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対立する意見を考える。“推し活=消費じゃない”派の考えとは

「推し活は消費だよね」

そんな言葉を耳にして、どこか引っかかったことはありませんか?

「“推し活=消費”って、本当にそう言い切れる?」と。


CDやグッズを買う、ライブに行く、ファンクラブに入る──

たしかに「推し活」のほとんどは、“お金がかかる行動”が中心。

それは間違いありません。


でも──

誰かの頑張る姿に励まされたり、言葉に救われたり。

そうした感情や心の変化まで“消費”と呼んでしまっていいのでしょうか?


この記事では、「推し活は消費じゃない」と感じる人たちの視点に目を向けながら、“推す”という行為に込められた想いや背景を探っていきます。



📚 “推し”という言葉について考えた記事はこちら!


📚 “推し活=消費”なのか問題を考えるシリーズ第1弾はこちら!





01.「消費」だけでは語りきれない、“推し”への想い

たとえば「推し活は消費だ」と言われることがありますよね。

たしかに、そう捉えられる理由もあります。


CDやグッズの購入、ライブ遠征といった推し活のメインとも言える行動には、どれもお金がかかります。

つまり、「推し活」には“経済活動”としての側面があるのは事実です。

経済活動における「消費」とは、人々が所得の一部を財やサービスに使うことで、経済の循環を促す行為を指すからです。

「消費」にはいくつか種類があって、「推し活」はトキ消費イミ消費に近いものがあると言えそうです。

たとえば──

トキ消費:時間や体験など、モノ以外の価値を消費すること
イミ消費:消費を通して、自己の価値観や意味を見出すこと

つまり「推し活」は、“物を手に入れる”以上に“体験”や“意味”を大事にしている行為とも言えます。


でも、それだけで“推し活=消費”と言い切るにはまだ何かが足りません。

なぜなら、“推す”という行為の根っこには、もっと個人的で感情的な想いがあるからです。


たとえば、疲れた日に推しの笑顔を見て元気をもらうこと。

「今日も推しが頑張ってるから、自分も頑張ろう」と、日々のモチベーションになっていること。

それは「何かを買ったから得られた満足」とは違う、“感情のつながり”によって生まれる体験です。


こうした側面は、株式会社博報堂と博報堂DYグループの株式会社 SIGNINGが発表した「オシノミクスレポート」でも明らかにされています。

出典:HAKUHODO & SIGNING「OSHINOMICS Report」


この視点から見れば、推し活は「何かを消費する行為」ではなく、「誰かと共に生きる感覚」に近いのかもしれません。

推し活には“消費”という言葉だけでは拾いきれない、大切な感情や意味がたしかにあります。


02.「推す」ことの本質は“受け取ること”にある

「推す」と聞くと、「応援する」「支える」「お金をかける」といった、“与える側”の行為を思い浮かべる人が多いかもしれません。

このイメージこそ、「推し活=消費」という捉え方につながりやすい理由のひとつです。

でも実際には、私たちは“推す前に、何かを受け取っている”ことの方が多いのではないでしょうか。


たとえば──

  • 疲れた日、ふと目にしたパフォーマンスに心を救われた

  • 無気力だった時期、推しの姿勢を見て「自分ももう少し頑張ってみよう」と思えた

  • その人の言葉や生き方に、ただただ励まされた

こうした“受け取った体験”を経て、「この人を応援したい」という気持ちが生まれます。

そしていつしか、その存在が“推し”になっていくんですよね。


つまり、「推す」という行為の出発点には、“自分が何かを受け取った”という実感があります。


これは感情だけの話ではありません。

博報堂とSIGNINGが発表した「オシノミクスレポート」でも、“推し”の存在が人の行動や感情に与える影響はデータとして示されています。

出典:HAKUHODO & SIGNING「OSHINOMICS Report」

調査によると、「推しがいる人」は「推しがいない人」よりも幸福度が20ポイント以上高かったという結果も出ています。


こうして見ると、推し活の出発点には心に変化を起こしてくれた誰かとの出会いがあるのかもしれません。

そしてその“受け取った体験”こそが、やがて「この人を推したい」という気持ちにつながっていきます。


だからこそ「推す=消費する」と一括りにされると、どこか釈然としない気持ちになるんです。

まるで「あなたの応援って、経済行動でしかないよね」って、その人への想いまでも切り捨てられてしまったような気がするから


“推す”という行為の本質は、与えることではなく“受け取ったことがある”という実感の方にある気がします。

その本質に目を向けることで、私たちが推しに託している気持ちや意味をもっと丁寧に言葉にできそうです。


03.“消費”という言葉に対する違和感の正体

「推し活=消費」という意見になんとなくモヤモヤするという人もいます。

では、この違和感はどこから来るのでしょうか。


それはきっと、“お金が介在しない「推す」行為もある”という実感があるからなのかもしれません。


たとえば──

  • 推しのダンス動画を何度も観て、感動を味わう

  • SNSで推しの魅力を語り、他の人と共感し合う

  • 誕生日にお祝いコメントを送る

  • 離れていても、そっと日々を応援し続ける

こうした行為には、お金は発生していません。

でも、これらすべて立派な“推し活”です。


そこにあるのは、経済活動としての“消費”ではなく、共感や感謝、敬意の表現。

自分の時間や気持ちを通して、「この人がいてくれて嬉しい」「この存在を大切に思ってる」と伝える行為です。


つまり、“推す”という行動の本質は、金銭的な価値を超えて“感情や精神の充足”と深く結びついているとも言えます。

だから「推し活=消費」とだけ語られると、自分の中にある“もっと大事な何か”が見落とされてしまう気がしてならない。

それが、「消費」という言葉に対して私たちが感じる違和感の正体なのかもしれません。


04.人として向き合いたい。“人物を消費している”という批判への抵抗感

「推し活」という言葉が「消費」と結びつく社会的な構造があっても、実際にファンが抱いているのは「推し」への愛情や思いやり。


「人物そのものを商品として扱っているわけではない」という反発が生まれるのは、“推す”という行為に“人と人とのつながり”を感じているからだと思います。


そんな中で、“人物を消費する”ことの危うさを象徴するような痛ましい事例が起きました。

それは2024年のこと。

RIIZEのスンハンが脱退に至った経緯です。

K-POPファンにとっては、まだまだ記憶に新しい強烈な事例だったのではないでしょうか。


スンハンは、過去の交際やプライベート写真をめぐり一部ファンから強い反発を受けました。

※スンハン本人の行動についての是非は、今回の論点とは異なるためここでは扱いません。

1年弱、活動を自粛していたスンハンが活動再開するというニュースが出た直後、RIIZEの所属事務所であるSM Entertainmentの本社に300基以上の“葬儀用の花輪”が送られ、入口に並べられるという抗議行動が発生しました。

そして活動再開のニュースからわずか2日後には、スンハンのグループ脱退が発表されました。


この行動は、スンハンの行動に対するただの失望や批判ではなく、“人物そのもの”の尊厳を否定し、回復の余地すら奪う過剰な介入だと言えます。


故人を弔うための“葬儀用の花輪”を「生きている人に送る」という、倫理観に反した行動。

あえて強く言うなら、それは“人として超えてはいけない一線”を踏み越えた行動だったと言えるでしょう。

ほんの少し立ち止まって考えれば誰でもわかる、ごく当たり前のことです。


All Aboutの特集記事『「葬儀用の花輪」がアイドルを追い詰める? 復帰決定から2日で急展開「RIIZE脱退劇」に見る根深い問題』では、この抗議手法の背景について以下のように説明されています。

元々は対企業、または政治に対するデモや抗議活動の際に使われていました。諸説ありますが2000年代から出始めたと聞いています。最初は大きな権力や組織に対して、弱い立場の人たちが集まって少しでも意見を届けよう、声を無視されまいとするための苦肉の策だった

出典:「葬儀用の花輪」がアイドルを追い詰める? 復帰決定から2日で急展開「RIIZE脱退劇」に見る根深い問題

しかし、これは本来“個人を攻撃するため”に使う手段ではないはずです。

それでもRIIZE スンハンの件では、「抗議」という名のもとに、人間の存在そのものを否定するメッセージになってしまった。


ここで浮かび上がるのは、“推していた存在が理想通りに振る舞わなかった”ことへの消費者的な怒りのような感情です。

つまり、「自分が費やしたお金や時間、感情に見合わない行動をされた=価値がなくなった」と判断され、まるで“裏切られた商品”のように扱われてしまったのではないでしょうか。


純粋に応援していたはずの“人”が、いつのまにか“理想通りに動いてくれる存在”へとすり替えられてしまう。

それは、本当に人として向き合っていた推し方だったのでしょうか。


この事件が私たちに突きつけたのは「推すことがいつのまにか、人物を条件つきで評価する行為にすり替わってしまう危うさ」です。

だからこそ「消費」という言葉に違和感を覚えるファンが、人としてひとりの存在と向き合いたいと願う気持ちは、とても自然で大切にされるべきものだと思います。


05.“推し活=消費じゃない”派の視点が教えてくれること

“推し活=消費じゃない”という考え方は、感情的な拒絶だけではありません。

ひとつの見方の違いとして、静かに差し出されているものでもあります。


たとえば、自分自身にこんな問いを投げかけてみたことはあるでしょうか。

「私は“商品”にここまで感情移入するだろうか?」

「努力に胸を打たれたり、存在に救われたりした経験を、“ただの消費”と呼べるだろうか?」

“推し活=消費じゃない”派の人たちが見ているのは、その問いの先にある人と人との関係性です。


たとえば──

  • 今日も頑張ってステージに立っている“誰か”の姿

  • そこに至るまでの努力や背景

  • それを見て心が動いた、自分自身の感情

この視点に立てば、「お金を払った=消費した」という単純な構図では語りきれないものが見えてきます。


実際に、博報堂とSIGNINGが発表した「オシノミクスレポート」でも“推す”という行動は「能動的で積極的な愛情の表現」であり、単なる“買う・使う”では語れない心理的価値を生んでいることが示されています。

つまり“推す”とは、相手の表現を受け取り、支え、そして誰かと共有すること。

そう考えると、推し活における私たちは“消費者”というより、“受け取り手”なのかもしれません。


“推し活=消費じゃない”という考え方は、応援することのなかにある関係性の豊かさに、改めて気づかせてくれる視点かもしれません。


まとめ|推し活とは、“人と向き合う行為”でもある

「推し活は消費だ」と言われることがあります。

たしかに、経済的な側面だけを見ればそう見える場面も少なくありません。

でも実際に“推す”という行為の中にあるのは、それだけでは語れない感情や関係性です。


誰かの姿に励まされたり、言葉に救われたり。

その体験を通して、「応援したい」「力になりたい」と思う気持ちが生まれていく。

それは、ただの“消費行動”ではなく、誰かと心を通わせようとする、ごく人間的な行動です。


たとえお金を使っていたとしても、そこにあるのが“人と人とのつながり”である限り、推し活は“人と向き合う行為”でもあります。

だからこそ、「消費」という言葉だけでは包みきれない気持ちが私たちの中にあるのではないでしょうか。


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