魏志倭人伝1:倭人伝の不思議
「魏志倭人伝」て何だろう・・・と聞かれたも、日本古代史に興味のない人にとってあまり響かいない質問だと思います。
では「卑弥呼」はどうでしょう?
Googleで卑弥呼を検索すると、出てくるのがファッション系のブランド「卑弥呼」でした。
女性には卑弥呼はミステリアスで美しい、魅力的な響きがある名前なのでしょう。
次に、女王卑弥呼が治めていたとされる「邪馬台国」がどこにあったかご存知ですか?
これが実ははっきりしないのです。
なぜなら、魏志倭人伝の邪馬台国への道案内がいい加減だからなんです。
「魏志倭人伝2:邪馬台国よ・・・何処に」参照
その結果、邪馬台国は、はたして大和政権であったのか、はたまた北九州にあった政権なのか、など「邪馬台国畿内説」と「邪馬台国北九州説」が鋭く対立し、現在でも歴史学会という学問の世界では侃々諤々の論争の的となっています。

そして最後に「魏志倭人伝とは何?」に行き着きます。
ここまで来ると、「教科書で見た」程度で、普通は興味は薄れていきます。
しかしここには、3世紀中頃の「倭」と呼ばれた日本列島の土着民、すなわち私たちの祖先の生活や習慣がけっこう克明に描かれていて、他にこれほど具体的で詳細に記された書物はありません。
そしてなかなか興味深いのです・・・例えば
❖ 男子はみな顔や体に入墨をしている。入墨はそれぞれの國や身分によって違う。
❖ 漁民は好んで潜って魚やハマグリを獲る。
(まだ釣り針や、漁網を使った漁法が発達していなかったことを意味するのでしょうか。)
❖ 風俗は淫らでない。男子は皆髷を露わにし、木綿の布を頭に掛けている。衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけで、ほとんど縫い付けていない。婦人は髪を結んだようで、衣服は単衣のように作られ、中央に開いた穴に頭を入れて着ている。
(婚姻制度は確立していて、すでに綿花を栽培し木綿の布を普通に使っていたのでしょう。)
❖ 稲・いちび・紵麻(からむし)を育てている。また桑と蚕を育て、糸を紡いで織物を作る。
(中国発の絹織物の技術が倭に伝わっていたことを示すものです。自分たちは木綿の布を粗末に来ているだけなのに、高価な絹織物の生産しています。おそらく卑弥呼は絹織物を着ていたのでしょう。)
(「「大和政権」とは何だったのでしょう?」参照)
❖ この地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
(家畜である牛・馬・羊がいなかったということは、3世紀半ば以降に持ち込まれたことになります。すなわち、それ以前のいくさには馬が使われなかったことになり、人の移動手段も徒歩か、舟だったのでしょう。)
❖ 兵器には矛・盾・木弓を用いる。竹の矢は鉄あるいは骨の鏃である。(不思議にも、武人の魂である剣・刀は記されていません。)
❖ 倭の地は温暖で、冬も夏も野菜を生で食べる。みな裸足である。
❖ 家屋はあり、父母兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。
(家屋は同族でも別れて住む縦穴式住居だったと考えられます。)
❖ 人が死ぬと、十日余りもがり(喪)し、その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の人々は歌舞・飲酒する。埋葬は、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる。終わると一家をあげて水中に入り体を清める。
(すでに殯と禊の風習があったことが記されています。総じて小さな円墳の様な墓だったのでしょう。)
❖ 卑弥呼が死んだので大いに冢を作った、径は100余歩である、殉葬された奴婢は100余人である。
(卑弥呼の死に、径100歩の円墳を造りました。前方後円墳という特殊な形態には触れていません。1歩を0.6mとしますと直径60mになります。)
❖ 事業を始めるときや往来などの時は骨を灼いて卜し、吉凶を占う。
(骨卜の風習がすでに行われていました。中国から伝わった風習です。)
❖ 身分の高いものは皆四、五人の妻を持ち、身分の低い者も二、三人の妻を持つ。婦人は淫せず、やきもちは焼かず、盗みかすめず、訴えごとは少ない。法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い者は一家及び宗族を滅ぼす。身分の上下によって各々差別・順序がある。
(一夫多妻制ではありましたが開放的で、平和な社会を暗示しています。)
その他にも、興味深い記述がありますが、ここからは、当時の「倭」が比較的穏やかな社会であった様子が描かれています。
人々の暮らしの記述からは、とても強固な軍事国家を想像できません。
しかし、一方、魏志倭人伝には「倭国は元々男王が治めていたが、長く騒乱が続いた(倭国大乱)。そこで倭の諸国間で話し合い、卑弥呼と言う女子を王に共立すると、争いが収まった。」と書かれた部分があり、この「倭国大乱」を重く捉え、倭は軍事大国であった、とする意見もあります。
その倭国大乱は不思議にも、卑弥呼が女王に就くことで無事収まりました。
「卑弥呼は鬼道に仕え衆をを惑わした」とありますので、彼女は巫女で妖術使いだったのでしょう。
ところで、中国歴代の軍事国家で、女性が王であった国家はありませんでした。
そういえば、この魏志倭人伝の「魏」とは「三国志」に出てくる魏・蜀・呉のうちの一国のことです。
また小説「三国志演義」を通して、日本では、男性には最も有名で人気のある中国の歴史時代だったのです。
すなわち、男が自身の知恵と腕力でのし上がっていく世界だったのです。
もちろん三国の王は全て男(魏の曹操・蜀の劉備玄徳・呉の孫権)です。

だから、女王が治める倭の「邪馬台国」は当時、稀有な国だったことになります。「魏志倭人伝7:卑弥呼のヒミツ」
魏志倭人伝をもう少し詳しく見ていきましょう。
魏志倭人伝とは中国で書かれた書物で、3世紀中頃の「倭」の習俗を記したものです。
正式には歴史書『三国志』の中の「魏書」第三十巻 烏丸鮮卑東夷(うがんせんぴとうい)伝倭人条 だそうです。
烏丸・鮮卑とは、共に北方の遊牧騎馬民族を指し、倭は東夷の中に含まれた国でした。
中国には古来より現代まで、「中華思想」という考え方があります。
すなわち、自分たちが世界の中心である、という考え方です。
当時の中国が唱える「中華思想」では、その中心は黄河中流域の華北地域にあり、周辺を 東は「東夷」・南は南蛮・西は西戎・北を北狄と呼び、蛮族の住む地域として、蔑んだ表現で表しました。
最も、のちに日本でも権力側は、中華思想のミニ版を持て囃し、例えば京を中心に東北を蝦夷と呼んだり、南蛮貿易という言葉も残っています。
戦前に唱えられた「八紘一宇」思想もそのようなものでした。

歴史書『三国志』は西晋の陳寿が三世紀末([呉の滅亡]280年~[陳寿の没年]297年の間と考えられています)に著した歴史書で、時代的には三世紀中頃を描いていて、比較的リアルタイムな書だったことになります。
因みに古事記・日本書紀は8世紀前半に、この魏志倭人伝の時代も含む「日本の遠い歴史」まで遡って記述・編纂されたものです。
中国では正史を編纂するのは、対象となる「国」が滅亡した後、その次に勃興した国が行う慣しがあるそうです。
そのため魏の人物ではなく、その後に興った西晋の陳寿が書き記したのです。
ただ、現実の作業を想像するに、烏丸鮮卑東夷伝に限れば、魏の官吏が残した文書を整理する形で作られたものだと考えるのが自然でしょう。
ではそれらの文書はどのように作られたのか想像してみます。
魏志倭人伝は一見、倭の習俗などを、学術的に言えば現地調査した文化人類学的調査報告書に思えますが、当時はそんな「学問」はありませんでした。
また古来より、中国民族は究極のプラグマティストと言われています。
自分たちが戦乱の真っ只中にあって、無駄なことはしません。
おそらく、軍事的な周辺視察のレポートと考えるのが妥当だと思います。
魏は当時、西の蜀、南の呉と三つ巴の戦いを繰り広げていました。
魏にとって、蜀、呉は国の存亡をかけた、真剣に向き合う敵でした。
また北狄は匈奴など北方遊牧騎馬民族など、これまた強力な敵でした。
中国の歴代王朝が長い年月かけて「万里の長城」を築造してきた理由は、まさに北狄の侵入を防ぐことだったのです。
しかし東の東夷はと言いますと、高句麗を除いては、弱小勢力が点在した地域で、軍事的脅威となる敵はいないと考えていたことが想像できます。
中でも、朝鮮半島から更に海中に途絶えた洲島、そしてその先には無限大の海以外何も無い(当時はその様に信じられていたでしょう)地域の倭に、どの程度の軍事調査の必要性を感じていたのか、ほぼ皆無だったでしょう。
しかし「東夷伝倭人条」は作られました。
なぜか?・・・のヒントは「伝」と言う字にあるのではないでしょうか。
倭を管轄にしていた魏の出先機関は「帯方郡」でした。
そこは、朝鮮半島西部の紀元前から続く、中国歴代政権の植民地の一つでした。
役所ですから、当然、洛陽の都からは、倭も含む東夷の政情報告書を上げることが求められました。
しかし、魏にとって脅威になる可能性のほぼない倭に、わざわざ軍船をひき出して日本列島を巡視する手間をかけたとは思えません。
また、都もその辺はわかっていて、そこまでの経費をかけた正確な報告は求めなかったのでしょう。
そのためか、報告書は、倭の習俗などについては、驚くほど詳細だったのですが、一方、地理情報など本来調査で重要なものが、大雑把だったのです。
本州の陸路や日本海沿岸、瀬戸内海の海路、途中の、当時大きなクニだったと考えられる、出雲、吉備などの地理情報は、全く抜け落ちています。
たとえ帯方郡という偏地に飛ばされた官吏でも、痩せても枯れても役人ならば外すことのないような「勘所を抑えた仕事」とは思えません。
そうなれば考えられるのが、おそらく魏の官吏による実地調査書ではなく、倭を見聞きした複数の人物から、聞き取りそのまま書き写すという、伝文集
となったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
そこで、中国は漢字の発祥地です、漢字の使い方には正確を期しました。
正直に「倭人『伝』」としたのだと考えられます。
仮に、魏の官吏による実地調査書だったら、最も重要な軍事情報である倭の都と考えられる邪馬台国の位置情報は正確だったはずです。
そして、今日に至るまで、日本で、その位置について侃侃諤諤の議論が続くこともなかったのです。
また、卑弥呼についても実像が記されていたはずで、実はそんなにミステリアスな、美しい女性ではなかった可能性もあります。
「魏志倭人伝」は、当時の魏や西晋にとっては、東夷の一島嶼地域を記録した伝聞集程度の書物だったのでしょう。「魏志倭人伝3:倭人伝はどの様に作られたのか」
しかし、私たちに取っては、当時の倭の習俗を知る上で、これほど貴重な資料は他に見当たらないのではないでしょうか。
