何故こんなにも苦しいことが愛なのか?【第38話】
本当に手放すべきなのは、愛した人ではなく、
「愛してはいけない」と自分を責め続ける心なのかもしれない。
苦しみの連鎖を作るわけにはいかない。
「生きなければ」
そう決めたからといって、心が晴れるわけではなかった。
むしろ、すべてを終わらせる方法を頭によぎらせた。
早くこの胸を締めつける苦しさも、眠れない夜も、何もかも終わらせたい。
そんな誘惑は、何度もわいてくるが、だからといって好んで死を選択したいわけではない。
別れ際に言われたさくらの言葉が、頭から離れなかった。
「もし自ら命を絶っても、苦しみは終わらない。その感情を抱えたまま、この世を彷徨うのよ」

生きることも辛い。けれど、死んでも、この苦しみから逃れられないなんて…
何より、負の連鎖を作ってはいけないという思いがある。
「速水さん……」
浅い眠りに目が覚めると、窓辺に立ち、月を見上げた。
(忘れなきゃイケナイのに)
世間体や価値観が、自分を傷つけるのに、気づけば名前を呼んでいる。
「この月を見ているの?……」
答えはない。もう彼の記憶から消されているかもしれない。賢哉との生活を選んだことが正解だと思わなければ。
「詩乃。そろそろ病院に行く時間だけど、行けそうか?」
「ありがとう」
片道三十分。いつもと変わらない顔でハンドルを握っていた。
自分以外の人を愛していることを知っているのに。
その優しさに甘えることに罪悪感はあるが、今はそんな夫のそばで生きている事が、私の出来る愛だった。
(いつか以前のように、賢哉だけを愛せるようになるんだよね?)
出口の見えない闇の中に取り残されたような不安が、癒えることなく胸に居座り続ける。
それでも病院に行くと、束の間の安心が訪れた。
数日ぶりの微睡みの時間。眠れない夜を何度数えただろう?
正常値から大きく逸脱した血液検査の結果から、足りないビタミンを割り出し、点滴とサプリで補ってゆく。考えてみれば、ストレスから胃腸の吸収力が落ちるから、ホルモンが作られず不安になる。
「早く治って欲しいけど……」
「先のことより、今出来ることをするしかないと思うよ」
助手席から窓の外をぼんやり眺め、そんな賢哉の言葉もどこか遠くに聞こえる。。
信号が変わり、人が歩きはじめた。ふと、ベビーカーを押す夫の隣で、妻が笑っている姿が目に入ると、ベビーカーの中からは、赤ちゃんの手が、覗いた。

(――私だって)
これまで感じたことのない感情が湧き上がってきた。
羨ましい。
悔しい。
思いがけずそんな感情を抱いた自分に、戸惑った。
本当なら、私だってあそこにいたかもしれない。なのに今は、その全てを失っている。
結婚して、赤ちゃんが生まれただけ。その先に、私の求める幸せがあるのかもわからない。けれどその家族の形を素直に喜べない。
(私って、そんな人間だったの?)
こんなにも人を妬んだことはない。
まるで自分だけが世界から取り残されてしまったような気がして、自分が嫌になる。
世界は、私がこんなにも苦しいことなど知らないまま、何事もなかったように動いているなんて、許せない。
でも……
(これまで、誰かの幸せを妬んだことなんてなかったのは、環境に恵まれていただけだったんだ。私の性格が穏やかだったからじゃなかったのか)
誰もがそんなに強くも立派でもない。ほんの少し環境が変われば、昨日までの自分なら想像もしなかった感情が、誰の心の中にも生まれる。
善人と悪人の境目なんて、思っていたほど遠くない。
誰もが、ほんの紙一重なのだ。
初めて、自分の中にある人間の弱さを知った。
翌週の通院は、自分で車を運転しなければならなかった。
随分と思考が働かなくなっている自覚はあった。運転していても前後の記憶がないことが増えた。
けれど、電車のホームに立つのも怖い。人目を避けるようにホームの端を歩いていると、思いがけず線路に吸い込まれるような気がする。
アクセルを踏むと、エンジン音だけが響いた。ブレーキをかけたままだったようだ。もう一度アクセルを踏み込み、右へハンドルをきった。
その瞬間、高い金属音と衝撃で身体が大きく揺れた。
「……え?」
あとどれだけ不幸を感じたら終わるのだろう?
それでも生きていかなければならないのだろうか?
もし今、
「こんなはずじゃなかった」と思いながら生きているなら。
この物語のどこかに、あなたの求めている答えがあるかもしれません。
『価値観の崩壊と再生』
第一話はこちら↓
何故こんなにも苦しいことが愛なのか?【第1話】
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