五山は決まっていたので、

①南禅寺を別格扱いにすることで枠を増やす
②五山を京都五山、鎌倉五山にわけて枠を増やす

ことをしました!!!


つまり、以下の大改革を成し遂げました。

相国寺は同志社大学の裏手(北川)にあります


義満は、後醍醐天皇を引き立てるために「南禅寺」は別格にし、後醍醐天皇を弔う「天竜寺」を1位にして、自分の相国寺を2位に据えることで、しっかりと、周りに自らの権力をPRをしました。
※なんと義満は1401年にはちゃっかり相国寺を五山の1位にしましたが、4代義持のときに2位に戻されています!




銀閣寺と相国寺の関係は?

さて前置きが長くなりましたが、
銀閣寺は、実は、相国寺の弟分的存在です。

●相国寺=3代将軍足利義満
●銀閣寺=8代将軍足利義政

なので、関係的にたしかに弟分なのです。

金閣寺と銀閣寺の関係も以下の通りの比較表がよく出てきます。


相国寺のHPには、以下の記載があります。

境内には本山相国寺をはじめ、十二の塔頭寺院があり、山外塔頭(注:さんがいたっちゅう)に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺があります。また全国に百ヵ寺の末寺を擁しています。


実は、金閣寺と銀閣寺は相国寺の下に位置します。

地図上、相国寺が真ん中です。


また、上下関係でいうと以下になります。

実際、金閣寺や銀閣寺を運営する僧侶は、任期付で相国寺から派遣されるようです。




足利義政

さて、おじいちゃんが3代将軍足利義満の8代将軍足利義政は、わずか8歳で将軍職に就きます。

しかし、政治の主導権を取れるはずがありません、、、

将軍職を息子(義尚(よしひさ))に譲ってから、邸宅や御所の造営、茶の湯、書画などの文化•芸術活動の夢中になります。

応仁の乱がおさまった直後で、京都は混乱と疲弊のなかでしたが、義政はそのなかで、銀閣寺の造営をはじめました。

当時はそもそも、銀の価格が金より高く、使用できるはずがありません。

そして、義政は、銀閣寺の観音殿の完成を見ずして亡くなってしまいます。

銀閣寺は、義政の人生そのもののような雰囲気を醸し出している気がしますね( ゚Д゚)



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