演劇は、人を傷つけずに面白くなれるか
早稲田小劇場どらま館の企画する「どらま館Labo」。
「どらま館Labo」は、早稲田演劇の卒業生と現役生が世代や団体の枠を越えて出会い、広義のつながりを育むことをテーマに創作を行うプロジェクトです。
本リサーチ対談連載では、多様性やジェンダーをめぐる実践を行ってきたゲストをお招きして、演劇の現在地を探ります。
第二回のゲストは、桃山商事の清田隆之さん。脚本・演出の山本健介さんがお話しを伺いました。
かつて演劇の現場には「強さ」や「面白さ」を競う文化がありました。
しかし、対話や人権意識が重視される時代の中で、その価値観は揺らいでいます。
強権的な演出、若さに任せた衝動、やりたいようにやる熱量。
それらは何を生み、何を取りこぼしてきたのか。
「男性性」「世代」「空洞」「DoingとBeing」
同時期に早稲田で過ごした二人が、実感を手がかりに、
かつて“強さ”や“面白さ”で出来ていた演劇は更新できるのか?
を探ります。
面白くなければ、ダサい時代
清田
初めまして。今日は、楽しみにしてました。ジエン社 見たことあるんです。
いや実は、もっと古いんです。めっちゃ見てました、「自作自演団ハッキネン(※註1)」。けっこう因縁があって。覚えてないですか?これ。

「ブロックバスター」の冊子
山本
え? ……もしかすると、あれですか?張り紙ですか!
清田
学生時代、このサークルやってたんですよ。
山本
やっぱり「ブロックバスター」だ!ライバルでしたよ。
清田
張り紙、よく隣に貼ってましたよね笑
だから今日は「ハッキネン(※註1)の人とついに!」って、楽しみにしてたんです。
(※註1 自作自演団ハッキネン→山本健介がジエン社の前に早稲田大学内で名乗っていた一人集団名。主にチラシの裏に手書きで一言ネタを早稲田大学構内に張り回るというパフォーマンスや、看板になったり、文学部キャンパス内で違法に一人芝居を上演していた)

立て看板になる山本健介さん
山本
いや、懐かしいですね。ブロックバスターがちゃんとした作品って感じで、僕がオルタナイティブというかインディーズというか……。
僕はチラシの裏に、授業中に一言ネタ書き続けて、学内に貼りまくってただけなんですけど、剥がされても2時間後にまた貼ってる。機動力で勝負って感じでしたね。
清田
謎の張り紙がいつも隣に貼ってあって。一言ネタみたいな。何なんだろうこれって笑
ブロックバスターは5人で毎週チラシのようなビジュアル作品を作って貼ってました。
山本
ブロックバスター……「禁煙」って書いた張り紙があちこちに勝手に貼られてあったのを覚えてます。すごく凝っていて、大学のオフィシャルの「禁煙」の張り紙に紛れて、あちこちに勝手に「禁煙」って張り紙を張っていて。ブロックバスターのロゴが小さく入っている……これ、絶対手書きじゃできないやつだって。

清田
当時は、お互い、張り紙では目立ってましたね。
山本
一方僕は、そのパフォーマンスの延長で、学内で勝手に無許可ひとり芝居をしたりと、アンダーグラウンドな方へ……。
当時、早稲田の男子たるもの、面白くなければいかん感がありましたよね。
他人の作品や振る舞いに対して、ハードに言ったり、けなしたり。
今の学生に聞いたら、そういう人は全然いないんですって。
清田
ありましたね、尖ってナンボというか。

作者本介(山本健介)のハンガーストライキ
山本
当時、僕も悪口書いたと思うんですよ。
それこそ手書き一言ネタで。ブロックバスターの悪口を書いた気もする。
バトルを引き起こして面白がろうとか。揶揄する文化ありましたよね。
清田
バトルも喧嘩というよりは、面白さの競争とか。
イジられたり、イジったりとか。あの頃はぶつけ合いって感じですもんね。
山本
イジリに対して怒らない、面白で返さない奴がダサいみたいな感じ。
話にオチがないといけないみたいなものもあるし、当時のお芝居的にも、激しさを競っていたかも。
「聞く側」に回るという革命
山本
今回の『永遠幼稚園』は、自分が子供の頃の、女子に対してうまく話せなかった気持ちを、幼稚園児の語りで書いてみたんですよ。
コロナをきっかけに、2021年、 40歳の時に、人と話せなさみたいなことにぶつかりました。そういう断絶があって。他人が何言ってるのかも、演出で自分が何言ってるかも、わかんなくなって、ワーって自分の中でなったときがあって。

その後に書いた脚本が、『永遠幼稚園』です。
清田さんは、いろんな人のお話を聞いてらっしゃるじゃないですか。
どの時点で、「話を聞こう」ってなったんですか?
清田
(若い頃は)いかに目立つか、アピールするかって意識は強くあったと思います。
メンバー5人で活動する中で、サークルをそのまま会社にしたんですよ。
デザインやライターの仕事をして活動を続けて、理想はクリエイティブで食べることでしたが、全然活路が見いだせないというか。
クリエイティブで勝負するぞという活動と別に、「桃山商事」の活動もしていました。
「桃山商事」では当時、レンタカー借りて、失恋した女友達の話を聞き、山とか海とかへお出かけするという、なんともチャラチャラした活動をやってたんですよ。
その時、最初は「俺たち面白いでしょ?」って、ワーって喋ってたんですけど、話すネタが尽きると無になっちゃって。

そんな中で、ドライバーで話のつまらないやつがいて。
そいつが、「おにぎりの具何好き?」って話題で、「昆布が好き」「いいよね昆布」「俺、鮭!」みたいな、ひねりのない会話で助手席の女の子と盛り上がってて。
それが衝撃で!大真面目にみんなで考えたら、そいつは質問をして、ちゃんと受け止めて自己開示をしていて。
これがコミュニケーションなんだって気づいた。
俺たちがやってたのは、俺の話聞いて!ってプレゼンテーションだったなって。
ほんとコペルニクス的な展開というか。
そこから徐々に聞く側にシフトしていった感じがありました。
山本
それすごく早いですね
清田
それと大きかったのが、2011年、震災の年に、桃山商事の活動を通じて見聞きしてきた恋バナをアウトプットする活動を、まだ「ボイスブログ」って呼び名だったポッドキャストで始めて。
当時の空気だと、ナンパテクとか恋愛ノウハウが流行っていて、男の人が恋愛のエピソードを語るみたいなのはあまりいなかったんです。
山本
ちょっと露悪的な文化。女性をひどい目に遭わせることを誉れみたいに語る空気も、震災前くらいまではありましたよね。
清田
雑誌でもウェブでも、そういう空気がまだありましたね。そんな中で、恋愛の中で起きる些末なエピソードを紹介していた番組が、「男がこういう話をしている」というだけで珍しがられて。
ブロックバスターで目指していたクリエイティブな活動では行き詰まっていた一方、遊び半分でやっていた桃山商事の活動が不思議と波に乗ってきて。
目の前の人を、見ていなかった
山本
僕は大学卒業後、映像のプロデューサーを名乗る人についていった先で圧をかけられまくる仕事をしてた時期があって、今思うと、より話聞かない界隈に行ってた気がする。
当時はプロ意識だって思ってたけど、プロはこうでなきゃいけないという上からの圧が来て、やっぱそれは、どっか男性コミュニティの感じというか。

清田
女の人たちの会話をひたすら聞く中で、圧倒的なディティールの豊かさというか、感情とかエピソードの描写が本当にすごいなって感じました。
男同士の恋バナだと「あの子可愛い」くらいで、何も伝わってこない。
これ、目の前にいる人を見てないんじゃないかって。
自分も、当時、恋人が何を感じて生きてるかとか、あまり考えてなかった。
ディズニー連れてってるから、良い彼氏でしょ、みたいな感じ。
当時付き合ってた人が病院で働いてて、採血の練習台になって欲しいって、彼女と一緒に出勤したことがあって。
職場で、彼女の働く姿を見て、衝撃で。
高校生から友達で、付き合ってからも4年くらい経ってて、随分長いこと知ってる彼女が、仕事してる。働いて生きて、存在している。
上司とかにおはようございますとか言って、手際よく針とか刺してて。
その時に、「俺はこの人のことあんまり知らないのかもしれない」って、衝撃を受けたんです。
長い付き合いだったのに、俺は、休日に会う彼女しか見てなかったんだなって。
そこから、この感じはなんだろうって、桃山商事の番組でも度々テーマにして。そこで出てきたのが、男性の「空洞問題」でした。
取り繕うための「空洞」
山本
自分にも、どこか空洞な感じがあったんですよ。
意地を張って、怒られないように答えたり、怒られてること自体なかったことにしたいみたいな。
今回の作品の中(参考:『永遠幼稚園』脚本はこちらから)で、女性の幼稚園の先生に「どうしてこんなことをしたの?」って言われた時に、主人公がうまく説明できないってシーンを書いてて。
今の言葉の力だったら書けるかなと思ったら、やっと書けたのが「女の子と戦わないといけないから」ってセリフになった時に、これ、絶対に違うって。それはわかったんです。

翻って自分も、普段「本当のことを言ったら関係が終わっちゃう」「自分が悪いことが確定しちゃう」ってことを、打算もあって分かんないってことにしとこうって、空洞のままやっていってるかもしれないって思って。
清田
見られ方とかポジショニングとか意識しちゃうと、
思ってることを言うより、こう言っといた方がいいとか、そういう発想になっていく。
山本
悪いことなんだろうけど、すっとぽけといて、自分が過去にやったことを認めないでおく。嘘をつき続けて、呆れられて去ってくれた方が、自分が否定されないんじゃないか。
逆に弱みを開示しちゃうと、永遠に言われそうな気がして。
自分の中で、過去のミスはなかったことにしないと、人と話せないって警戒はあるなって。
清田
わかります。取り繕うというか。その場で自分が不利にならないようにロジックを組み立てる癖とかね。
こういう風に見られとけば、内面は守れるという「鎧」。
けど、守ってるはずの内面には目を向けないから、自分のことがよくわかんないまま、役割とかリアクションとかパワーバランスとか、そういうものばっかりに気を取られて自分も生きてた気がします……。
山本
好きな女の子の前でも、そういうことやっちゃう。
関係を長く続けようと思えば思うほど、そういう突っ込まれポイントをいかに表出しない方に、つい力尽くしちゃうし。お芝居の現場とかでも、演出家が弱音を吐いちゃいけないんじゃないかとか。
ごめんねって1回でも表明してしまったら、俺は信頼を失うんじゃないか。
怪物的な、ずっと意地を張る世界観だからこそ、面白いものが作れると思ってたけど、それがやっぱり40代の時に、ぽしゃったなと。
清田
そうだったんですね。確かに空洞は苦しくなってくるだろうし。
人とのつながりも、感覚も、わかんなくなっちゃうかもしれない。
今まではそれでよかったのに。
男子文化に、内面はあるのか?
清田
例えば昔のジャンプのキャラクターとか、あの人たちって「内面」なくないか?
パスをどこに出すかとかばっかで、お互いを知るようなことを喋ってない。
花道と流川って「深いところで繋がり合ってる風」だけど、例えば20年後に同窓会とかで会ったら、多分何も喋ることないのでは……みたいな笑
山本
(花道と流川がハイタッチした時の)見開きの「パーン!」がピークですね、きっと笑

清田
あれは確かに伝説的なシーンだけど、もっと日常的な会話とかもあっていい。
大袈裟なことしないで、「俺はこう思ってる、お前はどう?」ってコミュニケーションが男子文化には少なすぎる気がしていて。
実際何があったかわかんないけど、松本人志も中居正広も、なんであんなことをやってしまったのかを絶対喋らないじゃないですか。
なんでああゆうことになってしまったのか?寂しかったのか、苦しかったのか。何か抑圧されていたのかとか、全く内面に入っていけないじゃないですか。鎧が分厚すぎて。
勝手な想像だけど、内面は孤独なんじゃないかなって。
昔は、コンビの芸人は仕事だけでしか喋らないとかが、かっこいい風にも見えたけど。
山本
ただ……僕はまだ、かっこいいって思ってる。孤高感とか、お互いビジネスでやってるかっこよさを夢見ちゃうなって。
清田
確かにそういう風にも見えるけど、意外とその奥底には、向き合うことの恐怖があるんじゃないかと思うんですよ。
よく男集団でワチャワチャやってて、みんながトイレ行って2人きりになった瞬間、喋ることないとか、俺こいつとあんま喋ることねえなみたいな経験って結構多くの人があると思う。
向き合うのが怖い……という感覚を「気まずさ」みたいに表現してるだけではないか。こいつがどういう人間で、自分はどういう人間って、「個人と個人」として向き合うのが怖いし、慣れてない。
「僕を認めてくれ」と言えない
山本
僕も、損得がないと人と、特に男性と話せない。
仕事としてのお茶ならできるんですよ。それこそ小島くんと喫茶店でこの企画の話を詰めて、雑談やお茶をしたんですけど、これならたくさん話せるなと思った一方で、企画がなかったら、このお茶発生しないなって思った。
清田
確かに。役割とか目的もなく喋ろうってのは、なかなか難しいかもしれません。
山本
今、お芝居で「Doing」 (註2)である技術の方が優先度が高いというか。
お金になりやすいものは、器用な「Doing」、俳優が分かりやすい内容をお客さんに記号としてちゃんと伝えられるかどうかが、最優先になっている感じがして。
(※註2 「Doing」と「Being」→清田隆之さんの著書『さよなら、俺たち』で用いられている用語。以下、引用。
人間を表す英語に「human being」がある。beingとは“存在”のことで、今ここにいて、何かを感じながら生きている人間を指して「human being」と表記する。しかし、人間を表す単語には実はもうひとつある。それは「human doing」だ。doingとは“行為”のことで、何かを行い、その結果として得たものの総体として人間を捉える言葉が「human doing」となる。(中略)
beingには明確な目的はないが(中略)、doingには目的がある、それは「勝利」「成功」「達成」「攻略」などといったもの
『さよなら、俺たち』[スタンド・ブックス、2020年]p168-169)
山本
……あの、話ズレますけど、『三国志』とか、行動動機がみんな「天下を取る」なんですよね。「天下に覇を唱える」っていう「Doing」……Doingなのかわかんないですけど。
清田
天下を取って、何したいんでしょうね笑
でも、でかいことをぶち上げた人が、一方で自分の妻や子供をぶん殴ってたりすることもあるわけで……そんなんダメだろと思うけど、実績や肩書きだけで「すごい人」と評価される社会でもあり、この社会では“あるある”なわけじゃないですか。
社会を変えるんだ!って言って、身近なパートナーの話は 1ミリも聞かないとか。そこに、男の人の脆弱さを感じてしまう。
「儲ける」とか「モテる」とか、違う形で言ってるけど、結局「僕はあいつよりすごい」「みんな認めてくれ」って言ってるわけじゃないですか。
でも、「僕を認めてくれ」とは絶対言わない。もう悲痛な叫びにしか見えない。自分のことがよくわかんないから、そうなるんじゃないかなと思う。
辛いとか寂しいとか、自分がそういう状態であるって把握できないし、それをそのまま誰かに伝えて、助けてくれ、優しくしてくれとも言えない。
だから、ものすごい遠回りして、めちゃくちゃかっこいいものを作る。
それはそれですごいことですけど、間接的じゃないですか。カッコいいですねって言われて、一瞬気持ちよくなって、その後にまたすぐ虚しくなる。
その虚しさこそ、目を向けるべきものだと思うんですよね……。

DoingからBeingへ
ーーDoingで来たけど、Beingに変わらざるをえない世代は、どうDoingとBeingを切り替えていけるでしょうか?
清田
難しいですよね。男性もBeingの声に耳を傾けた方がいいと自分も思うけど、言葉ができれば、枠組みとか手法になっていく。
切り替えるには時間がかかると思う。
じっくり自分のことを知るとか、フォーマットにはめないで語るとか、まとまらないし、リハビリ期間がいる。
だんだん「自分ってなんでこう考えるんだろう」とか見えてくると、Beingがわかってくるんじゃないかな。
DoingとBeingという言い方をすると、Beingの強要だ!って反発する人もいるけど、それも自己防衛なのかもしれないですよね。自分にはBeingがないって言われてる気がして、腹立たしいとか。
山本
「やれ」って言われてる感じが嫌なのかも。そこでも、人からどう見られるかが発生する。
あとBeingを気にしすぎると、自分は加害者かもしれないって責めすぎて、動けなくなるんじゃないかとか。
極端に言えば、演劇することそのものも、ある種Doingだし加害だし。
自分がありのままであるためには、演劇をしないで、話を丁寧に聞く方が安全かもしれない。
言葉がうまくまとまらないけれども…完全に正しい存在になれていないとBeingであれない感じがちょっとあって、その状態に耐えられないのかも。最初から少しでも欠点があったり、悪い点や弱点があってはならないというか。
清田
確かにね、怖いですもんね。
Being的なものをあらわにするのは危険だし恐怖だとも思う。
だから、性欲の話だって、「自分はこういう欲求を抱いてしまうけど、それはなぜだろうか」というパッケージで意味付けをしながら書く。
加害性があるものでも、ちゃんと背景や文脈を構築した上で、安全なパッケージで提示することはできる。
「やりたいようにやる」加害性

山本
演劇って、どこかむき出さないといけない気もする。お客さんの心に踏み込まなくてはならないのかな、と。観客を強制的に椅子に座らせて見せる文化だし。Beingを出すには、お客さんを信じてないといけない。
清田
話を聞く場と作品を見てもらう場はもちろん全然違うと思いますが、
お客さんの完全な安全を保証するのは、すごく難しいじゃないですか。
表現物は、親切にやろうとすればするほど、「観客を信じてない」みたいなことにもなっちゃうかもしれない。
そもそも見たお客さんの影響や変化を、完全にコントロールすることはできないじゃないですか。
でも、やる側がやりたいようにやればいいってのも違う。
山本
かつては、やりたいようにやればいいノリが強かったんですよね。
今はそうじゃないと納得しつつ、自分は根っこで、その時代に浸かった感覚が随所に出ちゃうかも。
清田
そういうバランスの上で、みんな葛藤せざるを得ないですよね。
でも、かつての「やりたいことをやればいい」って感覚自体が、男性特権的なものの上に成り立っていたのかもしれない。
嫌がることをさせたり、ハードに運動させたりして、俳優を追い込むような上演も、男性的な感覚ではないだろうかとか。
作り手も観客も男が多くて、共有してる前提がそもそも男社会の尺度。
なのに、それを「社会の尺度」というふうに解釈できちゃう。
男を透明にできちゃうのが、特権性というものではないかと思います。
そういうものを構造から考え直していくフェーズがあって、今の時代がある。なので、ただただやみくもに回帰していい、何でもありなんだ!みたいなのは、もう暴力にしか見えない。
山本
どこか「早稲田演劇」っていうワード自体も、ハードに人を追い込んでとか、若者が若さに任せてやみくもにやるっていう。それも男感はありますよね。
清田
当時はそう思っていなかったけど、振り返ればめちゃめちゃなエピソードが山ほどありそうですよね。
山本
……暗転チェックするとき、明転した時に男は全裸になってるもんだ、みたいなのがあったなぁ……。
清田
ひええ。じゃあ同じことを演出家も演者も観客も全員女性で、その中でたった1人少数の男としてそこにいた時に、「暗転したら裸になるもんだろ」って本当に言える?急に怖くならないのかな……?
全体的に人権の扱いが雑だった社会で、男性たちも頑張っていたのだとは思います。
かつての努力が急に男性特権だとか言われたら、それはそれで戸惑いや苛立ちもわくとは思う。でも、それを踏まえて、どうしていくかだと思う。

山本
僕自身も1回自分の中で中断がなければ、対話していくことに対して、未だにずっと嫌だなと思ったかもしれないですね。
清田
20年前に若者だった我々の世代は、大人たちから散々雑に扱われてきたけど、自分が大人になった今は、自分が扱われてきたように下の世代は扱っちゃダメってルールになってる。子育ても、自分が受けたようなやり方じゃできない。
親というものが権力者である認識が、昔なかったですよね。
でも今、親は立場が上で、力も意識しながらコミュニケーションを取るのがデフォルトになってる。
似たようなことが、近年、演出家と俳優の関係でもあるんじゃないでしょうか。
強くありたい人へ
ーーそれでも強くありたい人や、もしくはお客さんが見たがってるから、やらなくちゃって人もいる。
そういう対話は大事じゃないって考える人と、どう話せるんでしょうか?
清田
そうですよね。もっと強権的にやりたい、今の傾聴と対話が大事という空気が嫌だと思う人は、当然どの世代にもいると思う。
昭和を取り戻せみたいな価値観で、「やっぱり稼ぐには、厳しく、やれって言うのが有効だ」みたいな人もいる。
いきなりバーンと激しいショックを与えて、それこそクリエイティブだ!という気持ちもわからんでもないけど。
その後に、加害者として告発されてちゃんと対応できるのか?
しないじゃないですか、そういう人って。
威勢のいいこと言って、加害として告発をされた時に、向き合わないで引っ込んで、嫌な時代になったとか言うだけで被害者ムーブをとってしまう。それは違う。
そこには、「自分がなぜそうしたか」がないですよね。
安心で、面白いものは作れるか
ーー山本さんの断絶、立ち止まった時に考えてたことを聞いてもいいですか?
山本
うん。2021年、コロナ禍直後くらいの話なんですけど、その時は、芝居をしてもチケット代で4000とか5000円取らなきゃいけない。
俳優にはバイトを休んで生活をちょっと壊してもらって、ギャラも全然払えない状況で、これは何の大義があってやってるんだっけ? って。
あと、俳優から「それは違うんじゃない?」って言われた時に、返す言葉が全然出てこない。稽古場で、今まで通り、こうしたい、ああしたいって思いはあるのに、言葉が出てこなくなっちゃった。
今までは強権的だったんじゃないか? とか……もう、稽古場にいる事や、演劇ができないんじゃないかとか色んなことを考え過ぎちゃって。
的外れなことを延々と言っちゃって、何を言ってるのかよくわからなくなっちゃって。
今思うと、もしかしたら、空洞なところを突かれちゃって、言葉がうまく出てこなかったのかも。

当時のことがいまだにまだ整理がつかないんですよ。
稽古場がすごくつらかった覚えと、僕が何かしなきゃいけないんだけど、何をしたらいいかわからない。ただただ、時間が過ぎてしまったことに対して、ずっとひたすら焦ったり、申し訳ないみたいな。
当時の意地として、この状態でも芝居やんなきゃ、コロナに負けちゃいけない、みたいな。自分が芝居やりたい動機以上に、そっちの意思にも気を取られた気もするなぁとか。
清田
いやでも演劇って本番があって、お客さんがいて、関わってる人の数とか考えると怖すぎる。プレッシャーすげえなと思うんですよ。
だから、そんな簡単に言えないですけど。もちろんそれはつらい。
今までやってきたことが、ある時期を境に、気がついたらダメなことになってる。
でも、その具体的なやり方、アウトプットの仕方が、どうしていいかわからない。教えられたことも、経験もノウハウもないってなったら、混乱しますよね。
コミュニケーションのやり方とか場数も含めて、考えがシフトチェンジしても体が追いつかないは当然だと思う。
逆に言えば、1から学んでいく、身につけていくしかない。
自分は、ジェンダーの問題に接続していく中で、90年代的なサブカル、露悪的なサブカルを、頭の中で全否定する感覚に一旦なったんですよ。
全部、男社会が生んだもので、こんなもんを面白いっていう感覚はもう古いって。
今後は「プレゼン」より「対話」だと思った。
でも、対話や同意を重んじていけばいくほど、今度はある種、予定調和的な世界になっていく。安全な関係性の中で、考えや感覚をすり合わせようってことだから、予想がつきやすくなる。
そうすると今度は「退屈」とか「飽きる」って問題が出てくる。
「予測誤差」って言葉がありますけど、ちょっと予測を上回る・外す感覚というのも、やっぱり大事だと思うんです。
じゃあ、安心や安全は確保されているけれど、同時に刺激的で面白いってものをどうやったら作れるか。
やり方は自分で考えるしかないけど、過去の異物とみなした感覚が、もう1度、素材として活かせるかもしれないっていう感覚が、自分の中で少しずつ芽生えてきているような気がするんです。

(司会・執筆編集:小島淳之介)
『永遠幼稚園』予約はこちらから👇
どらま館Labo『永遠幼稚園』
日程:2026/3/5(木)~3/8(日)
会場:早稲田大学GCC Common Center
詳細:『永遠幼稚園』特設HP
