レトリックとしての「戦略的曖昧さ」―目標なき大国の混迷と歴史の鉄則
序論:不透明な戦略目標という違和感
混迷を極める中東・ホルムズ海峡の情勢において、アメリカの戦略目標の不透明さが際立っている。イラン側が「自国近傍からの米軍の完全排除と海峡の主権確立」という明確かつ一貫した地政学的目標を掲げているのとは対照的に、報道ベースで見るアメリカの行動や発言には、一貫した大戦略(Grand Strategy)の軸が見えない。関与の縮小を示唆する一方で海上封鎖的な軍事圧力を強め、あるいは突如として国際法上の大原則を無視するかのようにタンカーへの「通行料」を要求する。
この不透明さは、外交・軍事上の高等戦術としての「意図的な戦略的曖昧さ」だという人もいる。しかし、それは、本当に意図的になされているものなのだろうか。それとも、単なる場当たり的な対応の積み重ねなのだろうか。
一:「戦略的曖昧さ」というレトリックの欺瞞
軍事行動と政治的要請を高度に統合すべき大戦略や政略の観点から見れば、意思決定単位にとって、目標の明確さは絶対的な前提である。現場の実行部隊にとって、表現上の曖昧さは作戦の漂流を招き、戦力を分散させる「阻害要因」でしかない。また、抑止の観点からも、ルールを不透明にすることは相手に「ここまでなら許されるだろう」という誤認を誘発し、意図せぬエスカレーションの引き金となる。
したがって、ゲーム理論的に見ても、ゲームの構造(プレイヤーの選択肢や利得)を明確にして互いに合理的な予測可能性を持たせることこそが、システムの安定には不可欠である。
ではなぜ、「戦略的曖昧さ」という言葉が国際政治で機能しているかのように語られるのか。それは多くの場合、政策決定者が確実な方針決定を行えなかった「自己の失敗」を糊塗するための、事後的評価や言い訳が必要だからである。実態は、政権内部の対立(国際秩序維持派と孤立主義派の対立など)や、国内世論の分裂といった政治的機能不全を隠蔽するための「知的な虚飾」であり、自縄自縛となることを恐れる消極的なサバイバル術なのである。
二:歴史の反転写――大日本帝国の泥沼と防衛側の明瞭さ
この「内部の分裂による方針決定の不在」を「戦略的曖昧さ」と言い換えて泥沼に陥った典型例が、日中戦争期における大日本帝国である。
当時の日本は、満州国の防衛なのか中国本土の占領なのかという最終目標が曖昧なまま、陸軍の「北進論」と海軍の「南進論」の対立を抱え、対米交渉においても真の戦略目標を欠いていており、国防方針が曖昧な物であり続けた。この国内妥協のための「曖昧さ」は、現場のなし崩し的な戦線拡大を許し、国家を破滅的な総力戦へと引きずり込んだ。
これに対して、生存や主権を脅かされている防衛側(当時の中国国民党政府、現在のイラン、そしてウクライナ)の戦略目標は、「侵略者・介入者の完全撤退」という極めて単純かつ強固なものである。どれほど軍事的に劣勢であろうとも、目標の明瞭さは国民の意志を統合し、強靱な持久戦を可能にする。蒋介石が日本の二転三転する和平案の「迷い(曖昧さ)」を見透かして戦い続けたように、明確な意志を持つ側は、曖昧な侵入者を時間とともに消耗させていく。
結論:潮時を知らないものの末路
戦略学において最も知性を要求されるのは、戦争の始め方ではなく「終わらせ方(出口戦略)」である。しかし、スタート時点で勝利の定義を曖昧にしている大国は、自動的にその「潮時(鉾の納め時)」を自ら決める能力を喪失する。
つぎ込んだ予算や兵士の犠牲という「サンクコストの罠」に縛られ、主体的な撤退ができなくなった結果、最終的には「いつ、どのような形で戦争を終わらせるか」の決定権(イニシアチブ)を、目標の明確な対抗側に握られてしまう。歴史が証明する鉄則とは、鉾の納め時を自ら定義できなかった大国は、常に最悪の形で「終わらされる」という現実である。ベトナム戦争という経験は、残念ながら生かされておらず、むしろ日本占領という「甘美な成功体験」にこだわっているようにも見えてしまう。
現在のアメリカが中東で見せる方針の不明瞭さは、高度なインテリジェンスの産物などではない。それは、かつて日本がたどった「戦略不在の自己運動」の再演であり、国家が主体的な意志を失い、破滅的な消耗戦の入り口に立っていることを示す赤信号にほかならないのである。
