この世界は“心”が見ている夢なのか。“宇宙”が見ている夢なのか。意識が夢を見る、宇宙が夢を見る、その名を「現実」と呼ぶ『フワッと、ふらっと、精神解釈的量子論とユング心理学が重なる場所』
今年のノーベル物理学賞は、
量子力学「量子トンネル効果」の研究に贈られました。
トンネル効果とは、
粒子が本来は越えられないはずの壁を、
確率的にすり抜けてしまう現象のことを指します。

電子や原子といったミクロな世界で起きる不思議な現象ですが、
近年ではそれがマクロスケール(目に見える世界)でも観測可能であることが示され、話題を呼びました。
このニュースは、単なる物理学のトピックにとどまりません。
なぜなら、「超えられないはずの壁を越える」という現象は、

量子の不確定性だけでなく、
私たちの現実そのものの成り立ちを問い直す象徴でもあるからです。

量子の粒子が観測されるまでは、
波のようにあらゆる可能性を含んだ状態にあります。

しかし、誰かがそれを「観測」した瞬間に、ひとつの現実が確定する。

このような変化を「状態の収縮」や「波動関数の収縮」あるいは「波束の収縮」と呼んでいます。
相対性理論と共に現代物理学の根幹を成す、
主にミクロの世界を記述する、
量子力学の基本方程式をシュレディンガー方程式といいます。

(マクロの世界をミクロな系の無数の集まりとして解析することにより、量子力学によって巨視的な系を扱うことも可能です)
今年誕生から100年を迎え、科学史上類をみないほどの輝かしい成功をおさめた量子力学は、
基礎科学分野ばかりでなく、
現代の様々な応用科学やパソコンやスマートフォン、そして量子コンピュータといった最先端技術分野においても必須分野です。

しかし、「状態の収縮」(現実確定の瞬間)が、いつどうやって起きるのかを、

直接観測することはできず、

また「状態の収縮」をシュレディンガー方程式で記述することもできません。
そのため「状態の収縮」に関する、様々な量子力学上の解釈が生まれ、

それら解釈に関する議論を「観測問題」と呼びます。
この「観測問題」は、
量子力学の根幹にある最大の謎であり、
同時に「意識とは何か?心とは何か?」という心理学的あるいは哲学的問いにもつながっていきます。

ここから先は、その量子の不思議を、意識や心の観点から考察してみましょう。
精神解釈的量子論とユング心理学を往復しながら、「心が現実をつくる」という可能性を探っていきます。

1. 観測問題と「意識」の関与
量子力学の根本的な難題は、「観測問題」にあります。
電子や光子といった量子は、
観測されるまでは「確率的な波」としてふるまう曖昧な状態にあります。

波動関数と呼ばれる数学的表現は、

その曖昧さを確率的に示しますが、
観測が行われた瞬間に波動関数は「収縮」し、
ひとつの確定した結果が得られます。

問題は、
「誰が」「何によって」波動関数を収縮させるのか?
言い換えると、
「誰が」「何によって」現実を確定させるのか?
という点です。

ここに「観測者の意識」が関わるのではないかとする立場が生まれました。

これが、のちに「単精神解釈」「多精神解釈」などの意識を重視する「精神解釈」群につながります。
2. 多精神解釈(Many-Minds Interpretation)
多精神解釈(Many-Minds Interpretation)は、
デイヴィッド・アルバート(David Albert)やバリー・ロウワー(Barry Loewer)らによって提唱されました。
これは有名な「多世界解釈(Many-Worlds Interpretation)」の変形です。
多世界解釈では、
観測によって波動関数が収縮するのではなく、
すべての可能な結果が同時に、
「並行世界」として実現していると考えます。

観測の瞬間に宇宙は、
複数の物質的並行世界(パラレルワールド)に分岐し、
すべての可能性が現実として存在すると考えます。
私たちはその中の一つの物質的世界線を経験しているだけ、という立場です。

(多世界解釈については以下もご参照ください)
つまり、多世界解釈によれば、
認識できず、関わることはできないけれども、
並行世界には、物質的存在である「私」が無限に存在していると言えます。

多精神解釈では、
この「物質的並行世界」の代わりに、
観測者の「心的世界」が分岐すると想定します。
物質的世界は一つしか存在しないとし、
(そのため物質的存在である「私」が、分岐した物質的多世界において、無限に存在するということはありません)
個々人の「心的世界」が複数に分岐するというものです。

無意識の世界である夢の中では、
現実世界における「私」とは、
職業も年齢も家族も関係者も、
過ごしている場所も時代も、
全く異なる「私」が登場することがあります。
つまり、実際に心的世界においては、現実世界とは異なる「私」が複数存在しているといえます。
夢の世界も「心的世界」ですから、このように「心的世界」が複数に分岐するという考えは、
「多世界解釈」に比べても、とりわけ不思議な感じがするものではないことでしょう。
たとえば、Aという人が、ある試験を受験し、
(Aの学力は合否ボーダーライン上にあり、受験日の体調や天候、心理状態、出題の難易度、出題との相性等の偶然の事情に結果が大きく左右される状態にあったとします)
その結果を待っている状態を考えると、
試験結果を見る前は、物質的世界においては、
量子力学に従い、
「合格」と「不合格」の重ね合わせ状態(曖昧な状態)にあり、

試験結果を見ると、そのいずれかが現実世界に現出します。

多精神解釈では、
観測者が試験結果を見た瞬間、
Aの「合格」と「不合格」の、
両方の結果に対応する二つの心的状態が生まれ、
つまり複数の心的世界が生じ、そのいずれかを、
各々が自分の「現実」として認識します。
Aが自身が受験した試験結果を「合格」と観測したのであれば、

物質的世界(Aの身体、脳の状態)では、
依然として「合格」と「不合格」の重ね合わせ状態にあるのですが、

(つまり、多世界解釈と同様に物質的世界においては、状態の収縮は起こらない)
Aの心的世界(心の状態)は、
試験結果を「合格」と認識するということです。

この点は、不思議な感覚がするかもしれませんが、
このように、多精神解釈では、
心は物質(身体、脳)とは異なるとし、
物質的世界(脳の状態)と、
心的世界(心の状態)の時間発展をまず区別します。
つまり物心二元論です。
観測者の心が「合否」の状態が重なったままでは、
「自分はどの結果を見たのか」を確信できません。
そのため、心そのものは常に「はっきりした一つの状態」にあると考えます。
その一方で、身体や脳といった「物質的部分」は、
物質であるがゆえに、量子的な重ね合わせ状態になっていてもよいと、多精神解釈では考えます。
つまり、「身体や脳はあいまいなまま」でも、
「物質ではない心はあいまいな重ね合わせ状態にはならず、明晰な状態にある」
という二元論的な構図になります。
観測者が観測するしないにかかわらず、
その人の身体や脳は、常に量子的な重ね合わせ状態にあります。
(言い換えると、物質的世界は、常にあらゆる可能性が重なり合った状態にあるといえます)
先の例で考えると、
Aの目や脳は常に「合格・不合格の両方の結果」を同時に見ていますが、
Aの心(意識)は、
観測によりその中から「どちらか一方」を確率的に選び、
確定された心的世界、つまり現実的世界を構成します。
そして、それ以外の他の「心的世界」は分岐して、
Aの意識からは見えなくなります。
ただ、意識からは見えなくなるだけで、どこかには存在します。
深層心理学的には、
そのどこかは「無意識の領域」あるいは、
後述する無意識よりもさらに深い層にあるとユング心理学で考えられている、
「プシコイド的領域」と言えることでしょう。
多精神解釈と同様に物心二元論を採り、
多精神解釈に類似性のあるフォン・ノイマンの解釈では、
意識によって物質的世界の状態が収縮する、
言い換えると、
意識が物質的世界に影響を及ぼすとするのですが、
多精神解釈では、
状態が確定的になるのは(このケースの場合は「試験に合格」)、

心的世界(心の状態)の中だけで、
物質的世界(身体、脳の状態)では、
「合格」と「不合格」の重ね合わせ状態のままであり、

そのため意識が物質的世界に影響を及ぼすことはないとします。
つまり標準的解釈(コペンハーゲン解釈)では認めない、
物質的世界の実在を認める考え方です。
2022年のノーベル物理学賞を受賞した実験(アラン・アスペ等の実験)で、
アインシュタインらが主張していた、
隠れた変数理論が否定され、
局所実在性の破れが確認されましたが、
標準的解釈といえる現代的コペンハーゲン解釈は、
その局所性(ある場所で行われた行為や起こった現象により、離れた場所の結果が直ちに変わることは無いというもの)
と実在性のうち、
実在性が破れているとし、
驚くことに、
観測前に物質は実在しない、存在しないと解し、
観測者の行為が、現実を確定させるという立場です。
(参考動画)
この立場に基づいた、意識が観測する前の世界は、
物質空間ではなく、情報空間であり、
いかなる物質的実在も存在せず、
観測をすることによって、その観測者にとっての、現実世界が生じるとする考え方があります。
このような考え方はまさに大乗仏教の経典である「般若心経」に記述されている「空即是色」的だといえることでしょう。
これと異なり、多精神解釈は、実在性を捨てきれない立場ともいえることでしょう。
多精神解釈では、
このように物質の実在性を保持するので、
(ただ物質空間は全て数学によって記述できる(つまり情報)とするならば、
物質空間と情報空間は同義(色即是空)となり、
標準的解釈は「空即是色」的に、
多精神解釈は「色即是空」的に、
世界を見ているといえるかもしれません)
Aが心的世界において「合格」と認識した後も、

物質的世界では、
Aの試験結果が「合格」と「不合格」の重ね合わせ状態のままです。

では、Aが心的世界において「合格」と認識し、
例えば友人Bもそれに同意し、一緒に喜んでくれていながらも、

(Aの心的世界においては「合格」が確固たる事実となっているため(実はそれはいまだ重ね合わせ状態にある物質的世界からすると幻想なのですが)、他人もその事実に同意することでしょう)
Bの心的世界では、Aの試験結果を「不合格」と観測した場合、どうなるのでしょうか。

つまり、Aの意識が観測した心的世界(心がある世界)の現実と、
Bの意識が観測した心的世界(心がある世界)の現実が一致しない場合はどうなるのかということです。
多精神解釈では、
この場合のAの心的世界に現れるBには、
「心的世界(心の状態)がない」とします。
つまりこの場合のBは、Aの心的世界内では、
意識がない、心が無い、
ゾンビやアンドロイドのようなものとなります。

一方、Bの意識が、
Aの試験結果を「不合格」と観測し、
それに同意したBの心的世界にいるAも、
やはり意識がない、心が無い、ゾンビやアンドロイドのようなものとなります。

そのため、このままでは各自の世界には、自分1人しかいない唯我論(独我論)となる可能性があります。
唯我論を受け入れるのであれば、それでもよいわけですが、そうでなければこの点が問題となります。
この問題を解決するために、
多精神解釈では、
意識がある者は全て、
連続無限の「心の集団」を持つとします。
(そのためこの解釈を「多精神解釈」と呼びます)
個々人の「心的世界」が潜在的に無限にあると言い換えることができることでしょう。
そしてAが試験結果を観測した場合、
Aの「心の集団」の半分は「合格」と認識し、

もう半分は「不合格」と認識することになります。

Aの心的世界がこのように分岐するといえます。
Bも同様で、
Bの「心の集団」の半分は心的世界において、
「Aが合格」と認識し、

もう半分は「Aが不合格」と心的世界において認識することになります。

このように考えれば、
Bの心的世界内においても、
「Aは合格した」と認識するBもいれば、

「Aは不合格であった」と認識するBもいて、

Aの心的世界において、
Aの「Aは合格」の認識に同意するBも、

Bの心的世界において、
Bの「Aは不合格」の認識に同意するAも、

いずれも「心的世界がある」ということになり、
両者の現実が一致する心的世界(心がある世界)が存在するため、
心を持たない、意識がない、
ゾンビやアンドロイドのような存在を消し去ることができます。

なお深層心理学的には、次のように考えることができることでしょう。
本ケースで、
Aの「意識」が「Aは合格した」と認識した場合、

「Aは不合格であった」とするAの「心的世界」は、

「無意識の世界」に溶け込んでいったと解することができます。
夢は無意識の世界であるので、
現実世界(意識の世界)では合格しているのに、

「不合格になった夢を見ている」という状態がこれにあたることでしょう。

「意識」も「無意識」も「心的世界」なので、
深層心理学的には「多精神解釈」をこのように解することができます。

「多精神解釈」は、
「心的世界は根源的に連続無限的にある」
そして意識が、ある特定の心的世界(例・試験に合格した世界)を、
認識することにより、
その他の心的世界(例・試験に不合格の世界)が分岐するため、
「心的世界は複数ある」としますが、
(もともと連続無限的にある心的世界が、観測によって分岐しているに過ぎないので、複数あるといっても、増えているわけではありません)
しかし、「物質的世界は一つしかない」とするため、
「多世界解釈」(これも実在性を保持する立場です)のように、
「物質的世界が物理的に無限に分岐する」

つまり、「無限の物質的パラレルワールド」が生じる、

「物質的な私が無限に存在する」
といったような複雑なことを考えなくてもよいというメリットがあります。
そのようなメリットがあるにもかかわらず、
「多精神解釈」は「多世界解釈」よりも量子力学者の支持が多くなく、非常にレアな解釈といえます。
「多精神解釈」を掲載している日本語文献もごくわずかです。
「多精神解釈」によると、
「物質的世界」は量子力学的法則に従うのですが、
「心的世界」は量子力学では記述できないからというのがその理由だと思われます。
一方、心理学は「心的世界」を記述するものなので、「多精神解釈」に親和性があるといえ、
「多精神解釈」を、
心理学的とりわけ深層心理学的に記述するという試みは興味深いものかもしれません。
3. 単精神解釈(Single-Mind Interpretation)
前述のように「多精神解釈」では、
「心の無い他人、ゾンビやアンドロイドのような他人の存在」

という問題の解決を図る必要がありました。
(唯我論(独我論)を良しとするのであれば、その問題の解決を図る必要はありませんが)
そして、
意識がある者は全て、
連続無限の「心の集団(心的世界)」を持つという考えを導入し、

その解決を図りました。
「多精神解釈」の変形バージョンである、
「単精神解釈」では、
よりシンプルにこの問題を解決します。
それは、
「意識を持つ全ての者は共通の心を持つ」
つまり「普遍的精神(共通心的世界、集団的心的世界)」があるとします。
(そのため「単精神解釈」よりも「普遍的精神解釈」と呼んだほうが意味が通りやすいかもしれませんが、ここでは通例に従い「単精神解釈」と呼びます)
前述の例を「単精神解釈」で考えると、
自身が受験した試験について、
Aがその意識的心的世界内で「合格」を観測(認識)すると、
Aと共通の意識的心的世界(共通心的世界;集団的心的世界)に住まう、
つまり、Aと同じ現実を共有する意識的心的世界に住まう、
全ての他人も同じく「Aの合格」を観測するということになります。

しかし、
やはり依然として物質的世界では、
「合格」と「不合格」の重ね合わせ状態のままであり、

「Aが不合格」となる、
A及びA以外の全ての他人の世界(共通心的世界)も存在することでしょう。

「単精神解釈」でもこの、
Aの意識が観測しなかった、
他の共通心的世界(集団的心的世界)に住まう者は、
(つまりこのような共通心的世界(集団的心的世界)も、意識が観測することにより、現実的世界と観測されなかった世界とに分岐する、複数あるということになります)
「意識的な心の世界がない(意識的な心がない)」
ゾンビやアンドロイドのようなものだと解しますが、

「単精神解釈」では、意識が観測し、
現実として確定させた共通心的世界(集団的心的世界)に住まう者は、

それ以外の、観測されなかった他の共通心的世界(集団的心的世界)が意識上に現れることはないため、
意識的な心がない、
ゾンビやアンドロイドのようなもの達とは出会うことがないと解し、

実質的にこの問題を避けられるとします。

「多精神解釈」は、
物質的世界が分岐する(多世界解釈)のではなく、
個々人の「心的世界」が分岐するというものでした。
対して「単精神解釈」は、「共通心的世界(集団的心的世界)」が分岐するといえることでしょう。
そのため、「単精神解釈」のほうが「多精神解釈」よりも、よりシンプルな考えになっています。
深層心理学的には、
前述におけるAの意識が観測(認識)しなかった、
「Aが不合格」となった「共通心的世界(集団的心的世界)」に住まう、
A及びA以外の全ての他人は、
意識的世界にいるのではなく、
無意識的世界に溶け込み、
無意識的世界である夢の中には現れるかもしれませんが、
(そのため、夢の登場人物達は、意識がないような、人間的な感情が希薄な虚ろな者達に感じるのかもしれません)

起きて見る意識的世界(私たちが現実だと認識している世界)には現れないと解することができることでしょう。

現象学では、事物の存在は、二人以上の認識の突合せがされて、それにより客観的な存在であると確信されるとします。
(このような考えを「間主観性」といいます)
つまり、客観とは、集団的な共通認識による確信という幻想から生まれてくるといえるのですが、
「多精神解釈」や「単精神解釈」はこのような考え方とも響き合います。

ユージン・ウィグナー(Eugene Wigner) や
ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann) の思索は、
ここまで見てきたような精神解釈に近いと言えます。
(違いは、前述のようにノイマンは意識が物質的世界に影響を与えるとするのに対して、精神解釈は影響を与えないとする点です)
ウィグナーは、
物理的な観測装置だけでは波動関数の収縮を説明できず、
最終的に「意識」が観測を完了させると主張しました。

つまり、精神解釈においても、
ウィグナーらの考えにおいても、
この世界で「確定した現実」が立ち上がるためには、
観測者の意識という「最後の審級」が必要だというわけです。

4. ユング心理学における「集合的無意識」と「プシコイド」
スイスの心理学者 カール・グスタフ・ユング(C.G. Jung) は、

個人的無意識を超えた層として「集合的無意識(collective unconscious)」を提唱しました。
それは人類に共通の生得的・遺伝的な心理的基盤であり、
神話・夢・宗教的象徴などに共通して現れる元型(archetype)がそこに潜むとされます。

集合的無意識は、誰しもが生まれ持っている、
個人の経験を超えて存在する「心理的背景」であり、
(一方、後天的かつ個人的な無意識領域を「個人的無意識」といいます)
私たちの心的現象はそこから湧き上がるパターンによって構成されています。
ユングによれば、夢や直観、象徴的体験などは、集合的無意識が個人意識に投影された現象です。
5. プシコイド(psychoid)とは
ユングは後期思想において、心と物質の境界を超える概念として「プシコイド(psychoid)」という概念を導入しました。
(「プシコイド」は、「サイコイド」、「類心的無意識」、「類心領域」と呼ぶ場合もあります)
これは「心的(psyche)」と「物的(physis)」の中間領域にある存在様式であり、
意識することができない、
無意識の最も深い層のそのさらに奥にあるとされる、
心と物質を媒介する根源的実在を指します。

ユング心理学では、
この「根源的世界」ともいえる領域があるとし、
心と物質がもとは同一の根に発しているとする心物一元論(psychophysical monism)を示唆しました。

これは量子力学的世界観における、
「観測者と観測対象の相互依存性」
と響き合う点です。
6. 量子論とユング心理学の接点
量子論もユング心理学も、
現実とは観測者と対象の相互作用によって成立するという立場を共有しています。

量子論では、観測がなければ現実は確定しない。
ユング心理学では、心の内的投影が世界を構成する。

どちらも、「意識(または心)」が現実構成の一要素であるとする点で一致します。
この観点から見ると、量子論の「観測者効果」は、
ユングの「元型的投影」の自然科学的アナロジーと捉えられます。

つまり、私たちが世界を観測するとき、
ただ外界を受け取っているのではなく、
無意識的な構造(元型)を通して、
現実を意味づけているといえることでしょう。

7. 精神解釈とプシコイド
ユングが後期思想で導入した「プシコイド」は、
心(psyche)と物質(physis)を分ける以前の根源的領域を指します。
それは、心と物質がまだ分化していないあいだの場であり、
現象世界における意識や物質の二重性を超える中間的存在です。
このプシコイドの考え方は、「精神解釈」や「多世界解釈」「標準的解釈」と深く共鳴します。
なぜなら、いずれも「一つの現実」ではなく、
「潜在的な多様な現実の重なり」を前提にしているからです。

量子の世界では、
すべての可能性が重ね合わせの状態で共存し、

観測によってその一部が選ばれる形で顕在化します。

それはまさに、プシコイドが示す、
「心と物質の未分化状態」と構造的に似ています。
プシコイド的視点から見ると、
量子の重ね合わせとは、

複数の心的・物的ポテンシャルが共存している状態であり、
観測という行為(=意識の焦点化)によって、
その一部が現実として立ち上がる。

このとき、選ばれなかった他の可能性も、
意識できない、
無意識的世界あるいは、
プシコイド的な「未分化の場」に、潜在的に残り続けます。

したがって、プシコイドは単なる心と物質の中間というより、
無数の可能的現実を内包する根源的層と考えることができます。

この意味で、プシコイドは、
精神解釈や多世界解釈、標準的解釈などの心理学的アナロジーであるとも言えるでしょう。

「精神解釈」でいう、常にあらゆる可能性が併存し、重なり合っている「物質的世界」は、
無数の可能的現実を内包する、
根源的層であるプシコイド的領域といえるかもしれません。
8. 単精神解釈と集合的無意識
一方で、「集合的無意識(collective unconscious)」は、
人間の個を超えた普遍的な心の層としてユングが提唱しました。
そこには、人類共通の元型や象徴が潜み、

私たちの意識体験は、
その普遍的構造の上に築かれています。
この集合的無意識は、
単精神解釈の「普遍的精神(universal mind)」
ときわめて親和性が高い概念です。
集合的無意識があるからこそ、
誰に教わることもなく、
自然の豊かな風景を見て、その感動を他人と共にしたり、

喜びを分かち合えたり、悲しみの感情や、様々な経験を共有したりすることができます。

これらの意識体験は、
集合的無意識から湧き上がる、集合的意識つまり、
集合的無意識から生じる普遍的精神によるものといえることでしょう。
ユング心理学によれば、集合的無意識を通じて、私たちはつながることができる、同じ現実を共有し、共に体験できるということになります。

9. 量子的意識とユング的象徴世界の統合的視座
量子論とユング心理学を横断して見えてくるのは、次のような統合的世界像です。
現実は固定的な客観世界ではなく、
観測者(意識)との関係性によって生成される。

意識は個的でありながら、
集合的・宇宙的な次元に根ざしている。

心と物質は根源的には一体であり、
その中間にプシコイド的領域がある。

この見方を現代的に言い換えれば、
宇宙そのものが意識的プロセスを内包する、
自己生成的システムである、

ということになります。
つまり、私たちが「世界を観測している」のではなく、
世界が私たちを通して自らを観測しているといえます。

目は私達の観測を意味し、
全宇宙は私達の観測により創発している、
そして、世界が私たちを通して自らを観測している
ということを表現しています。
「心と物質は根源的に同一の現実の二つの側面である。」
そこでは、
現実は一つの普遍的意識の夢のようなものであり、
私たち個々の意識はその夢の中の登場人物にすぎないといえます。

10. 量子力学とユング的心的宇宙の融合点
量子力学的な視点は、
ユング心理学の「集合的無意識」や「プシコイド」などと、構造的に響き合う点があります。

このように見ると、量子力学とユング心理学は、
現代物理学と深層心理学の両側から、
「意識と現実の接点」を探る試み、
として統合的に理解できます。
それは単なる比喩や類推ではなく、
「観測=意識=世界生成」という、
根源的プロセスを異なる次元で記述している二つの言語体系といえることでしょう。

参考)本稿にご興味持たれさらに深掘りされたいとお感じになった場合は、是非以下のnoteもご参照ください。
より深い探求の旅に誘われることでしょう。
『ユング心理学について』
『ユング心理学の進化系ともいえるトランスパーソナル心理学について』
「コペンハーゲン解釈や多世界解釈について」
「ウィグナーの理論について」
参考文献)
いいなと思ったら応援しよう!
いつもチップでの応援ありがとうございます!いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。