【回顧録】何者でもなかった頃の私へ:第一話「長崎の夕日」
〜白衣を着る前の記録|長崎、六畳一間の一年〜
これは、合格体験記ではありません。
医師になる前、長崎の六畳間で、何者でもない自分と暮らしていた一年の記録です。
努力の話でも、成功の話でもなくて。
不自由なのに自由で、
孤独なのにどこか満たされていて、
受験生としては甘えていたのに、人生としてはかけがえなかった時間。
そんな一年を、小説風にアレンジをして少しずつ書いていきます。
イヤホンから音楽が流れた。
RADWIMPSの「最大公約数」。
何度も聴いた歌だった。
そして、何度聴いても、同じことが起こる。
今いる場所の輪郭が、すうっと溶け出す。
目を閉じると、坂の上にいる。原爆で削られた斜面の向こうに、稲佐山が見える。夕日が屋根をゆっくり撫でていく。路面電車の発着音が、遠くから小さく届く。潮の香りが、空気の底に沈んでいる。
長崎だ。
あの頃の私は、十八歳だった。
*
高校三年の春、医学部に落ちた。
センターは七十二パーセント。E判定が並んでいた。十二月には、もうわかっていた。それでも最後まで目を逸らし続けた。全力でぶつかって落ちれば、自分自身の全否定になる。そんな気がしていた。だから本気になりきれなかった。負ける前から、少しだけ逃げていた。
結果は、ただ出ただけだった。
合格発表の日、友達の横に立っていた。自分の結果には興味がないふりをした。でも本当は、一筋だけ期待していた。
落ちた。
親に電話した。声は、思ったより平坦だった。
浪人が決まって、長崎へ行くことにした。
予備校には行かなかった。同じ土俵で戦って負けるのが、怖かった。それだけだ。美しい自立心なんてどこにもなかった。ただ、自分の勝ち方を探したかった。この感覚は、今も自分の根っこにある。人と同じ場所で負けるくらいなら、別の場所で勝ちたい。
親は「納得するまでやっていい」と言った。その重さに、当時の私は気づいていなかった。
坂本のアパートを借りた。
医学部生が多く住んでいると聞いたから。
浦上駅から歩道橋を渡り、一本柱の鳥居を横目に、百段の階段を登る。古い二階建て。六畳の1K、ロフト付き。テレビなし。Wi-Fiなし。誘惑を断ちたかった。
漆黒のL字デスクと、キャスター付きの椅子だけ奮発した。それも、親のお金だった。
窓は北向きだった。外には隣のアパートの壁。景色と呼べるものは、何もなかった。でも声は入ってきた。外の生活音、誰かが帰ってくる気配。夕方になると、世界はみんなのものに戻っていく。学校から帰る人、仕事から帰る人、誰かと話しながら歩く人。
自分だけが、その流れの外側にいた。
引っ越しの日、親が手を振った。
笑顔だった。でもその背中が、少し震えていた。見えないように、泣いていた。そのことを私は、ずっとあとになってから思い出す。
一人になった夜、六畳間に自分の足音だけが響いた。
やけに大きく聞こえた。部屋の中に、音を立てているのは自分しかいない。それが、脳のどこかに、静かな傷のように刻まれた。
あの頃の私は、まだ何者でもなかった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
長崎での一年は、私にとって、合格までの道のりというより、
何者でもない自分と暮らす練習のような時間でした。
坂の上から見た夕日。
路面電車の音。
まだ知らない街の匂い。
そして、六畳間に一人で残された夜。
そのどれもが、今の私の中で、まだ静かに鳴っています。
この連載では、白衣を着る前の私が、長崎で過ごした一年を少しずつ書いていきます。
受験の記録ではあるけれど、たぶんそれだけではありません。
どこにも属せなかった時間。
それでも、毎日を自分で組み立てようとしていた時間。
そして、何者でもない自分と、少しずつ同じ部屋で暮らせるようになっていくまでの時間。
第一話では、長崎に着いた日のことを書きました。
次回は、そのあとに残された小さな部屋の話です。
父と母が帰ったあと、
六畳間には、自分の足音だけが残りました。
📚 この連載や、ほかの記事の入口はこちらにまとめています。
▶︎ [待合室|医療のすき間にある小さな物語]
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▶︎ [はじめて来てくださった方へ/このnoteの歩き方]
