見出し画像

地域に「日本語教室」は必要か ―実践のリアルから、地域日本語教育の形を考える

先日、言語文化教育学会のDIALOGOに出演しました。

今、私が取り組んでいる奥多摩の日本語教育について、実践内容を簡単にお話しし、最終的に「地域の日本語教室は必要か」という問題提起をさせていただきました。

YouTubeライブでの配信のみで、アーカイブは残りませんが、大変貴重な機会をいただき、そこでのやりとりが考えを深めるきっかけとなりました。そこで、出演を通して考えたことを一旦まとめておきたいと思います。


介護の技能実習生のための日本語教育実践

はじめに、現在、私が地域で取り組んでいることを簡単にまとめます。

実践の中心になるのは、介護の技能実習生の日本語教育です。私の住んでいる地域には、介護施設がいくつかあるのですが、そこで働く介護の技能実習生の日本語教育を請け負っています。技能実習1号から2号までの3年間を伴走しています。受け入れ開始の1期生から関わっており、今は、4期生を担当しています。累計で、40人以上の実習生の日本語教育を担当してきました。

介護の技能実習生ですから、夜勤や早番もあり、勤務のシフトもバラバラです。一同に会して授業をするのは難しいため、月1回の対面授業と非同期のオンライン学習とを組み合わせて、学習機会を提供しています。

介護の技能実習生の場合、入国時には、N4合格、入国後はN3レベルの日本語力が求められます。そこで、3年間を伴走しながら、プログラムを編成していますが、試験合格だけを目標にしているわけではありません。試験への対応も組み込みながら、彼/彼女らにとって必要なものは何かを考え、プログラムを編成しています。

ありがたいことに施設からも理解を得られ、4期生まで事業を継続することができました。今では、教育プログラムについては完全に任された状態で運営しています。

と、ここまでの話は、どちらかというと、このような学習の場を提供している施設がすごいのであって、私は、自分の専門性を提供し、淡々と進めているといったところです。

地域の日本語教育実践

今回のDIALOGOは、むしろ、ここからの話がメインになります。

技能実習生の日本語プログラムの一環として、地域との接点を作るための授業も取り入れてきました。初めて地域で1期生を受け入れたのは、2020年でした。この時期は、コロナ禍の影響をもろに受け、地域との接点はほとんど作れませんでした。しかし、感染状況が落ち着いてきて、そろそろいいかなと思った時期、1期生の実習期間がほとんど終わりかけていた時に、地域の小学校との交流会を企画しました。実習生が、はじめて教室外と接点を持った実践でした。

この実践では、自分たちの言葉で、小学生に自国の文化を伝えるにはどうしたらいいかということを考えました。はじめ、実習生は、ネットの記事をコピペして読み上げようとしていましたが、「それでは伝わらない」と何回もダメ出しをし、ついには、「私たちには無理だからキャンセルしてほしい」とまで言われた実践でした。

本番では、実習生に司会進行を任せ、実習生を中心に交流会が進みました。「こんなに多くの実習生がこの地域にいるとは知らなかった」とか、「日本語で普通にコミュニケーションが取れてびっくりした」という感想もありました。大きな手応えを感じた実践でした。

次に行ったのが、地域包括支援センターとコラボして行った「かんたん体操」の解説動画制作プロジェクトでした。これは、地域の福祉を支える専門職との接点を作るために行ったものです。来日して日が浅い段階でのプロジェクトだったので、こちらも大変な苦労をして制作しています。

そんなこんなで、徐々に地域との接点を増やしていった結果、翌年には、地域のイベントのオープニングで何かパフォーマンスをしてもらえないだろうかというオファーがありました。実習生に相談すると「ダンスをやりたい!」と話が盛り上がり、最終的に見事なダンスパフォーマンスを披露することになりました。

こんな感じで、地域との接点を増やしていきましたが、私が担当している実習生だけでなく、他の分野の外国人就労者も徐々に増えてきて、「近くに外国人が住みはじめて不安だ」という声もちらほら耳にするようになりました。

そこで、昨年は、「まちづくり推進事業」という町の事業に応募し、助成金をいただくことができました。ここでは、「体験プログラム」を企画し、実施することにしました。これは、まず、地域に住む外国人就労者、特に私の担当以外の就労者との接点をもつことを目的としたものです。

日本語授業を受託していれば、自然と接点が生まれますが、それ以外の地域で暮らす外国籍住民とは、私といえども、ほとんど接点がありません。「まちづくり事業」という町に採択された事業であれば、接点を作れるのではないかと思ったのです。

地域の事業者に協力いただき、人気のアクティビティを体験できるプログラムを企画しました。体験の機会を設けることで、地域を知ってもらい、町との接点を作ろうと思いました。チラシを作り、外国人を雇用している企業を1件1件まわり、参加を呼びかけました。

しかし、現実はそう簡単なものではありませんでした。呼びかけをしても、なかなか参加申し込みがなく、参加者集めに苦労しました。特に介護施設で働いている技能実習生や特定技能外国人は、シフトがバラバラで、同じ日に休みを取ることが困難でした。日本人が休んでいるときに、外国人が働いているということも改めて認識しました。

また、介護施設以外では、私自身、事業者との信頼関係ができておらず、アクセスが難しいと感じました。自ら積極的に申し込みができる人は少なく、申し込みには、事業者のサポートが必要でした。まず、事業者の理解を得ることが重要だと気付かされたのも、私にとっては、大きな学びでした。

今年も「まちづくり推進事業」に応募し、無事採択されましたので、外国籍住民を巻き込んだ活動をしようと考えています。ただし、私自身の負担があまりにも大きいため、昨年の反省を踏まえ、今年は、自分の担当する実習生を中心に活動を組み立てることにしました。個人ができることには、限界があります。

と、ここまでが、私のやってきた実践です。

私はなぜこのような実践を行っているのか?

地域に暮らす外国籍住民との接点を増やすということであれば、日本語教室を開くというのが、手っ取り早い解決策だと思います。実際、文科省では、日本語教室空白地域の調査(注)をしていますし、「日本語教室」という建て付けであれば、予算も取りやすく、事業者の理解も得られやすいと思います。

私自身も、まどろっこしいことをやっているなあと思いながら、これまで述べてきたような実践を繰り返しています。では、なぜ、あえて「日本語教室」を避けているのか。これには、2つの理由があります。

一つは、私の専門性に関わることです。もし、事業者が日本語教育が必要だと思うのであれば、その費用を事業者が負担し、専門家に委託するべきだと考えています。専門家であれば、その事業者にあった教育プログラムを提供できますし、それには、高い専門性が必要となりますから、それに見合った報酬を支払うべきだと思います。

「地域の日本語教室」というと、ボランティアベースで運営されていることが多く、無償というのが一般的になっていますが、持続可能なものにするためには、何らかの財源が必要です。日本語教育に専門性が必要だと認めるのであれば、その専門性に対して報酬が支払われる仕組みが必要です。

もう一つの理由は、「日本語教室」の中身に関わる問題です。「日本語教室」というと、「日本語学習が必要な人」「日本語支援が必要な人」を支援する場所として設計されることが少なくありません。つまり、そこに集まる人に対して、「日本語支援が必要な人」というカテゴリーを持ち込んでしまうことになります。

例えば、中国語教室であれば、日本人が新しい言語を学ぶ場として成立しますが、地域日本語教室の設計によっては、外国人が学ぶ側、日本人が支援する側という役割が固定化されやすくなります。

一方で、地域産業は外国人就労者によって支えられています。介護や建設業などでは、外国人がいなければ地域の生活そのものが維持できない場面もあります。その意味では、一方的に支援される存在ではなく、地域を支える担い手でもあります。

「日本語教室」で日本語を学ぶことには大きな意義がありますが、同時に、日本語ができる/できないという序列や、日本語母語話者が教え、非母語話者が教えられるという一方向の関係を強化してしまうことも考えられます。私は、この点にどうしても抵抗があり、「日本語教室を開設する」という手段を採用することができないのです。

DIALOGOでも、「日本語教室」という名前がよくないのではないかという話も出ました。はじめから交流を目的とする場が構築できればいいのですが、その場を「教室」と名付けた瞬間、やはり「日本語の学習」という場になりがちで、開設には慎重になります。

かくいう私も「日本語教室」には、長年関わってきました。長年にわたって運営されているボランティア教室では、徐々に「教室」の役割が変化し、今では「交流の場」として機能しているところもあるのではないかと思います。実際、DIALOGOではそのような方の発言もありました。しかし、新たに新設する場合、わざわざ「日本語教室」という名前をつけるのは、リスクがあるように思います。

地域に「日本語教室」は必要か

ここまで、私が「日本語教室」という形を避けている理由を書いてきました。このように考える背景には、私自身が日本語教育に対して感じている、一つの問題意識があります。それは、言語教育には「功罪」があるということです。

「功」の部分に関しては言うまでもなく、言語を学ぶことによって、その人個人の可能性を広げるという側面です。これまでも、日本語を学んだことによって、自身のキャリアを広げていった人をたくさん見てきました。これが私の仕事のモチベーションでもあり、これからもコミットしていきたいと考えています。

では、言語教育の「功罪」の「罪」とは何でしょうか。

私が考える「罪」とは、日本語のうまい下手によって、その人自身の価値が評価されてしまったり、言語にフォーカスすることによって、その人の可能性が狭められたりすることです。日本語の試験により、言葉だけでなく、人の価値に序列を生み出してしまうこともあります。

「日本語教室」に関して言えば、「日本語教室」という枠組みそのものが、関係性を規定してしまうのではないかというのが私の懸念点です。私は、日本語教育に関わるものとして、「功」だけでなく、「罪」の部分にも働きかけていきたいと思っています。

地域の活動に、あえて、言語によらない活動を盛り込み、交流の場を作ろうとするのは、この「罪」の側面への働きかけの一環です。答えがない活動なので、様々な実験をして、その可能性を探っています。私の探求テーマの一つでもあります。

文科省は、「日本語教室空白地域」の調査を行い、空白地域をなくそうという取り組みを行っています。これはこれで非常に価値のある取り組みだと思いますが、未だに「空白地域」となっている自治体には、何らかの事情があると思います。特に、私が住んでいる地域のような小規模な自治体では、予算も人材も足りない状況です。

そのような地域には「日本語教室」というカテゴリーだけでなく、もっと違った「何か」が必要ではないかと思います。その「何か」を探り当てるために、何だかまわりくどい実践を行い、実験を重ねているわけですが、少なくとも、これまでの「日本語教室」という枠組みだけでは届かない地域にとって、この「何か」を探ることが必要なのではないかと思っています。

さらに、業界全体を考えると、この「何か」が、これからの日本語教育に必要なのではないかとも思っています。

今回も、最後までお読みいただき、ありがとございました。


注)「日本語教室空白地域」の割合全国平均:38.2%
日本語教育実態調査 令和5年度報告 国内の日本語教育の概要」(2025)
文部科学省(p.25-26)


いいなと思ったら応援しよう!

ヒラサワエイコ 共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!