牛にひかれて善光寺と聖徳太子
本田善光と仏像──水に捨てられた光
善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、絶対秘仏だ。住職たちも誰一人として見た事がない、百済から日本へ伝わったとされる日本最古級の仏像だ。
伝承によれば、この仏像は難波に到来したが、やがて朝廷の命で川に投げ捨てられた。なぜか。
当時、仏教の受容をめぐっては激しい対立があった。物部氏は神道を重んじ、仏像を「国神に背く異物」として排斥した。一方、蘇我氏は外来の新しい権威として仏教を推した。
その用水路に捨てられた仏像を拾い上げ、信濃へ運んだのが本田善光である。
用水路に棄てられた仏像──それを信濃で祀り上げることは、当時の中央権力への静かな反逆でもあったはずだ。
牛と洞窟と光の物語
長野県の東信地方、小諸市に「布引観音」と呼ばれる断崖絶壁に張り付いた、小さな修験道の寺がある。正式には天台宗釈尊寺。ここは、善光寺参りにまつわる奇妙な伝説の出発点でもある。
ある日、川原で洗濯をしていた意地汚い老婆のもとへ、一頭の牛が現れる。牛は彼女の布を角にひっかけたまま、走り去る。老婆は布を取り戻そうと必死で追いかけるが、牛は止まらない。息が切れ、もう限界かと思った瞬間、光が差し込む。気づけばそこは長野の善光寺だった──牛は観音の化身であり、老婆は信心に目覚めた、という話である。(この話で最も人間離れしているのは、老婆であり、彼女こそが何かしらの化身であるべきだが…。)
またこの布引観音の道中に善光寺穴という洞窟があり、善光寺が火事になったときに、この洞窟から煙が出てきたという逸話がある。布引観音から善光寺までは約60km。実際には考えづらい。だが重要なのは「洞窟」「牛」「光」という三つの要素だ。老婆が暗闇を走り抜け、光へ導かれる構造は、まるでペルシャの密儀(ミトラ、マニ教)のように響く。
布引観音の岩場に立つと、眼下には千曲川が流れ、岩肌に穿たれた洞穴が点在している。そこに牛が駆け込む光景を想像すると、老婆が闇を抜けて「光の寺」に導かれたという伝説が、ただの寓話ではなく「儀式的な通過体験」として浮かび上がってくる。古代の人々にとって、洞窟とは死と再生の門であり、牛は力と犠牲の象徴、そして光は救済。
聖徳太子と古代ペルシャ
善光寺と、それにゆかりのある寺の歴史には聖徳太子の名前がよく出てくる。
釈尊寺の建立にも太子の名が出てくるし、長野市の善光寺本体にも「太子が参詣した」という伝承が残っている。全国各地に太子伝説は散らばっているが、善光寺との結びつきはとりわけ強い。
聖徳太子は実在か虚構かをめぐって議論が絶えない人物だが、「仏教の受容を正当化する象徴」として造形されたことは確かだ。ただ、太子が伝えた仏教は本当に仏教だったのであろうか?既に聖徳太子と、イエス・キリストの共通点については有名だ。たとえ伝説上の人物であったとしても、それがキリスト教の素養のある人間が作った事を象徴が示している(馬小屋生まれ、木工職人、奇跡的な力、数字などに見る象徴etc)。でもなぜそれが仏教に?最もよく言われるのが景教(ネストリウス派)の影響だが、僕としてはマニ教もあるのではないかと思っている(マニ教についてはまた別記事で)。
それから、太子像には二重の性格がある。政治改革者・律令制の設計者という「国家の建設者」としての相貌と、未来を予言し、光を媒介する「預言者」としての相貌。つまり超能力者だ。マニ教が世界に説得力を持たせていた最大の要因は、開祖が存命の時代から経典の外国語翻訳を積極的にしたからだと言われている。だがそれとは別に、彼らが実際に奇跡を起こす力を持っていた可能性も指摘されている。禁欲と鍛錬によって、未来や過去、人の心を見通したり出来る様になるのは特別不思議なことではないと僕は思うし、そういう事ができれば信者も増えたであろう。
廃仏毀釈と聖徳太子信仰の弾圧
明治時代の神仏分離に端を発する廃仏毀釈を振り返ると、修験道系の寺、神宮寺、大師堂は壊され、善光寺、聖徳太子もその標的となった。
太子の存在は「日本仏教の源流」を体現する象徴。そしてこの系譜の仏教には奇跡の類の伝説が多い。もしそこに仏教を超えた異端的な思想──古代中東から渡ってきた密儀的要素が含まれていたなら、国家神道を打ち立てようとした明治政府には極めて都合が悪かったはずだ。
仏教的な太子像を抹消することは、外来宗教と日本のアイデンティティを結びつける「異端の回路」を切断する作業でもあったのだろう。また、漢訳仏教を文化のベースにしているとなると、大陸から弟分扱いを受ける可能性もあるし、仏教は宗派が多く中央集権に向かない。本願寺や比叡山など、影響力の大きな寺同士の意向のすり合わせコストも高くつく。権力の一本化の為に、国家神道を打ち出した。
ただ、神道は基本的に死を<穢れ>として請け負わない。例外的に靖国神社には、<英霊>という形で祀られているが、それ以外の墓の先祖供養は未だに仏教が請け負っている。廃仏毀釈の後も、仏教寺院は国民の死を請け負う生活インフラとして今も残っている。
廃仏毀釈の際、国宝級の仏像などは三分の一程が破壊、盗難で海外に流れているという。あの有名な、聖徳太子だとされる絵も、明治時代にその紐付けがなされ実態は定かではない。そして、それ以前に信仰されていたとされる<太子像>なるものは、あの絵の聖徳太子とは大分違う見た目をしている。
果たして、聖徳太子は未だに日本にとって都合の悪い存在なのだろうか?
