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「学校も生徒の船長」〜両親の初会見、四か月の葛藤が言葉になった日〜 辺野古転覆事故・第47稿 (訂正あり)

七月三十日の午後三時、東京都内で、武石知華さんの両親が記者会見を開いた。事故から百三十六日、両親が公の場に立つのは初めてである。

会見の形式を、先に記録しておく。両親は顔を出さなかった。弁護士が同席したが、発言はしなかった。語ったのは、最初から最後まで、父と母だった。父は終始、順を追って話した。その声は、ときどき震えた。母は途中、言葉に詰まった。noteで書き、報道の取材に文章で応え、そして会見で肉声を出した。器は段階的に公開へ進んだが、顔を出さないという線は、最初から一度も動いていない。国会への参考人招致を、顔も出していない段階で承諾していた両親である。匿名は恐れではなく、運用だった。

冒頭、父は七月二十八日の熊本の地震の犠牲者への哀悼から話を始めた。個別の取材に十分応えられなかったことへの詫びが続いた。それから、本題に入った。

耐えられません

告訴に至った理由を、父は捜査の仕組みから説き起こした。

海の事故の捜査は警察ではなく海上保安庁が担う。海保は海と船の専門家であり、事故当日、娘の救命に懸命に当たってくれたことに今も感謝している。そう前置きした上で、こう続けた。過失の捜査は、死亡の直近の原因から遡って検討していくものと理解している。海上保安庁という機関がその形にこだわる限り、現場の海に誰一人いなかった学校の関係者にたどり着くことはなかなか難しい。では、学校や、現場にいなかった協議会の幹部は、誰が捜査するのか。もしかすると、誰も捜査しないまま終わってしまうのでは。そんな不安がずっとあった、と父は語った。

文部科学省は学校の安全管理を著しく不適切と認定した。報告書を読んだ人々から、この認定に異議を唱える声はほとんど上がらなかったはずだ。それほど誰から見ても明らかな安全管理の欠如があるにもかかわらず、それでも誰も刑事責任に問われない。父はそう述べて、続けた。このまま時間が過ぎれば、最悪の場合、亡くなった船長一人が被疑者死亡のまま送検され、不起訴になる。そして誰一人、法廷で刑事責任を問われることなく終わってしまう。その可能性すらあると感じました。私たちには、それは耐えられません。

被疑者死亡のまま送検され、不起訴になるとは、どういうことか。公判は開かれない。証拠は法廷に出ず、事実の認定は公開の場で行われないまま、手続きだけが閉じる。誰一人法廷で、という父の言い方は、感情の誇張ではなく、この帰結の正確な描写である。

第四十四稿で、TBSの取材への遺族コメントを引いた。学校の責任を問う刑事告訴は難しいとされ、悩み、泣き続けたこの数か月。ABCの取材には、捜査が終結してしまうのではないかという不安、と語っていた。会見の言葉は、その二つの先にある。不安の中身が、捜査構造の分析として言語化され、耐えられない、という一語に束ねられた。

前例

父の論理の核心は、個別の処罰感情ではなかった。

海や山などの危険を伴う課外活動において、学校側は大まかな計画だけを作り、あとはどれほど危険な相手に生徒を預けて、そして事故が起き、生徒が亡くなったとしても、学校は刑事責任を問われない。つまり、学校は現場に関わらないほど安全である。この知華の事故を、そんな前例にするわけにはいきません。

学校は現場に関わらないほど安全である。この逆説は、既存の立件の型を裏返して見せている。園バスの置き去り事件では、現場にいた園長が立件された。行為と結果が短い線で直結する型である。裏を返せば、現場にいなかった者、判断の連鎖の上流にいた者は、線が長いという理由で刑事の入り口をくぐらずに済んできた。父の告訴は、この構造そのものへの異議である。現場にいなかったことが安全圏になるなら、学校は関わらないことを選ぶようになる。

前例、という言葉が置かれた。娘の事故の帰結が、次の学校事故の先例になる。告訴は、その先例の成立を止めるための行為として定義された。捜査が広く進んでいるのかもしれないが、捜査活動である以上、その内容は自分たちからは見えない。見えないのであれば、私たちで取り得る行動を取る。それが告訴でした。四か月間の葛藤の末の決断です。

無理筋ではない

学校の刑事責任を問うのはハードルが高い。多くの人からそう言われた、と父は認めた。第四十四稿で書いた、難しいとされ、である。その上で、父は反転させた。それでも私たちは、この告訴は無理筋ではないと考えています。

根拠は、信頼の原則の適用だった。一般論として、国の免許を持ち検査を受けた事業者、たとえば貸切バスや遊覧船に生徒の移動を委ねて事故が起きた場合、学校の責任が問われにくいのは、相手が信頼してよい相手だからだ。個別の事故の話ではなく、仕組みとしての一般論である。今回、学校が生徒を乗せたのは、旅客を運ぶ事業の登録すらしていない、抗議活動のための船だった。船の形も装備も準備も、修学旅行生を乗せるにはおよそ適さない船に見える。信頼してよい根拠が、何もない。

そして、父はこう続けた。学校は、それを知っていました。

二〇二二年度も二〇二三年度も、教員は不屈や平和丸に乗り、高速で走り、生徒がずぶ濡れになる様子を、自分たちで動画に撮っていた。それでも学校は一度も下見をせず、船長と安全の打ち合わせもせず、当日は二人の引率教員のどちらも船に乗らなかった。この主張は、会見で初めて出てきたものではない。父がnoteで積み上げてきた検証——下見が四年間一度も行われていなかったこと、過去の参加生徒の感想に、怖かった、という言葉が残り、学校がそれを把握し得たこと——の集約である。会見は、noteの四か月の要約だった。

止められる機会は、少なくとも四層にわたってあった。下見をして、やめる。やめないのであれば、まず安全の打ち合わせをする。十分な計画を立てる。当日、教員が一緒に乗り、結果を正確に報告する。この四年間、この四層のうちどれか一つでも実行されていれば、ともかは死んでいません。

船を操っていたのは船長です。しかし、その船に乗るのは、何も知らない生徒なのです。十七歳の生徒たちをその船に乗せると決め、確認をせず、止められる機会を全て素通りしたのは、学校です。学校も、生徒の船長なのではないでしょうか。

この事故を、船長一人の事故で終わらせないために、告訴に踏み切りました。

法律家の整理に近い。予見可能性、結果回避義務、信頼の原則。過失論の骨格に沿って、四年分の事実が配置されている。弁護士は同席して、沈黙していた。助言があった可能性は高いだろう。それでも、この論理を法廷戦術としてではなく、遺族の問いとして語ったのは、父だった。

二つの七月十日の、答え

第四十四稿で、一つの留保を置いた。七月十日、遺族はnoteで県議会に特別委設置を求め、同じ日に、誰にも告げずに告訴状を発送していた(発送日は産経新聞の報道による)。感謝は公開され、受理は伏せられた。あのとき、こう書いた。これが偶然の一致なのか、意図した設計なのかは分からない。

会見で、父が自ら答えた。

告訴の時期について、七月に急いだのは、捜査がもし行われるのであれば、生徒の皆さんが登校する学期中ではなく、夏休みの期間であってほしいと考えたからです。受理された後も、捜査の影響を避けるため、昨日まで公表を控えてきました。

設計だった。そして設計の理由は、戦略ではなく、在校生への配慮だった。捜索が校内に入るなら、生徒のいない夏に。この配慮の宛先は、娘の同級生たちである。姉が投稿で書いていた、学校では事故の前と同じ日常が続いています、という言葉を思い出す。遺族は、その日常を壊す側に回るときでさえ、壊し方の時期を選んでいた。

前から見えていた

会見で、両親は映像を公開した。二〇二二年度と二〇二三年度の研修旅行で撮影された、乗船時の動画である。船が高速で走り、生徒がずぶ濡れになり、海上保安庁のボートが並走する様子が映っている、と父は説明した。父の説明によれば、撮影したのは教員自身である。会見の経過は、共同通信が配信した詳報動画で確認できる。

危険はあの日突然現れたのではありません。前から見えていたのです。

この連載は、記録の形を数えてきた。公開が問われた記録があった。名護漁協の防犯カメラ映像である。作られなかった記録があった。三月十八日の校長発言の、学校側の記録である。他者の手で残った記録があった。県の議事録である。四つ目が出た。作った本人に向かって働く記録である。教員が自分で撮った動画が、学校の予見可能性を示す証拠として、遺族の手から公開された。

知華が残した宿題

母は、四か月をこう語った。四十九日までは、自分が生きているのかも分からないような感じで過ごしていた。周りに言われて食べて、眠っても泣きながら寝ているような日々だった。百日を過ぎたあたりから、だんだんきちんと食べて、眠れて、何かしようという気が出てきた。その間、夫がいろいろな手続きも、noteの配信も、娘と一緒に頑張ってくれた。

告訴についても、母は迷いを隠さなかった。知華は学校が大好きだったので、学年主任の先生とか引率教員の先生を告訴するということがいいのかどうか、悩みながらだった。告訴した相手を語るとき、母は、先生、という敬称を付けたままだった。それでも、知華の死に、きちんと責任は取ってもらうべきだと思う。私みたいな思いをする親御さんが二度とないように、変えられるべきものは自分たちで。当たり前に守られなければいけない子どもの命が、ずさんに扱われることのない未来を残してあげたい。

質疑で父が明かした、母の独り言がある。妻がよく仏壇の前で独り言を言うんですけど、知華が残した宿題は難しい、と。再発防止まで、自分たちの力ではなかなかたどり着けないんじゃないかなと思います。

告訴は受理された。捜索は行われた。それでも両親は、告訴を到達点として語らなかった。真相が余すところなく明らかになること。責任の所在が法に基づいて明らかにされること。二度と同じ事故が起こらないこと。求めることは一貫して変わりません、と父は言った。三つのうち、告訴が届き得るのは二つ目までである。三つ目の宿題は、まだ誰の手にも渡っていない。

十一日後の八月十日、県議会の特別委員会が初めて開かれ、委員たちは事故現場の海へ出る。学校法人の第三者委員会のとりまとめの時期も近づく。捜査は、押収資料の分析とともに進んでいるとみられる。会見は、検証が一斉に動き出す八月の、その直前に置かれた。

七月三十日、両親は顔を出さないまま、四か月の葛藤を自分の声で語った。弁護士は隣で沈黙していた。器は変わっても、顔を出さないという線は動いていない。

僕は書き続ける。

【追記】本稿で弁護士は発言しなかったと書いたが、これは冒頭陳述についてである。質疑では法的論点への質問に代理人が回答しており、訂正する。


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