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ノートに感情を書いたのに、何も解決しなくて腹が立った

感情をノートに書くと、気持ちが整理されて楽になるらしい。

その話を知った頃のわたしは、恋人から別れを宣告されていました。頭の中は朝から晩まで「なんで?」が暴走しています。

別の人がいるのか。何がいけなかったのか。まだ交渉の余地はあるのか。

彼の最近の言動を振り返り、SNSを掘り、心理学を調べ、占いを巡り、無料メールカウンセリングには、受け取った側が一度席を立ちたくなる長さの相談文を送りました。あげく、交渉術の本まで読んでいた。

無料で救いを求めるな。そして別れ話にビジネス交渉を持ち込むな。

それでも当時のわたしは、藁をも掴む思いでした。何か一つでも役に立つ方法を見つければ、この現実を何とかできる気がしていたのです。

そこへ現れたのが、ノートでした。ジャーナリングとも言われています。


とりあえず書く

ノートに感情を書けば、自分の中で何が起きているのか分かる。何が苦しいのか分かれば、少しは楽になるらしい。

なるほど。では、書きましょう。

悲しい。寂しい。まだ好き。

一行で終わりました。短すぎる。一行で片づくはずがない。
もっと何かあるだろうと、自分の心を掘り始めました。

相手の言葉で自己肯定感が傷つき、過去の経験から見捨てられる不安が刺激されていて……

そこからは怒涛の書き殴りです。

自分の気持ちだけでは飽き足らず、過去の出来事を振り返り、自分の考え方の癖を探し、彼があの時ああ言った理由まで推理する。

これ……やり方合ってるのか?でもとりあえず出すだけ出す。何もかも。


それで、だから何になるというのか

いろいろ書いたものを眺めた結果、わたしは悲しくて、寂しくて、一人になるのが怖いということがよく分かりました。

ふーん……で、だからなんなの?

ノートを閉じても、彼は戻ってきません。わたしは依然として一人で、明日の予定も特にありません。

感情を書けば楽になると聞いていたのに。わたしが欲しかったものは、これではないのです。呼吸が落ち着くとか、頭の中が整理されてくるとか、そんな生やさしい効能を求めていたのではない。

感情を書いても書かなくても、すでに起きた現実や相手の気持ちは一ミリも変わらない。落ち着くどころか、この不条理にいっそう憤慨している。

わたしのこの苦しみを全部消してほしい。なんなら、相手の気持ちも元に戻してほしい。

この女は、ノートを魔法かなにかだと思っているのだろうか。これ以上望むのは、いささか欲が深いというものです。

料理でも楽器でもスポーツでも、練習を重ねれば、基本的なことはだいたい身につきます。生活が荒れているなら、ご飯を食べて、風呂に入り、部屋を片付ければ、だいたいよくなる。

でも、人間関係には他者がいます。わたしが反省しても、生活を整えても、伝え方を考えても、相手が戻るかどうかは相手が決める。

これだけやったのだから、そろそろ何か起きてもいいのでは?

いいえ、起きません。現実は、努力量に応じて元彼を配布する仕組みではない。泣こうが喚こうが、他人は変えられないのです。

ごった煮を味わう

それなら、自分だけでは動かせない現実の前で、感情を書くことに何の意味があるのでしょう。

わたしの場合は、自分の中で一つの塊になって暴れているものを、一つずつ丁寧に引き剥がして、別々に見るためでした。

悲しい。戻ってきてほしい。一人になるのが怖い。自分の価値までなくなった気がする。

こんな「感情と、願望と、現実と、自分が今できることのごった煮」の鍋から、一つずつ箸に取り、いろんな角度からながめて、味わっていく。

せっかくここまで煮えたので。

書いたところで、望んだ現実が手に入るとは限りません。ただ、自分が変えられるものと、自分一人では変えられないものを分けることはできました。

「気持ちは分かった。で、現実は?」と、ノートにまで食ってかかったことがある人がいたら、たぶん話が合います。

あの頃のわたしは、何とかしなければと、届かないところにまで手を伸ばし続けていました。今は、届くところまでで十分です。

相手の気持ちは、相手の担当です。わたしは、わたしのご飯を食べます。


▼怒りの奥にあるもの





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クロワッサン食べたい ないてよろこびます。腰が痛いので湿布代に使わせていただきます