Bloody Divine(血塗られた神聖)【第6話】氷の城を灯すもの
城の中に「音」が戻ってきた。
それは、数千年の間、静寂という名の暗闇に埋もれていたこの場所にとって、何よりも劇的な変化だった。
ガタ、と重い石が擦れる音が回廊に響く。アルヴィスは、崩れかけていた壁の破片を取り除き、歪んでいた窓枠に肩をぶつけて無理やり押し広げていた。

錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、隙間から「外」の空気が流れ込む。それは洞窟の湿った空気ではあったが、淀んでいた城内の空気をかき乱すには十分だった。
「……何をしているの、貴方は。飽きもせず、そんな無益なことを」
背後から届く、冷ややかな、けれどどこか毒気の抜けた声。
エルゼーラは、埃が舞うのを嫌うようにドレスの裾を少し持ち上げ、回廊の影からアルヴィスの作業を眺めていた。彼女にとっては、城が壊れていようが、埃を被っていようが関係なかった。時は止まっている方が、彼女の絶望した心には相応しかったからだ。
「無益じゃないさ。扉が閉まらないのは不便だし、何より……あんたの顔が、暗くてよく見えないからな」
「私を見る必要があるのか? 私はただ、そこに在るだけの呪われた屍人なのに」
「屍人にしては、少しばかり饒舌すぎるんじゃないか?」
アルヴィスは皮肉混じりに返し、今度は床に溜まった泥を掃き出し始めた。
彼はこの数日で、城内のいくつかの部屋を回った。そこにある調度品はどれも超一級品であったが、その多くに「傷」があることに気づいていた。
特に、回廊に並ぶ石像たちは異常だった。
細部まで見事に彫り込まれた女神の像は、そのすべての「顔」が、鋭い刃物で削り取られているのだ。あるいは、激しく叩き折られている。

アルヴィスは、その一体の前に立ち、削られた断面に指を這わせた。
「……これは、あんたがやったのか?」
エルゼーラの歩みが止まった。彼女の紅い瞳が、わずかに細められる。
「そうよ。誰一人救いもしないくせに、救いを与えるような顔で微笑んでいる石像なんて見苦しいだけ……。
……かつて私の無知が、いや|傲慢》ごうまん》さが、今の私を生み出してしまった。けれど、その私を……ただ微笑み見下ろすだけの女神像など私には必要ないもの」
彼女の言葉には、他者への憎しみではなく、果てしない「自己嫌悪」が宿っていた。
アルヴィスはそれ以上追及せず、代わりに腰のポーチから、地上から持ってきた数少ない備品の一つを取り出した。
それは、動物の脂で作られた、古臭くて不格好な蝋燭だった。
彼はそれを、煤を払ったばかりの古い燭台に立て、火打ち石で火を灯した。
ボッと、小さな、けれど眩しいくらいの赤橙色の炎が生まれた。
城を満たしていた無機質な魔導の青白い光とは異なる、揺らぎ、爆ぜ、今にも消えそうな、けれど「温もり」を持った灯り。
「嫌な色。……私の瞳と同じ、血の色をしている」
「そうか? 俺には、あんたの瞳の色よりは、少しばかり優しく見えるがな」
アルヴィスは蝋燭をエルゼーラの近くに置いた。
揺れる炎が、彼女の白磁の肌に複雑な影を落とし、冷たい彫像のようだった彼女の横顔に、一瞬だけ生きた人間の血色が混じったような錯覚を与える。
「魔導の光は永遠だが、この火はいつか消える。……消えるからこそ、今、こうして燃えているのが尊いんだと、俺の親父は言っていた」
「……消えることを尊ぶなんて、やはり人間は理解しがたい。私は……消えることが出来ない。このまま、世界が腐り落ちるまで、独りでここに居続けなければならないのに」
エルゼーラは、その炎に吸い寄せられるように、ゆっくりと指を近づけた。
……が、熱さを感じ、反射的に指を引く。その一連の動作が、あまりに幼く、無防備に見えた。

「アルヴィス。……貴方がこの城を『家』のように繕うたびに、私は怖くなる。私の消えぬ絶望と後悔が、貴方の持ち込む『生命』の匂いで薄まっていくのが……。
そして生命の匂いは……吸血鬼の本性を呼び戻してしまう」
「それは俺を殺したくないってことか? 賭けは俺の勝ちってことで良いのか……いや……お前に喰われるってこと…か? エルゼーラ…、お前はどうしたいんだ?」
「……私にも分からぬわ」
エルゼーラは小さく笑った。それは嘲笑ではなく、困惑の混じった、柔らかな吐息のような笑いだった。
彼女はそのまま、蝋燭の火を見つめ続けた。
アルヴィスは作業を再開した。
城の機能を一つずつ取り戻していくことは、彼女の……いや彼女が吸血鬼になる前の誇りを、別の形で取り戻すことになるのかもしれない。彼はそんな大層なことは考えていなかったが、少なくとも、この暗い城に、二人分の影が重なって揺れる様子は、それほど悪くない光景だと思っていた。

しかし、彼らが「家」を築き始めたその裏で、地上の深い闇の中では、一つの「狂った意思」が動き始めていた。
洞窟から数里離れた宿場町。
そこには、純白の外套を羽織り、胸元に「天秤と剣」の紋章を刻んだ男たちの姿があった。
「禁忌の地から、微かな光の揺らぎが観測された」
「呪われし屍人が、ついに人間を襲おうと言うのか」
「救済の名の下に、審判を下さねばなるまい……」
彼らの言葉には、エルゼーラを忌み嫌う明らかな意思があった。
そして、凍てつくような「狂った意思」だけが、闇の中で静かに研ぎ澄まされていた。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
著作権は著者に帰属します。無断転載・複製を禁じます。
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