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主語を言わない日本語、主語が絶対ほしい英語。川端康成「雪国」から考える言葉の面白さ

こんにちは!えひめITラボのせいけです。

今回は、ちょっと頭を柔らかくして、日本語と英語の「主語」の違いについてお話しさせてください。

日本語って、主語がなくても普通に通じますよね。でも英語は主語がないと文が成り立ちません。この違いが、文学の世界でどんな面白い差を生み出しているのか、有名な小説を例にのぞいてみましょう。

(今日の一言: 鳥取砂丘を見てきました!砂漠とか砂丘好きなので鳥取県民が羨ましいです...)

なぜ日本語は主語を隠したがるのか?

私たちは普段、無意識のうちに主語を省略して話しています。

例えば、友達に「ラーメン食べた?」と聞くとき、「あなたは」とは言いませんよね。聞かれた相手も「食べたよ」とだけ返します。ここに「私は」という言葉は登場しません。

日本語は、その場の状況や空気でお互いに「誰のことか」を察し合える、とても省エネな言語です。ある意味で、お互いの関係性やその場のつながりを重んじる言葉とも言えます。

一方で英語はそうはいきません。
「Ate ramen.」だけでは、「誰が食べたの?」と聞き返されてしまいます。「I ate ramen.」や「You ate ramen.」のように、必ず「誰が(何が)」をハッキリさせないと、文として落ち着かないルールになっているからです。

「雪国」の冒頭が翻訳者を悩ませた理由

この「主語のある・なし」の違いが、翻訳者を一番悩ませたと言われる超有名な一文があります。川端康成の小説『雪国』のスタートです。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

とても美しく、口ずさみたくなるような名文ですよね。でもこれ、英語に訳そうとすると、翻訳者は頭を抱えてしまいます。
なぜなら、この一文には「誰が」トンネルを抜けたのかが書かれていないからです。

誰が抜けたのか?という問題

英語にするためには、主語を決めなければいけません。
汽車が抜けたのか、それとも主人公の島村が抜けたのか。

実際に、エドワード・サイデンステッカーという翻訳者が手がけた有名な英訳では、次のように訳されました。

「The train came out of the long tunnel into the snow country.」
(汽車が長いトンネルを抜けて雪国に入った。)

ここでは主語を「The train(汽車)」に決めて訳しています。とても自然で分かりやすい英語です。
でも、日本語のニュアンスと比べると、少し受ける印象が変わりませんか?

言葉の裏にある「カメラの位置」の違い

日本語の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という文を読むとき、私たちはまるで自分が汽車に乗っていて、暗いトンネルからパッと白い雪景色が目の前に広がるような、主観的な映像を頭に思い浮かべます。自分自身がその風景と一体になっている感覚です。

一方で、英語の「The train came out...(汽車が出てきた)」という文になると、カメラの位置が少し外側に移動します。外から走ってくる汽車を客観的に見つめているような、少し冷静な視線を感じるようになります。

日本語は「その場にいる人の目線」を大切にし、英語は「状況を客観的に説明する目線」を大切にする。主語があるかないかで、物語の見え方やカメラワークまで変わってしまうのは、本当に面白いところです。

AIにとっても簡単なことではない「行間」を読む力

最近は翻訳AIの精度がとても上がっています。簡単な文章であれば、一瞬でそれっぽい翻訳を作ってくれます。

しかし、今回お話ししたような「あえて主語を書かないことで生まれる余韻」や「風景と一体になる感覚」を、別の言語にどう落とし込むかという問題は、AIにとっても簡単ではありません。

AIは言葉を正確に置き換えることは得意ですが、「書かれていない行間や気配」をどの主語で補うべきかを判断するには、まだ人間の感性や解釈が必要な場面も多いと感じます。こうした言葉の奥深さを知ることは、私たちがAIをどう使っていくかを考える上でも、とても良いヒントになりそうです。

おわりに

今回は日本語と英語の主語の違い、そして『雪国』の訳の難しさについて考えてみました。

普段当たり前に使っている日本語ですが、主語をあえて言わないことで、私たちはとても豊かな世界観や余韻を楽しんでいるのかもしれません。

言葉の仕組みって、本当に不思議で魅力的です。またこうした面白い発見があれば、皆さんと共有できればと思います。

オーディブルにもありますので無料体験でぜひ。

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