見出し画像

【回顧録】何者でもなかった頃の私へ:第二話「六畳間」

これは第二話です
第一話はこちらから


四月の長崎は、思ったよりも暖かかった。

親と一緒に荷物を運び込む。いくつかの段ボール箱、布団、漆黒のL字デスク、それからキャスター付きの椅子。それだけで、私の六畳間はほぼ埋まってしまった。

親が帰る。 手を振る。笑顔だった。でも、その背中が少しだけ震えている。見えないように、泣いていたのだ。そのことに気づいたのは、ずっとずっと後になってからのことだった。あの時の私には、それを処理する心の余白なんてどこにもなかった。ただ玄関の冷たい床に立って、小さくなっていく二人を、ぼうっと見つめていることしかできなかった。

一人になった。 部屋に戻ると、自分の足音だけが、やけに大きく響いた。

窓は北向き。 外を覗いても、見えるのは隣のアパートの灰色の壁だけだ。空も、街も、ここからは見えない。景色と呼べるものは何もなかったけれど、その代わり、外の音がよく入ってきた。子どもの甲高い声。自転車の軋むブレーキ音。誰かが鼻歌を歌いながら歩いていく気配。

夕方になると、それが一番ひどく耳に触った。 学校から帰る人、仕事から帰る人、買い物袋を提げた人、誰かと笑いながら歩く人。世界がみんなのものに戻っていく時間。自分だけが、その巨大な流れからぽつんと放り出されている。

本当なら、自分もどこかに所属しているはずの時間だった。大学でも、予備校でも、何でもいい。なのに私は、どこにも属せないまま、薄暗い北向きの窓の前に座っている。 薄暮の時間。それが、一日の中で一番きつかった。

テレビは置かなかった。Wi-Fiも引かなかった。 誘惑を断ちたかったのではない。もっと切実だった。余計なものを全部遮断しなければ、自分が保たなかったのだ。外の世界のまぶしさに、押しつぶされてしまいそうだった。

部屋にあるのは、デスクと椅子と布団。それから、参考書と、最低限の食器だけ。 それだけで、私の世界は成立していた。

朝六時に起きる。白米、納豆、味噌汁、卵焼きを作って胃に流し込む。七時には机に座る。窓の外がまだ薄暗いうちから、参考書を開く。午前中に三、四時間。昼食は、決まってチャーハンを作った。午後に六時間。夜はランニングに出る。どんな日でも、雨が降っても、必ずどこかで走った。走って体を動かさない限り、何かが崩れてしまいそうで怖かった。寝る前に一時間、その日の復習。そして十二時に眠る。

この型を、死守した。 努力していたというより、狂わないために型にはまるしかなかった。感情はいつだってぐちゃぐちゃだった。けれど、生活の歯車だけは正確に動かし続けた。

夜中に、布団の中で涙が止まらなくなることがあった。 寂しかったのだと思う。でも当時の私は、それを寂しさとは認めなかった。ただ、天井の木目をじっと見つめていた。北向きの窓から、外の音が微かに滑り込んでくる。誰かの楽しげな笑い声。遠くを走る車の音。 闇の中で、自分の鼓動だけが、静かに、執拗に続いていた。

ただ、その孤独な日々が、嫌いではなかった。

やらなくてもいい。けれど、やると自分で決めている。強制されない。誰にも怒られない。全部、自分で決める。その感覚は、怖さよりも、不思議な心地よさをもたらしてくれた。 不自由に、自由だった。

一年という期限。親のお金。合格しなければならないという絶対的な縛り。それは確かな不自由だ。けれどその檻の中で、時間だけは完全に自分でコントロールしている。この歪な自由の形を、私は今も、どこかで求め続けているような気がする。

長崎の街が、少しずつ私の体に馴染んでいった。 浦上駅の改札が鳴る音。坂を登るときの、肺が焼けるような息の上がり方。百段の階段を数える妙な癖。近所のスーパーの陳列の順番。どれも、気がついたら私の血肉になっていた。

六畳間は狭かった。でも、当時の私のすべてがそこにあった。 何者でもない自分と、同じ部屋で暮らす練習を、私はあの春から始めていた。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

六畳間は、私にとってただの部屋ではありませんでした。

そこは、何者でもない自分を閉じ込める場所であり、
同時に、自分の時間を初めて自分で動かす場所でもありました。

狭くて、静かで、息苦しい。
でも、不思議と嫌いではなかった。

その部屋で生活の型が少しずつできていくと、
私は外へ出るようになりました。

坂を下り、路面電車の音を聞きながら、長崎の街を歩く。

水辺の森で本を開き、
オランダ坂を抜け、
大浦天主堂を見上げ、
丘の上から稲佐山を眺める。

勉強から逃げていたのかもしれません。
でも、その時間もまた、今の私を作っている気がします。

次回:第三話「街を歩く」(執筆中)
長崎は、何者でもない自分を責めなかった。

📖 前回の記事はこちら
▶︎ [第一話「長崎の夕日」]


📚 この連載や、ほかの記事の入口はこちらにまとめています。
▶︎ [待合室|医療のすき間にある小さな物語]


いいなと思ったら応援しよう!