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「神仏のシナリオ」(その2)~人類史も全てシナリオ、その受け止め方、自由意思論~

今回は「神仏のシナリオで進行している」(その2)になります。
(その1)をお読みの上で、お読みになることをおすすめします。


これまでのおさらい

(その1)では、
「創造親霊がいて世界を創造している」という壮大なテーマからはじまり、「親霊のシナリオのもとに進行している」ということをそこから導いて説示し、それによっていくつかの懐疑点について回答を付した。
さらに、重要な事実を示しておこうと思う。

●あらゆる人類史がシナリオである

この世界は「親のたましい(親霊)」がつくりだし、その「シナリオ」のもとに進行しているということ説示し、それはすなわち「物質のはじまりから→人類への進化まで」そのシナリオのもとに起こっていることである、ということまでを既に説明した。

その際には敢えて「人類への進化」までで具体的な話を止めていたのであるが、すでに述べたところ「過去から全未来まですべて親のシナリオのもとで進行している」ものであって、人類の発生からそれ以降すなわち「人類史」も「”その全て”が親霊のシナリオのもとで進行している」ということなのである。
ちょうど「完全なる親が家庭の進行を統制しながら或いは予測しながらそれもシナリオに内包しながら、自身の家庭を進行するように…」といったところである(これ以上の詳細は、後に譲るとしてこの辺りで一旦了解されたい)。

…“統制と予測”すべてを含んで=シナリオと仮に名付けているが、“子供の自由な動きをも認めている”という意味では「広い柔軟性」を持ちながら、“それらを厳密に予測まで出来てしまいそれも計画の内に含みながら厳密に統制もしている”というような「厳密性」も持っているというような=「広い統制」と呼びたくなるようなものというような様子のものであることには注意されたい。

そこで例えば「原始人が、世界に広がっていった様子」もシナリオのもとに進行したものである。
「人類がどこかのタイミングで道具を使い始めた」のも、「埋葬をはじめた」のもシナリオのもとに進行したものである。
「各地で文明が発達したり」したのも、「各地で各国家などが形成された」りしたのも、すべてシナリオ(“広い統制”)のもとに進行したものである。

ということは、もう想像がついてきたかと思うが、
例えば「戦争」も全てシナリオのもとに進行してきたもの、「国家」「文化」「政治や制度」なども全てシナリオ又は“広い統制”のもとに進行してきたものであり、

これはすなわちそうしたものは全て、無機的・偶然的に進行したものではなくして、その実は「有機的・必然的に進行したもの=(誰かが描いた)ドラマ・シナリオのようなもの」としてあるのだという事実を指摘しているものなのである。

普通はそうしたものは、「ある程度の必然性も何となく認める」という立場も少なくないとは思うが、必然的ではなく”偶然性などを含み自由に進行している”という視点が一般的であるものと思う。
ところがそうではなく、”全て”は究極的な親霊の視点からは「”柔軟性と厳密性を持ちながら厳密になっている”ようなシナリオ」として、“広いような”統制をしているようなものだということである。

そこで「戦争」も「国家」も「文化」「政治、制度」「各国の歴史」なども全て、その「(広いような統制)シナリオ」のもとに進行してあるものだということ。ということはそれは偶然性のものではなく、”非常に緻密に全て意味をもって”、これを言い換えれば「必然性をもって」あるようなことになっているものなのだ、ということなのである。
各国の歴史も、各国間の交流や戦争の歴史も、文化や人智の発達も、「何もかもがそのような広いドラマとして進行している」。「神仏のシナリオ」とはそういうことを言っているのである。

「有り得ない」「つまらない」という感覚について

それは人によっては「有り得ない」と感じる人もいたり、「そこまで決定しているならばつまらない」と感じる人もあったりするものと、推測することができる。
そこで「私がなぜこれを事実として認識するに至ったか」、「どのように受け止めることになったか」といったことを述べようかと思う。


1.私がなぜこれを事実として認識するに至ったか

私がこれを事実として認識するに至ったのは、「いくつもの方向」「色んな要素」からそうなったものと思う。何か一つのこれでといったことではない。

そもそも、これについては「むしろ初めからなんとなくそういう直観が幼児から、最も素直な感覚としてあった」ところがあるようにも思う。もしこれを素直な幼児として聞いたときには、
「そうなんだ~。育ててもらって、よいように親霊は家庭を進行しているんだね~。一致して行くような気持ちで生きていけるような心境であるのが成長した心地だろうからそのように生きていきたいな~」などといった受け止め方で、何の疑問もかえって持たずにすっと聞けたように思う。
※そして、これは皆さんが受け止めるときに推奨される受け止め方を述べたものを既に述べてしまったものでもある。そして実際に、このような言語化されていない感覚ははじめからあったようにも思うのである。

ところが特に現代に、この”現代の教育”を受けて育って大きくなってから、このことを「事実が何であるか」を考え始めた私は、このようなことは自らは無意識化にはあったかもしれないが少なくとも自分から意識的に考え出すところではなかった。

両師の所説
では、この「シナリオ説」はどこからやってきたかというと、これもまた”両師(弁栄・日聖師)”から来たものである。「両師がともに、そうしたことを説示していた」ものであり、衝撃を受けて「そういう事実がある可能性もあるか…」と考え始めたものである。

既に述べたように、両者には”行間が沢山あいている”から、その所説を見たところで「現代人の多くを腑に落ちさせるに足るまでの詳細」は語られておらず、では自分で「この方向性で行間を埋めていこうか」としはじめたものであった。
両師の所説を強引にまとめれば、「親霊がはじめにいる」「親霊がこの世界を進行させている」といったところであり、具体的に「宇宙の始まりから生命のはじまり、生命の進化、人類の進化など」に言及しているものである。
(以下のまとめに引用を掲載している)

そこでさらに「遥か未来まで」「厳密に」ということまでは言及しないながらではあるが、「今後の未来の進行の路線が決まっている」ことにも言及している。
仏教ではそもそも遥か遠い未来の個人レベルのことまで仏陀が知っていることが説かれているし、日聖師の所説にも「世界が成長しきって理想郷となる日をカミははっきりとご存知と思う」といった内容が出てくるから、少なくとも日聖師は「はっきりと」と述べているので決まっているという方向性で説いたものだろうと考えられる。

さらに日聖師の場合には、「人の生まれる日付も、死ぬ日付も、人生(のたいていのこと)も、誰と誰が結婚して誰がいつに生まれてくるというようなことも、予め決まっている」といった内容を示しており、しかも実際にそのような予言的神秘事象が沢山あったものであるから、「少なくともそのレベルにおいては厳密に決まっている」ようなことは示唆されている。

私①理屈の方面
そこで、素直に一旦この説示を仮説として採用して、「その行間を埋めようとしてみたり」、或いは「考えられる矛盾想定点を考え抜いて一つ一つそれに対する回答を検討していったり」、「それを人が知ったらどのような受け止め方になるか・どう受け止めることが正解なのか」といったことも考えたり、色々と考え抜いてみたものである。そうして、一定の「理論」が浮かび上がって来て、理屈的には私が納得いくだけの所まで至ったものである。

②実証の方面
ただ「理屈」だけではそれが真実であることを意味しないが、ちょうどそういう段階に来た時に「今度は自分自身が神秘的な経験を実証として体験する」ことが起こって来て、この”未来決定的なテーマ”についても、私自身・私の近しい周囲の経験としても実際にそのようなことが起こったりして、「我が身で観測したりした」ことで、”実証の方面”も備わって、私においてはもはや確信に至ってしまったものである。

これが、わたしがこの結論を支持するに至った経緯である。「考えなし」に或いは「実証なし」に、”無注意に説示しているものではない”ということは断っておくものである。


2.シナリオであるとして、どのように受け止めるべきか

そこで、その仕組みとしての「理屈」はそれなりに通ってしまったとして、それはそれとして、「人間がこれをどう受け取るか」ということは別問題だと思うのである。

「人類史は神仏のシナリオで進行している」と宿命論的なことを言われて、「そうなんだ!」というように先に示したような受け止め方で、素直に”これをそのまま聞く人”は現代には少ないようになんとなく想定できる。

「そうなのだろうか?」と懐疑が始まっていくもの、或いはもっと「強烈に拒絶感を生じて離れてしまう」もの、「それでは生きている意味がないような気がしてくる」というタイプの感覚に至るもの、などが大半なのではないだろうかと想像する。

そこで、もう一点「シナリオであるとして、どのように受け止めるべきか」ということを示したいのである。そこで、今挙げた三者のケースに対して、回答を付していく。

・「そうなのだろうか」と懐疑するパターンに対して
まず「そうなのだろうか」と懐疑するパターンに対しては、”理論の方面”と”実証の方面”を提示することになる。
(A)「このような理屈」によってそのようである可能性がありますという一応理論的な説明をすることが出来る。ところが、これは物理学と同じように、「理屈だけでは真実であることを意味しない」タイプの問題であるから、理屈だけでは納得しきられない部分が出てくるのではないかと想定される。実際にわたしもそうであったものである。
(B)そこでもう片面として「実証の方面」を提示することになる。”このテーマを支持するような神秘的な事象”があるし、もっといえばこれはこのテーマを直接指示するものではないが”間接的に支持しうるような物理的に記録されたもの”まであるのである。
※こちらをお読みいただければ。

これを知れば、
そういうこともあるのか…?という気分になってもくるのではないかと私は、自分の経験を通して思うのである。いかがであろうか。

・「強烈に拒絶感を生じて離れてしまう人」に対して
次に「強烈に拒絶感を生じて離れてしまう人」に対しては、
・今、上で見たようなものを提示して”少しでも興味を持たれた”ならば今見たような結果に至る人もあるであろうし、
・聞いただけで離れていくような人もいるものと思う。

そもそも、何故そういう人(人=この理論から言えば同じ兄弟姉妹である子のたましい)がいるのかということまで、この理屈で実は内包されて記述されるので、それも理論的に内包された事実なのだということは、まず先に示しておこう。

ちなみにこれがどのようなことかと言えば、
簡単には「反抗期」のようなものである。その人は「そのときにそれを聞くことが出来なかった」としても、「どこかの段階でまたそれを素直に聞くようなときが、輪廻転生の中で訪れる」ことになっているのである。
「反抗期」にある兄弟姉妹を、無理矢理反抗しないように説くことなどできないように、「そういう人がいることもまた世界の道理」なのである。

・「それでは生きている意味がないような気がしてくる」に対して
次に回答を与えておきたいのが「それでは生きている意味がないような気がしてくる」というタイプの感覚に対してである。
これも中々に多いような気がするし、”わたしにも少しは湧いた感覚”であるから、「そのような反応に至る必然的なメカニズム」があることも言語化はできないながら察知できて(そこに時間を費やしていられないので恐らく今後もしない可能性が高いが出来るものと思う)、言わんとしていることもわかる。

そこで回答を与える。

まず「決定的であれば無意味に感じる・面白くないと感じる」ことに対して、”そうではない事例”をいくらか挙げていくとする。
例えば、映画などどうであろうか。映画ははじまりから終わりまで既にテープとして未来決定的にあるが、これが未来決定的であるから面白くないということになるかといえば、ならない。

ということは、
「未来決定的であるならば面白くない・無意味に感じる」ということは、それだけでは論理としては別に通っていないということがわかる。むしろ楽しい例、あるいはそれを望む例も沢山あるので、考えてみられたらよいと思う。

ところが反対に、
「決まっていないからこそハラハラやワクワク等があり面白い」ものであり、決まっていればそういうものの面白さはない、という事例もあるであろう。確かにそういう例も有り得るとは思うが、それは前者の例やその理屈を否定するものではない。「面白いものもある」のだから、このシナリオは面白いと感じられるタイプのものであれば、それはそれとして成立するものであるからである。

しかし、このハラハラやワクワク等の論理にも、「もう少し突っ込む」ことが出来るかもしれない。
(1)まず一つに、
そのハラハラ等があるには、「自分にとって=予想上において未来が不明確」であればそれを十分に味わうことができ=「事実として未来が未決定であること」は条件として必要としていない可能性がある。
例えば、子供がサンタクロースを楽しみにしていて「未来が未決定であるからワクワクしている」としよう。そこで裏では「実は親によってプレゼントの有無などは決定的である」訳であるが、それを「知りさえしなければワクワクする」ものである。
或いは「本当は親がしているといった噂が流れても、サンタクロースに期待している子供はこれを聞こうとせず、依然としてワクワクする」であろう。このようなものである。

(2)そこでもう一つは、
とはいえ「未来がいい方向に決まっていることを望みもしている」のではないかということである。
先程の喩えをそのまま使用すれば、サンタクロースでハラハラしているといっても、プレゼントが翌朝にあることを強く望んでいる、言い換えれば「決定していることを実は望んでハラハラしているだけ」のことである。
未来が未決定であることに面白みを覚えながら、深くは未来がいい方向に決まっていることを望んでいて、反対に悪い方向に出ればその面白さどころか苦しさが今度は襲ってきたりする人の方が基本なのではないかと思うのである。そこで、「実は未来が決定的な方向を望みすらしている」という突っ込みである。

(3)さらにもう一点。
しかも、”決定していても”実は「いい方向であれば嬉しい=そのまま受け入れられる」のではないかということである。
サンタクロースの喩えを続けて使用すれば、いつかサンタクロースが実は親であって決定的であったことを知ったとする。ところが、それを知った上で、今度は「知った上で親がプレゼントをくれ続けるならば、それは普通にそのまま嬉しいものであり(場合によっては感謝まで生まれて嬉しいものであるケースすらあり)=受け入れられる」ものなのではないだろうか。
このように、「事実をいつか真正面から聞く」ことが出来たとしても、”それがいい事実であるという条件が満たされているならば”、そこでまたそうである「喜び」が有り得ると思うのである。

(4)まだあるが、これは煩雑になるので未記載とする。
概ね後述するところの、「親のシナリオと子の選択の関係」(予測一致と、同意一致があり、いずれにしても一致しているという事実があるだけであって、どちらにも喜びがあるまま成立している、ということが俯瞰的事実であるということ)といった話である。
※これが、最も本質的な理由であるから、そこまで理解される方は、この意を介するまで読み込まれたい。その梯子は十分にこの記事にかけられている。

このようにして「未来が決定的であるならば面白くない・無意味だ」といった感覚は、そのような単純な論理では実は有効な論理とはなっていない。もっと複雑な論理が裏に働いているということを今述べた通りであり、「その錯覚としてこのような感覚が生まれているだけのもの」と(基本的に)思われるのである。

問題は「いい事実であるか」

そこで、鋭い方は気付かれたかもしれないが、ここで問題となるのは「いい事実であるか」どうかなのではないかということなのである。それこそが、実は「問題のポイント」となっているのではないかということが、今の検証で明らかになったのではないかと思うのである。

そして、まさに私がそれを受け入れられる・面白いと思うことができるのも「”決定的であるとされる未来やそのシナリオが、いい事実である”ということが理解されている」ことが、その要件となっているのだろうと思われる。
そこでこれについて説示する。

最上のシナリオ
端的にこれについて言っておくと、
既に説明してきたようにして「シナリオ」「統制」のもとにあるとして、「それが誰によるものか」といえば=「親霊」によるものである。
そこで、この親霊というものがどのような存在かといえば、✕人間界でイメージしうる人間である未完全な親ではなく、〇「原理上可能な範囲で完全であるような親」であるということを既に述べた。

それは”娘が本当に嫌だと思うような親父”のような親などではなく、「どんな子供も素直でさえあれば心底憧れられるような親」だということである。

現実にも、そういう関係性の親子もいるであろうから、そういうところで想像していただいてもわかりやすいだろう。※そのような親子を想像しがたい人が、特にこのシナリオ論を受け入れがたくなっていると思う(それも、これが事実であれば、シナリオ内なので、長い輪廻転生の中のどこかで受け入れるタイミングが来るしか仕方がない)。

そこで、そのような「最上の親によって」しかも(柔軟性のないようなものではなく予測されきっているというだけの)「“広く統制”されたようなシナリオ」のもとで進行しているということだ、ということである。
それは「最上のシナリオ」であるということである。

・いい事実である
これはつまり、今見たところの「いい事実である」という要件を満たすものだということである。「それさえ分る状態になれば、未来が決定的であっても、それを真正面から認識して、むしろ感謝に如き喜びまで伴いながら、それと共にあるような受け止め方に必然的になる」ということである。
(弁栄師も”オオミオヤ(久遠本仏=阿弥陀仏=ヤハウェ…など)のことを敬愛して、一体となって喜びの中に生きていく”という旨を示し、日聖師も同様のことを示している。)

・それと共にありたくなる=一致する
さらに、今さらっと触れたように「それと共にある」というような心境になるということが、またポイントである。もし最上の親がいたならば、その親の計画に逆らおうということにはならず、心からそれに順応して生きていこうとなってくると思うのである。これは実は自分で選択しないということではなく、自分の選択が最上の親の選択と一致してくる、一体となるというだけのことなのである。

そしてもし逆らうような状態であったとしても、悲しいかな、これが事実であるとすれば、それもまた最上の親の”想定”に織り込まれており、”シナリオ内”だということなのである。
この場合、選択の一致という言い方は少しニュアンスが異なるが、「自分が選択することが=親の”想定”に一致して」おり、「結局、自分の選択といってもある意味では親のシナリオと一致してしまう」ことになっていて、
「結局は自分の選択と親のシナリオとは一致している」ということになっているのである。
(※しかも、その子が反抗期を終える未来まで、シナリオ内にあることになっている。最上の親、恐るべしであり、古来人が神を崇敬してきた理由である。)

このように、シナリオは別に”従うものとして向き合う”ものではなく、「それと共にあるもの」として向き合うことになるようなものとしてあるということである。
従うといったものではなく、最上のシナリオとしてあるからこそ実現することであるが、「どうしていても一致する」「選択すらも一致する」「反抗すらも一致する」ようなものとしてあるものであって、それを成長してか素直でさえあればか「受け入れられるようになったとき」には“従う”ものではなく「共にありたいと思えるようなもの」としてあるということになっているのだということである。

以上が、「神仏のシナリオ」=“最上のシナリオ”であり、その「必然的に全員がどこかで至ることになっている受け止め方」「何の無理もないような受け止め方」とその事実なのである。

先に述べた、
「そうなんだ~。育ててもらって、よいように親霊は家庭を進行しているんだね~。一致して行くような気持ちで生きていけるような心境であるのが成長した心地だろうからそのように生きていきたいな~」
といったような心境になって、むしろ喜びと共にあるようなことになるのである。


「非常なる苦しみ・苦難を経験している・した」ことがあり、それでは辛いという方に対しての回答

ここでもう一つ、これに対して「受け入れがたい」とする心境に至るケースがあることが想定される。それを無視するような視座ではない。
それは、「非常なる苦しみ・苦難を経験している・した」ことのある人が、親のシナリオやこのような話など受け入れることはできないといったケースである。「そのような苦難を経験してなおそのようなことを言えるか」と問われる人もいるかもしれない。そこで、これにも答えたい。

(大前提)

まず、すでに(その1)にて「何故不幸などがあるか」といったところで既に述べたことを、最も大事な前提として再度記しながら、回答していくものである。

①まず一点目。輪廻転生という大きな事実、学びということ
現代では「輪廻転生」という事実観が喪失されかかっている。そこで”人生は一回きり”であるという観点から、多くの人が「その一回の人生において、不幸を絶望的にとらえる」ようなことになっている。
ところが輪廻転生ということが事実であり、実はこの一生は長い輪廻転生における一生であり、実は喩えば広い視点から言えば一回の通学のようなものである。

喩えば、
確かに月日の浅い子供にとっては一日は大きなものであり、夢中になりやすいから、一回の通学内の事件は大事件ととらえることになったりもする。
ところが事実は、「もっと長い人生」があるものであって、そのときはいかに苦しいことであっても、「長い人生の中ではそれもまた学びとなるようなものとしてある」ように。

「この一生での不幸は、長い輪廻転生の中でのこと」であり、例えば”事故による早世”などは”一回の通学で大怪我をして早退する”ようなものである。それが分ると、長い一生を知って見ていれば一日の大きな事件の受け止め方・認識される事実は変わり得るように、事実はこのようなのである。

そこで「事件があるのも、実は学びのうち」であり、そこには大怪我のようなものもあるが、親がいてもこれはむしろ学びとして見守られたりもする。「これが広い視野から事実である」ということなのである。
これはすでに「何故不幸があるか」で記した内容を手短にまとめたものであった。より詳しくは(その1)から読まれたい。

さらに加えて。
②次に二点目。因縁という事情
もっと複雑には、「因縁」ということがある。これは現在執筆中の「輪廻転生と因縁」シリーズにて連載説明中である。

簡単に言えば、
・輪廻転生における一生とは”学習・仕事兼遊びのおでかけ”のようなもので、「成長という一連の流れの中で繰り返しておでかけしている」ようなものであり、
・そのおでかけは「収入や負債、生活状況」に応じてそのたびに決定して出てくるようになっており、幸・不幸や人生全体はこのように決定しているものであるということである。
そこで、例えば、「大雨の中でも出かけないといけないことがあったりするように、苦難の中に出てくるしかない輪廻転生の回」もあったり、或いは「自分の修行のために苦難の中に出てくること」もあったり、色んなケースがあるものである。”そのような中で不幸というものは起こっている”ということが事実としてあるということである。

ひとまず、「非常なる苦しみ・苦難」が”シナリオ・子育て/成長の過程”としてあることが事実でありうる理屈の方面として主たるものを述べた。理屈として納得しうる人もいるであろうし、やはり"受け入れられない"人もいるかもしれない。
ただ、わたしは、"散々なる格闘と経験のうえ"に、このことをはっきりと自分で確信できるに至って"責任をもってこのことを述べられるようになった"
ために、むしろこのことを説示することを自分の仕事・使命と心得て、これを宣べるものである。

「そのような苦難を経験してなおそのようなことを言えるか」

そこで「そのような苦難を経験してなおそのようなことを言えるか」という声にも事前に答えておきたい。

私は決して、これを「自身が苦難を経験せずに発言している」ものではない。
「苦難というものは人それぞれ」であるから、「私の苦難」を聞いてその疑問を投げかける方に響くかどうかはわからないが、私は非常なる苦難を味わってきた中でこれを述べているものである。

その苦難は筆舌に尽くしがたく、言語化できるものばかりではない。
この人生そのものが大変なる茨の道であった。

最も大きい点は、幼児のときに過去世の感覚を有し、また徹底的に疑い抜いて、自利のために生きず、ただ衆生を利益するために生きることしか許されていないと宣告されて、そのように大人まで過ごした。事故によって家族を失うといったような苦難もまた筆舌に尽くしがたいことと思うが、私のこの苦しみもまた筆舌に尽くしがたい。
おかげさまで高校三年間はろくに学校に通うこともできず、日々暴れ叫びながら、自分の人生を捨てるような心地で、毎日普通の楽しい人生を送れないことに現代人として抵抗して死にたいと絶叫もしながら、自分の知っていることをノートに5000枚も記すというような高校時代であった。父と包丁を向け合いもした。

このようなことは表に言語化しやすい範囲であるが、このような心境で言語化できないものを幼児から常に抱えてきて、言いたいことを押し殺し続けた苦しみは筆舌に尽くしがたきも尽くしがたい。
書いている今にも感極まりそうな思いである。

また、父母ともにその母が早世しており、それによる苦難・こじれを間近で見てきたし、それは他人事ではなく自身にもその苦しみやエネルギーは流れ込んで、生きてきたものである。

また、もう一つ絶対的に言えることは、
「今こうして宗教者として歩んでいるにおいて貧道を歩み続けている」ということである。毎月、かつて貯金しておいたものを崩しながら、この道を使命感から歩んでいるものである。”毎月、数万円で生活する苦しみ”を、かれこれ二年は続けている(もう少し前にはまた二年あって、合計では四年間である)。住まいは、人にお借りして、そこで住まわせてもらうという心境も味わわせていただいてきた。
こうした生活で起こってくる心情というものは、これを体験した人にしか分かり得ないと確信する。外野からでは絶対にわからない、想像できない事情というものが沢山あることを確信する。今まさに、そのような状況で、こうした事実を喜んで共にあるような心境に至っているということである。

他にも重大なものがあるが、これ以上述べることに意味を感じないので、この辺りで列挙を終える。

このように私は決して「楽な立場から、これを述べている」ものではない。むしろ、「そうした苦難にある人と、共にあり」、或いは「そこから導き出さんがために、向き合ってきた或いは今歩んでいる」ものである。むしろ、その責任を十分に我が身をもって味わい知らされてきた、今なお味わい続けているものである。

長くなったが、このような立場から述べるものである。
また、この立場に至るだけの「理屈の方面と実証の方面が揃った」がために、このように在ることが出来ているのである。
という回答を付しておきたいと思う。

もし、縁あって”道に目覚めるタイミングにある人”あれば、喜ばしく思う。
また”縁なくして、離れるタイミングにある人”あっても、またそのタイミングを理解し、共に兄弟姉妹としてその未来に対して「絶対の安心」をもつものである。


【註】ミクロレベルのシナリオ:自由意志論

いかがであっただろうか。
「シナリオ」に対して、理解度が増していれば幸いである。
そこで、さらなる点を述べておきたい。
それが”自由意思”に関する問題である。

これまた鋭い人であれば気付いたかもしれないが、
今見たような最上のシナリオがあるならば、その大局的なことばかりではなく、「個人レベル・ミクロレベルでもシナリオがある=決定的である」ということかという疑問が湧いた人もあるかもしれない。これは一般的に「自由意思」という名称で古来議論されてきた問題である。

まさに、そういうことである。
この神仏のシナリオ論では、まさに「自由意思」が密接に連動して問題となる。
もっと言えば、「自由意思について言っている」と言ってよい。
そこでさらに言えば、基本的に“決定論的”なことを言っている。

これは実は科学において既に概ね否定されている。”不確定性原理”というものが有名である。
そこで、このようね決定論的な説示は非常に無理なような気もするが、ここには「もっと複雑な仕組み」があって、「従来に存在した論調にはないような論理から」述べているものと思う。この詳細は、もっと複雑な「諸宗教・科学の統合的視座」といったような現在執筆途中の「理論」から説明されるものである。

ただし、それでは説明を果たしていないと思うので、仮に”浅い部分”だけではあるが、こちらで既に記した部分があるので、今回のところはこちらをご参考にしていただければと思う…というところで回答しておきたい。(これ以上のことは「理論」にて説明するところであるので、この辺りで許されたい。)

まとめ

いかがであっただろうか。
(その2)では「人類史」もシナリオである=必然的なドラマとして進行しているものであるということを示した。
※これはさらに言えば、ミクロレベルまでシナリオがあることを示唆しているものであり、それは自由意思・宿命として古来議論の対象とされてきたこと、それに対する浅い部分のみの説示を別執筆の引用にて示した。

そして「これをどう受け止めるべきか」という受け止め方について。
「わたしがこれを事実と確信するに至った経緯」なども示した。

わたしは、まさにこのシナリオと共にある心境に至って”長い輪廻転生における子の成長する道”を歩んでいるものであり、
兄弟姉妹の同胞にこれを伝えゆくものである。

ご参考になることを、願っています。
願わくはこの功徳を以て、あまねく一切に及ぼし、
我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜん。


【次回予告】

「シナリオ論」は、まだ1~2話続きます。
次回は、人類史から一歩進んで、
「宗教」についてもシナリオであることを説示します。

・「宗教の発生や歴史もシナリオである」ということになります。
・これは「釈迦やキリスト等の登場」も「各宗教史」もシナリオということを意味してきます。

そしてこれをまとめて言えば、
「宗教は子育ての教えであり“順次開示される”もの」
=「宗教順次開示説」ということを説示する、
ということになってきます。

そこで「宗教順次開示説」というものについて、
記すようなものになります。


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