Bloody Divine(血塗られた神聖)【第8話】封じられた記憶の庫(くら)
城の東塔。そこは、これまでのどの回廊よりも冷気が濃く、時の流れが完全に凝固したような場所だった。
アルヴィスが、錆びついた幾重もの鎖を断ち切り、青銅の巨扉を押し開くと、数千年分の封印が解けるような不吉な呻きが響いた。溢れ出したのは、腐敗とは無縁の、眩暈を覚えるほどの黄金の光輝だった。
そこは、宝物庫という名の「神殿」であった。
天井の見えない広大な空間に、地上の王都をいくつも買い取れるほどの金貨が山をなし、宝石を散りばめた杯や、かつての帝国が捧げたであろう儀礼用の剣が、無秩序に積み上げられている。
魔導灯の光を受けて、金銀の反射が波のように揺れ、見る者の理性を焼き切らんばかりに輝いていた。
「……掃き溜めね」
背後に立つエルゼーラの声は、極夜の風のように冷ややかだった。
アルヴィスは、足元にこぼれ落ちた大粒のルビーを無造作に踏み越え、部屋の奥へと進む。これほどの富を前にしても、彼の心は不思議と昂らなかった。むしろ、この金貨の一枚一枚が、かつて誰かの絶望や祈りと引き換えにここに運ばれてきたのだと思うと、嫌悪感すら覚える。
アルヴィスの目が、その黄金の山とはあまりに不釣り合いな一点に留まった。
部屋の最奥、最も光の届かない冷遇された石棚の上に、それはあった。
半分に割れた、古びた木彫りの人形。
金貨も宝石も贈れなかった誰かが、泥だらけの手で彫り上げたのであろう、稚拙で不格好な造形。それは、周囲の贅沢を嘲笑うかのように、寂しく、けれど毅然としてそこに横たわっていた。

「……それに、触わらないで」
エルゼーラの声が、今度は明確な意思を持っていた。
アルヴィスが手を伸ばすと、背後で彼女の気配が激しく波打つのが分かる。彼女にとって、この広大な金貨の山は「どうでもいい塵」に過ぎないが、その壊れた木切れだけは、彼女の魂を繋ぎ止めている最後の楔なのだ。
「触れるなと言っているのだ! 聞こえないのか!」
彼女が叫ぶと同時に、城全体が悲鳴を上げるような震動に包まれた。
衝撃波がアルヴィスの全身を叩き、積み上げられた黄金が雪崩となって崩れ落ちる。激しい金属音が鼓膜を刺すが、アルヴィスは足を踏ん張り、その割れた人形を両手でしっかりと包み込んだ。
「……捨てて忘れたいなら、こんな場所に置きはしない。あんたは、これを捨てられなかったんだな」
エルゼーラは、乱れた呼吸を整えながら、憎悪と悲しみが混ざり合った瞳でアルヴィスを睨みつけた。

「……それは、かつて、私が救おうとして、死なせてしまった男が、まだ人間であった頃に、私への贈り物として彫った人形よ……。
すべてを壊してしまった時代の残骸。……その人形を彫った者は、最期に私の目の前で断末魔を上げながら息絶えたのよ。
これは、私が二度と『救済』などという傲慢を抱かぬよう、自分に課した枷なの」
彼女はそれ以上、何も語らなかった。
だが、その沈黙こそが、彼女が背負ってきた永劫の孤独を物語っていた。
アルヴィスは、彼女の言葉の裏に隠された絶望の深淵に触れた気がした。アルヴィスは、彼女の拒絶を黙って受け止めると、そのまま冷たい石床に腰を下ろした。
そして、懐からあの銀細工のナイフを取り出す。
「……何をしているの。その汚らわしい手で、私の記憶に触れないで」
「黙って見てろ。俺はあんたの過去を暴くつもりも、同情する訳でもない」
アルヴィスは、割れた人形の断面を静かに合わせた。
そして、傍らに落ちていた古い堅木の杖を削り、小さな接木を作る。
没落した貴族の意地か、あるいは生きる場所を失った冒険者の執念か。彼の指先は驚くほど繊細に動き、不格好な人形の「傷」を埋めていく。
カチ、と音がして、二つに分かれていた身体が一つの形を取り戻した。
アルヴィスは、修復された人形を黄金の山ではなく、彼女の視線の高さにある、最も清潔な石台の上に静かに置いた。
「壊れたままじゃ、その男も浮かばれんだろう。だから、今の俺にできる事をしたまでさ。」
エルゼーラは、直された人形をじっと見つめていた。

彼女の指が、恐る恐る、数千年ぶりにその木肌に触れる。冷たいはずの彼女の指先が、わずかに震え、人形の不格好な微笑みをなぞった。
彼女は何も言わなかった。
けれど、その紅い瞳の奥に淀んでいた昏い影が、一瞬だけ、朝霧が晴れるように透き通ったのをアルヴィスは見逃さなかった。
黄金の輝きよりも、この小さな木彫りの温もりの方が、今の彼女にとっては救いだったのだ。
だが、その静謐を切り裂くように、城の遥か上層……入り口の洞窟で、甲高い金属音が響き渡った。
それは、石に刻まれた魔法の結界が、無理やりこじ開けられた時に生じる絶叫だった。
「……来たか」
エルゼーラが、鋭い視線を天井へ向けた。

その顔は、先ほどまでの迷える女のものではなく、侵入者を屠るために存在する、冷徹な「城の主」のそれに戻っていた。
「私の安寧を妨げる、不遜な足音。……アルヴィス、貴方の仲間たちのようだ。 どうやら、彼らはここが地獄への入り口であることを、まだ理解していないようだな」
彼女の全身から、濃密な魔力が溢れ出し、ドレスが黒い翼のように翻った。
いよいよ、二人の穏やかな時間は終わりを告げようとしていた。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
著作権は著者に帰属します。無断転載・複製を禁じます。
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