現在の宗教と称するものはほとんど宗教から反している、団体が宗教に反する、ただ仲良くする (一部抜粋)
矢追日聖法主さんの法話より。
全文はこちらまで(https://note.com/enman1204/n/n0aa7f63be5be)
・・・前略・・・
現在の宗教と称するものは全て宗教から反している、団体が宗教に反する、ただ仲良くする
現在の宗教と称するものは、ほとんどが神の道とか人間の道の根本的な教えに逆らっているんです。『すさのお』にも書いておきましたけれども、 宗教団体というようなものができる、これが宗教を根本から破壊させていく一つの動き方です。言い換えれば、宗教団体が発展すればするほど、宗教の質は低下する事をよく知ってほしい。
現在は宗教法人法があり、宗教団体というものが日本だけでもたくさん作られています。けれども、信仰する一つの宗教に対して、そういうような信仰する人間の集まり、グループ、団体が大きくなればなるほど、宗教の中身が伴わなくなっていく。
えらい簡単な言い方しましたけれども、これを端的に受け取って理解できる人はあまりいないと思うんです。頭では理解できたとしても、それが自分の本質、心の中から本当に感じ取れる人がどれだけおるだろうかと考えた時、いつも情けない気持ちになるんです。
一つの宗教団体というものは、特定の目的を定め、組織力をもって信仰する人たちを団体の中へ取り込んでしまう。宗教を、決められた枠とか教義とか、そんなもんで括るべきじゃありません。
宗教とは人間一人一人が心の中においてつかむものであって、幸せのために信仰すると言っても、 このあいだも話し合うたように、人によって幸せは違うんです。幸せが違えば信仰も違ってくるんですから、信仰を一色に塗り潰した一つの団体の中へ自分が入った場合、神の法則に反することになる。
組織のある団体に新参で入った者は一番下っ端ですね。その上に役員さんがおる。そのまた上には偉いさんがおる。頂上にはいわゆる教祖と称するような大きな権威者がおる。このいわゆる組織にというものは信仰と関係のない、ただの形に過ぎない。それを宗教だとか、やれ信仰だとか、自ら進んで持ち上げて「あー教祖さん来はった、ありがたい。目開いたら目潰れる」といった信仰をする者も、そう言われて喜んでおる者も、どうかと思う。これはもう宗教として言うと、一番忌むべき問題なんです。
団体に取り込まれると、まず物事の序列とか優越感・劣等感を気にする。また、自分の入っておる団体が唯一絶対の宗教で「それ以外の宗教はみんな悪いんや」「助けてやるためにうちの宗教に入れよう」とか考える。うちの宗教とかどこそこの宗教とか、持ち物じゃないんですよ。天地自然の一つの法則、宇宙の仕組み「神ながら」というものは、誰一人所有していない。所有者はいないんですよ。
我々人間が自然の中において、一番後に形作られているんです。その人間がですよ、我々を作ってくれた宇宙の根本の仕組みを捉えて、「それはうちの御本尊や」とか、「これはうちの教え」とか偉そうに言う。宗教というのは人間一人一人の心の中に生きておったらいいんです。
「大倭教にはどんな教えがある??」って聞く人もおります。まあ仕方がないから「これはこんなんやどんなんや」と私がアホになって説明していますけれども、私の本心では「あほんだら!」って言いたくなるんですよ。大倭教っていう教えがあったら不思議なんです。ないのがホンマなんです。そこんとこね、皆よくかみ分けてほしい。
けれども今の社会一般の人は、そういういびつな信仰を宗教だと思っておるから、大倭へ来て 「大倭の神さんは何神さんですか?」「大倭教の教えは何ですか?」と、くだらんアホなこと聞くんですね。宗教を、「神ながら」をわかっていないんです。
けれども、そんな人の守りするのがまた私の命ですから、アホくさいなんて思わんと、まあ「神ながら」がどうやとか説明しているんですがね。 お守りしているんですよ。こんなものは救いでも何でもないんです。
大倭へ来る人たちはね、やはり私とこうした個人的な人間関係を結ぶような深い縁の持ち主だと私は信じているんです。そんな人であれば、大倭教の教えがどうであるか聞こうとするよりも、まずお互いに人間性と人間性を、心と心を触れ合おうとしてほしい。
自然と共にある道(人間だけではない)、宗教教派などない
私ら空気は吸わしてもらっているし、土から出てくる水、天から降ってくる雨、結局こういうような恵みがあればこそ、私自身の肉体が現在生かされている。自分が生きていくために必要な一番身近な物、私はこれが一番大事やと思うんです。 だから私は水に対しても農作物に対しても、喜び、 感謝の念というか、自然と共にありたい、共に行こうという気持ちが湧く。それがいわゆる「神ながら」の道にも通じることにもなるんです。
ややもすれば、今私がこう話している時に、ここへ集まっておる人間だけが私の話を聞いておると皆思っているかもしれません。けれども、私の目の前には池(※拝殿前の鏡池)があり、その水には睡蓮がある。 あそこにはツツジがある、桜がある。 ここに座っている人間一人と、この鏡池の上に浮かんでおる睡蓮の葉一つと、どちらも同じ存在です。
だから私はこにおる人だけに物言うてるのやなしに、いつも池の水の上を見ながら睡蓮の葉にも話しかけておる。こちらの桜にもです。水の中にも、土の中にも、木の中にも、人間に宿っているのと同じ生命体が等しく宿っているんです。
この拝殿の中に座っておる者は人間の姿をしておるけれども、睡蓮の葉のように水の中から出てきて浮いておる者、また木々のように葉があり幹がある姿を持った別の者もたくさんある。これみんな私たちの一番身近な仲間です。人間だけが人間の仲間と違うんです。
我々人間が自然に対して最も親しみを持ち、またあるいは自然との一体的な考え方をもし持たなければですよ、私たちは本当の精神的な喜びを恐らく得られないと思う。
人間が人間だけの世界でどないして幸せになり、喜びを持てるか。人間以外のいろんな動物であれ植物であれ、私たちの仲間であるという意識があればこそ、朝起きて外を見た時に「ああ今朝の桜の葉きれいや」とか、「睡蓮もうじき咲くやろ」とか、必ず呼びかける心境になるんです。
人間と草木が同じように生活し、やっぱり同じように太陽の恵みを受けたり同じ雨を受けておる。同じ条件によって人も草木もみんな生かされているんです。人間だけを切り離してこの世を人間だけの世界と捉えることは、神の心に根本から反することなんです。
自然と人間の結び付き、そしてお互いに交流し合うて幸せにやってゆくという「神ながら」の神の心、そのような心を捉えるのに、百万二百万の人間ばかりが集まって、何々教団だとか何々教だとかの、優越感や差別をもって喜びとするような人間の集いであったとすれば、そこに宗教はありません。絶対に神さんもなし、仏さんもなし。けしからんことなんです。
だから私はいつも「大倭教は団体でないんや、信者もいないんや」と言うんです。大倭という場を一つの軸として、集まってくる人たちが自分なりに、みんな幸せになる。これが本来の宗教だと思うんです。
法主の愚痴、時々愚痴をこぼすのも健康法
月次祭ですから、今日の話は私の愚痴ですけれども、これからぼちぼちこういう愚痴を私はあなたたちに言おうと思うんです。私の愚痴をあなたたちは人間の言葉として捉えているけれども、草も木もみんな聞いてくれとりますねん。あんたらだけと違うてたくさん相手がおるんで、そらかえって気色いいんですがね。
私も人間ですから、時々は愚痴こぼすのも一つの健康法です。自分が自分に愚痴言うとってもしょうないから、やっぱりこんな時に声出して言うわけです。
けれども、なんぼ愚痴こぼしたかて、私の行き方というものは決して変わりません。あなたたちがそう信じてくれたら、私がどんなこと言うても、 「また愚痴こぼしてはるな」程度に聞いてもらえばいい。けれどもこの愚痴はね、神様に代わってこぼす愚痴やから、同じ愚痴でも内容がちょっと違うんですよ。
自分を自分が信仰する、信じる間は疑う心がある
あなたたちも心の眼をパーッと広く開いて、本当の信仰とはどんなものか、神さんってあるのかないのか、どれがほんまの神さんやとか、まあ禊会でもやっていますけど、自分に問うて自分の心の中にあるほんまの御本尊をつかんでほしい。つかんだ暁には、「あれ?これは自分であった」と最後にわかる。自分を自分が信仰しなければ、信仰する対象がないはずなんです。
でも「神ながら」の御本尊は自分の心の中にあるとただ信じていればいいとか、そんな薄っぺらい信仰とは違うんです。「もう疑いようがない、これはあるんや」と信じ切る、そういうことです。 いわゆる一つの限界を越えた信じ方、仏教では色だとか空だとか言うけれども、その色・空を超越した空だと般若心経が教えてるような意味ですね。
例えて言えば、胃腸の働きなんか全然考えんで飯食ってる時のような心持ち。食うたら栄養になるんやし糞が出るんやけれども、そんなこといちいち考えながら飯食ってる人はいないですよ。それと同じ。信じるあいだは、まだ疑う心があるから信じるんです。
自分の御本尊というものを絶対神のつもりで自分の心の中にしっかりつかんでいるかどうか、まだあなたたちにははっきりわからんと思うけれども、これからは自己反省とか人間的向上を目的として、暇があれば時々大倭へ遊びに来てもらったら結構だと思います。
さいごに
明日は布留のお宮さんへ、すさのお会の文化行事で行く予定になっておりますので、私もできるだけお供さしてもらうつもりです。布留のお宮というのは石上神宮ですが、天理市の天理教教会本部のちょっと東側にあります。今我々がその場所へ行って、一人一人が過去の人たちの信仰の足形に何かを感じ取っていくこともまた、自分の信仰の何かプラスになると思います。明日は日曜ですので、できたら皆さんの参加を望みます。
