ぼくの母校は赤珊瑚〜都立工芸高校物語〜
第二色:最初が最難関
工芸に入学して1ヶ月ほどが経った。工芸といえども、常に何かを作ったり絵を描いているわけではない。むしろ1年生の間は半分以上が普通科の授業なので、案外普通の高校生と同じ生活をしていた。少ないとはいえども、ちゃんと専門教科(通常内部では専科と略していう)の授業もあったが、最初のうちはどの授業もガイダンスやこれからやる課題の説明だけだった。専科の初めての授業のとき、新品の作業着に袖を通して地下一階の工場にワクワクしながら向かってやったことが、道具の確認と名前記入だけで、クラス一同拍子抜けしたこともあった。
ゴールデンウィークに入る直前、インテリア実習という授業が本格的に始まった。この授業はクラスを二班に分け、前半組は平面構成(通称アクリル)を、後半組は造形課題をすることとなっていた。インテリア実習は特に課題の難易度が高いが、中でもアクリルは課題の要求水準が非常に高い上に、担当講師のKが非常に厳しいということをぼくは風の便りで聞いていた。
ぼくは前半組になったので、インテリア実習はアクリルから始まった。アクリルの初回授業は、前半で名前の由来でもあるアクリル絵の具の溶き方を習った。文字通り絵の具を水に溶くだけの作業なのだが、絵の具の溶き方ひとつとってもぼくをはじめ、多くの人が早速置いていかれた。絵の具の量に対して水が少なすぎると、塗った際に油絵のような厚ぼったくなる。逆に少なすぎると、下地が透けてしまう上に画面が水を吸ってヨレヨレになってしまう。ちょうどいい量の水加減にしないといけないのだが、その“ちょうどいい量”というのは全く基準がない。製造メーカーや色など、絵の具の種類によっても必要な水の量が異なる上に、その日の湿度やエアコンを入れているか否かまでもが判断基準になるのだ。ちょうどいい水加減を探っているうちに、授業は後半部に突入した。後半ではカラス口という製図道具を用いた直線を引く技法や、溝引きという棒と筆だけで直線を引く技法を習った。
Kは説明を終わらせたのち、では練習してくださいと言ったが、ぼくは未だにカラス口や溝引きに使う絵の具を作れていなかった。絵の具を溶く度にKに聞いたが、一度もOKをもらえず、結局その日の授業は絵の具を溶くだけで終わった。授業終了直後、Kはゴールデンウィークの課題の書かれたプリントを配った。内容は、
・溝引きとカラス口の練習
・ベタ塗りの練習
の2つだった。そして課題プリントには「はみ出し・修正・マスキングテープの使用不可。基準に満たさなければ基準に満たすまで再提出。」と書かれていた。どうやら風の便りは本当だったらしい。
ゴールデンウィークに入り、ぼくは早々にこのアクリル課題に着手した。朝の8時から準備を始めて、スケッチブックにそれぞれ1ページずつ、溝引きとカラス口の練習をしてから本番に取り掛かった。授業中は絵の具を溶くだけで終わってしまったので、溝引きもカラス口も初めてだった。カラス口はそこそこ順調に進んだが、溝引きは非常に苦戦した。線を細くしようとすると筆先が不安定になり、とても直線とは言いがたいものになる。かといって、筆先を安定させてしっかりとした直線にしようとすると線が太くなる。ぼくは安定するギリギリの太さで課題を作った。ベタ塗り課題は想像以上に難しかった。平筆を使えばすぐ終わると思っていたが、なぜかムラができてしまう。ムラを消そうと何回塗り直しても一向にムラが消えない。その上少しでも気を抜くとすぐにはみ出してしまう。結局ぼくのベタ塗り課題は何箇所もムラやはみ出しがあった。課題を完成させ、片付けを終える頃には、時計の長針は一周以上回っていた。どうやら飲まず食わずで課題に没頭していたらしい。

今見れば目も当てられない出来。
確かにベタ塗りの出来はお世辞にも良いとはいえなかったが、それでも練習しただけあって溝引きとカラス口に出来は上々であると思っていた。
ゴールデンウィーク明けの最初の授業で課題の講評会が行われた。静まり返った教室で、Kは黒板に前半組全員の課題をおもむろに貼り付けていき、貼り終えるとこう言った。
「全員不合格。ただし、1人だけ修正提出を認める。だが修正したからと言って合格するわけではない。」
教室中が凍った。ぼくだけでなく、ほとんどみんなが慣れない課題を必死になって多くの時間を掛けて取り組んだことだろう。だが、皆の必死の努力はKの基準で見ればかすりともしなかったわけだ。
無論ぼくの課題も不合格だったが、返却された課題には鉛筆で色々書き込まれていた。
「はみ出しすぎ、線が太い、ムラ、線がガタついてる、もっと練習しましょう」。
第三色へ続く
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